「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

明治以降に於ける陽明学の展開について

2011-04-06 18:39:56 | 【連載】 先哲に学ぶ行動哲学
先哲に学ぶ行動哲学―知行合一を実践した日本人 第二十三回 (『祖国と青年』23年3月号掲載)

 明治以降に於ける陽明学の展開について



 私は二十歳の時に書店で『陽明学入門』と出会い、王陽明の言葉に人生の指標を見出し、独学で陽明学に参究した。

爾来、「立志・勤学・改過・責善」「存天理去人欲」「知行合一」「事上磨錬」「抜本塞源」「致良知」の言葉は私の生涯の公案となっている。

陽明学は「学問」すべきものではなく、「実践」すべきものである。自らの心を磨き上げ、人徳を涵養し、日本人らしい日本人となって日本の国を救う力を養成する為に私は陽明学を学んでいる。

陽明学に関する書物を読み漁り、知識を身に付けた丈の学者は「陽明学者」とは言わない。陽明学は、「学問の対象」と見做した徒端にその本質から外れて行くのである。

私は、平成二十三年度の「先哲に学ぶ行動哲学」に於て、乃木希典・新渡戸稲造・根津一・安岡正篤・三島由紀夫の各氏を取り上げてその生き方と残された言葉に学んで行きたいと考えている。私はこれらの方々の言葉に触れて行く内に、その人物の「魂の高潔さ」に魅了されて来た。学べば学ぶ程、私の魂が強く共振する。今回は、明治以降の時代の流れを概観する中で、これらの人物が陽明学の脈流の中で重要な位置を占めている事について解説し、今年度連載の導入として行きたい。


      底流化し噴出した幕末陽明学の素養

 明治維新を成し遂げた人々(武士)は、国体に対する絶対なる確信(史学・水戸学)と日本人としての豊かな情操(国学)そして道義的な生き方を誇りとする人生哲学(儒学・陽明学)を体得していた。更に武士達は国家(公)に対する強い責任意識を持ち「敵」に勝つ為の実践論(兵法)を身に付けていた。それ故に、西欧列強の「力」に対応し勝利する為に、彼らは積極的に西欧を研究し、その技術力(洋学・蘭学・医学)を学び取り入れて行った。所謂「和魂洋才」「東洋道徳西洋芸術」である。

だが、西洋文明の背景にはキリスト教(一神教)が存し、絶対神と繋がる強固な自我(個人主義)、他者の征服を「神の恩頼」と見做す人種差別・選民思想が隠されていた。明治以降の日本人にとって、西欧文明を学ぶ事は、それ迄培ってきた東洋思想・日本哲学との「文明の衝突」を持ち来たすものだった。取り分け、維新後の十年は、西欧文明の手法を身につける為に総てが「西欧化」一辺倒となり、日本なるもの東洋なるものは捨てて顧みられる事が無い精神的な混乱の時代が続いた。

幕末期に生れた各種学問所は明治になって「維新復古の精神を担ふ」為の大学本校(国学漢学)と「維新開国の精神を担ふ」為の大学南校(洋学)・東校(医学)に統合された。だが、大学本校は明治三年に閉鎖になり、国学漢学関係の有識者は殆んど文教の府を去った。明治十年には東京大学(法・理・文・医)が誕生し、十九年に帝国大学令が発布され、その第一条に「国家ノ須要ニ応スル学術技芸ヲ教授シ及其蘊奥ヲ攻究スル」と記され、「学術技芸の理論及び応用」を目的に法科・医科・工科・文科・理科(二十三年に農科)が設置された(尚、国史学科が設けられ国史編纂事業に着手したのは二十二年の事である。)。明治初年から十年代までのわが国の最高学府である大学では、お雇い外国人教師から欧米語を通じて西欧の学問だけを学んでいたのだ。そこでは日本の国に自信と誇りを与える様なものは何も無かった。最高学府がその状態であるから教育自体が極めて混乱し、人心が乱れて行ったのである。

 だが、明治の初期を担った人々には武士道とも言うべき江戸時代の漢学の素養が身に付いて居た。そして、陽明学で培われた「心学」は、形を変えて表出して行った。陽明学の理想主義の精神は、魂の高貴さを説く「基督教」や万民の自由・平等を説く「自由民権運動」「アジア主義」へと青年たちを誘って行った。

大橋健二著『良心と至誠の精神史 日本陽明学の近現代』(勉誠出版)によると、明治の基督教の指導者達は、その殆んどが陽明学の素養を身につけていたという。この著書の中で紹介されているのは本多庸一・海老名弾正・松村介石・内村鑑三・植村正久・柏木義円・新渡戸稲造、更には基督教文学者の北村透谷・国木田独歩である。彼らは、陽明学の「良知」と基督教の「良心」とを同一のものとして捉え、高貴なる魂を求め続けた。彼らは基督教徒であると共に武士道を体現する日本人であった。新渡戸稲造は『武士道』を、内村鑑三は『代表的日本人』を著し、日本人の魂の高貴さを世界に発信した。

これらの人物の中で私は、新渡戸稲造の人格に強く魅かれている。新渡戸は「内なる光」に従って祖国日本に人生を捧げた農学者・教育者・国際的有識者であった。

一方、陽明学の社会正義を求める強い生き方は自由民権運動の闘士達にも引き継がれている。大橋氏は中江兆民・植木枝盛を掲げ、更には「リベラル・ナショナリスト」岡倉天心・陸羯南・三宅雪嶺と陽明学との関係を指摘している。栗田尚弥「田中正造と陽明学」(『田中正造の世界ⅤOL17』)では「(田中)正造の言葉に見る陽明学的要素」が紹介されている。栗田氏は陽明学を「熱狂的な精神的救世運動に転じる」思想である、と指摘する。更に、大橋氏の著書及び猪城博之「儒学思想から見た明治以降の日本思想史」(岡田武彦編著『陽明学の世界』所収・明徳出版社)には陽明学的な流れとして、西田幾多郎の哲学と夏目漱石の「則天去私」が紹介されている。

かくて、陽明学の水脈は明治第一世代の先哲達の魂の底流として、様々に噴出して行ったのである。


     日本人の倫理道徳の復権

 次代の国民精神を如何に涵養して行くかは、国家存続の意味で重大な問題である。時代は陽明学のみならず、漢学の伝統素養を抹殺し、西欧流の功利主義・自己中心主義・拝金主義という無倫理へと流れようとしていた。

その時代風潮を最も危惧されたのが明治天皇であらせられた。陛下は、明治十一年の東北、北陸、東海道御巡幸の直後に岩倉具視や侍講の元田永孚に民政教育についてのご憂念を示された。そこで、元田は陛下の聖旨を「教学大旨」「小学条目二件」として成文化し奉呈した(十二年九月十一日)。

「教学大旨」には「自今以往、祖宗の訓典に基づき、専ら仁義忠孝を明かにし、道徳の学は、其才器に随て益々長進し、道徳才芸、本末全備して」と記されている。更に明治天皇は、元田永孚に幼児のための教訓書編纂の勅諭を下された。元田の編集案を元に衆智を結集して十五年七月に『幼学綱要』が完成した。幼学綱要には「孝行」「忠節」「和順」等二十の徳目が示され、それぞれに、「経書(四書五経)」からの金言や和漢歴史の中の忠臣・孝子・烈婦等の言行が紹介された。「幼学綱要頒賜の勅諭」も下され、幼学綱要は官公私立学校を始め広く一般に普及し、国民教育に大きな影響を及ぼした。

更に小学校では「修身」教科書が生み出されて行く。

同じ十五年には、武士道の伝統に基づく「軍人勅諭」(忠節・礼儀・武勇・信義・質素の五カ条、「誠心」に帰一)が下され、国民皆兵の日本軍隊の精神的な支柱が明確にされている。

だが十八年に森有礼文部大臣が誕生するや、修身教科書の使用禁止を通達するなど徳育教育は再び混乱を始める。

二十一年頃から心ある知事の間で憂慮の声が上がり始め、遂に二十三年二月の地方長官会議で「徳育涵養ノ議ニ付イテノ建議」が為され、教育勅語の発布へと繋がって行ったのである。起草した井上毅や元田永孚が如何に苦心し精魂を傾けて勅語案を考えたか、明治神宮編『明治天皇詔勅謹解』に詳しく記載されている。

教育勅語の発布は、西欧文明に対する国民精神の防波堤となり、国民精神の高揚を期す国民の様々な動きを生み出して行く。私が今在住している熊本県の西合志村黒松(現在は合志市)では、教育勅語の発布に感激した二人の青年教師が「一心ニ教育勅語ノ御精神ヲ奉体シテ之レヲ実行スルコト」を掲げて私塾「合志義塾」を設立している(二十五年四月)。軍人勅諭と教育勅語は、明治天皇の深い大御心の下で、日本国民の伝統的な倫理観を示したものであった。

その大御心に副い奉る事を自らの生涯の任務としたのが、乃木希典である。長州藩に生れた乃木は玉木文之進の薫陶を受け、吉田松陰の士規七則を規範として育った。勿論、松陰門下に流れる陽明学の精神が受け継がれた。明治二十一年、乃木はドイツ留学から帰国し、日本軍隊の精神的な支柱は、天皇に対する絶対の忠誠にありとの確信を抱き、爾来「軍人勅諭」を体現する軍人として、更には「教育勅語」を体現する教育者(学習院院長)として至誠を尽くして生きた。


      陽明学による人心救済の志

 教育勅語の発布によって、日本の伝統的な思想や東洋哲学の復興に再び力が注がれる様になり、明治二十年代中頃には『東洋哲学』『朱子学』『陽明学』等の機関紙が相次いで発刊され、道義心の涵養と道義国家の建設が強く訴えられた。だが、日清戦争の勝利は支那文明への蔑視を生み、力のみが全てを制する西欧的な帝国主義の考えが人々の心を支配する様になって行く。

更に、それは日露戦争の勝利後の日本人の驕りとなって行く。その中にあって、陽明学派の人々は最も熱烈に時代救済の狼煙を上げていった。

『陽明学』は吉本襄の手によって明治二十九年七月に鉄華書院から編集発刊され、明治三十二年五月迄続いた。更にその志を継いだ東敬治が『王学雑誌』を明治三十九年三月に明善学社から発刊した。四十一年五月に明善学社は陽明学会に発展し、四十一年十一月からは『陽明学』と改題して発刊し続けられた。

一方大阪でも、大塩中斎の後学を自認する石崎酉之允等が中心となり、四十年六月に洗心洞学会が誕生、四十一年十二月には大阪陽明学会と改称し、大正三年三月より『陽明』が出版され、八年一月からは『陽明主義』に改題している。これらの出版は昭和三年迄続いた。「これらのものはひとしくみな陽明学を復興することによって欧化主義に汚染された世道人心を革新し、国民精神を作興して国体を護持し、国威を海外に発揚することを目的として発行せられたものである」(岡田武彦「わが国の陽明学受容略史」『岡田武彦全集21巻江戸期の儒学』所収)。
  
この間、日清戦争後の支那の変化を見据え、日本と支那の提携を計りその架け橋となる人材を養成して行く動きが生れて来る。明治三十一年に貴族院議長近衛篤麿を会長に東亜同文会が発足、三十四年には上海に東亜同文書院を設立し、全国の知事から推薦を受けた学生等を集めて将来の日支提携の架け橋となる人材の養成が始まる。その初代院長が陽明学で人格を磨き上げた根津一である。根津は大正十二年迄院長を務め、その実践躬行の教えは「根津精神」として青年達に刻まれて行く。

学会に於いては、山田方谷の弟子である三島中洲が明治十年に二松学舎を創建、三島は明治・大正の両天皇に対し七回の進講を行い、宮中に陽明学を紹介している。三十三年には東京帝大教授の井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』が出版されている。

 
    敗戦と陽明学の戦後への受け継ぎ

 昭和二十年の敗戦・米軍による占領は日本人の自信を喪失せしめ、再び欧米化の波が日本人を襲う。その様な中にあって漢学・陽明学の伝統を守り政界や財界のリーダー達を教え導いたのが安岡正篤である。

安岡は東京帝国大学在学中の大正十一年、二十五歳の若さで『王陽明研究』を発表し高く評価された。学者の道を選ばず、大川周明等と志を同じくし、金鶏学院を設立した。敗戦による国民精神の混乱の中、深い漢学の素養に基づいて戦後日本を立て直す精神の指針を説き続けた。安岡の存在によって、日本人の漢学・道義学の道統は戦後の人々へと受け継がれたのである。昭和二十四年に師友会(二十九年から全国師友協会)を設立して『師友』(『師と友』)を発刊。五十八年十二月に逝去し全国師友協会は解散したが、関西師友協会は存続し、『関西師友』を出し続けている。この間、安岡の指導で二十九年十二月に明徳出版社が設立され、同社により王陽明生誕五百年の四十六年には『陽明学大系』全十二巻が、五十八年からは『王陽明全集』全十巻が刊行された。五十三年四月には、二松学舎大学に陽明学研究所(顧問に安岡正篤氏)が設置され、平成元年から『陽明学』を毎年出版している。

昭和四十五年十一月二十五日、占領憲法解体を叫び三島由紀夫が陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で壮絶な自刃を行った。世に言う「三島義挙」である。三島は四十三年五月二十六日付で安岡正篤に手紙を書き

「小生のはうは、先生の御著書を手はじめとして、ゆつくり時間をかけて勉強いたし、ずつと先になつて、知行合一の陽明学の何たるかを証明したい」(林繁之『安岡正篤先生動情記』)と述べている。

三島が陽明学を本格的に研究し始めたのは三十八年と言われている(宮崎正弘『三島由紀夫はいかにして日本回帰したのか』)。三島は西郷南洲、吉田松陰そして大塩中斎に魅かれて行く。亡くなる年の『諸君!』九月号に「革命哲学としての陽明学」を掲載した。

安岡正篤と三島由紀夫は、江戸の陽明学に譬えれば、安岡が佐藤一斎、三島が大塩中斎に当るであろう。佐藤一斎の教えが志士の人生観を涵養し、大塩中斎の窮民救済の狼煙が幕末維新の先駆けであった如く、国家救済を志す吾々が両者に学ぶ意義は大きい。

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