「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

英霊は生きてゐる―県民の至誠に天が感応した(『祖国と青年』平成17年9月号掲載)

2006-06-10 20:02:12 | 【連載】 日本の誇り復活 その戦ひと精神
「日本の誇り」復活 その戦ひと精神(3)
英霊は生きてゐる―県民の至誠に天が感応した

「戦没の父にとどけよこのおもい!
 戦後60年父の生きた『とし』を私は倍も生きました。たった一人、ひとつぶの私も子3人孫3人にめぐまれ、本日こうして父のことばかりを思って泣くことが供養だと。つくづく感謝いたします。」
これは、八月六日午後に熊本県立劇場コンサートホールで開催した「英霊に感謝し戦争で亡くなられた全ての方々に慰霊の誠を捧げる集い」に参加された六十四歳の女性の方の感想である。この他にも多くの方から感動したとの声が寄せられた。参列された一八〇〇名の方々は、英霊の事を心行くまでお偲び申し上げ、感涙しつつ「集ひ」の時を過ごされたのであつた。この「集ひ」は日本会議熊本が事務局を担ふ「終戦六十年記念事業実行委員会(会長 永野光哉氏)」の主催によるものであり、私がその運営委員長を務めた。午後一時から五時過ぎまで慰霊祭・式典、更に二方の講演、子供たちによる奉納と、心を込もつた意義深い催しが続いた。戦中派の方々と戦後生まれの者達が世代を超えて、祖国日本のために殉じられた方々に慰霊の誠を捧げる場を提供したいとの私達の願ひは、ここに結実して成功を収める事が出来た。
 終戦六十年を迎へるに当たり、私達は次の三点を目標に掲げた、一つは英霊に思ひを寄せる県民が誰でも参加出来る場を提供し、かつ真心のこもつた慰霊の「集ひ」を開催する事。二つは、英霊の精神を次世代に伝へる事業を行ふこと。三つは、吾々が尊敬する戦中派の方々の思ひを記録として後世に残す事。そして、八月六日の一八〇〇名規模の慰霊の集ひ、九月初旬の特攻基地知覧・万世での中高生研修会、来年三月までの証言ビデオ収録、の三つの事業を決定した。これらの経費は約五〇〇万円が見込まれた。
 だが、様々な運動課題に取り組んでゐる日本会議熊本事務局が終戦六十年記念事業に集中出来たのは、六月を過ぎてからだつた。六十日で一八〇〇名と資金五〇〇万円を如何に集めるのか。その重圧に押しつぶされさうになる日が続いた。それ故にこそ毎朝朗唱する日本協議会綱領の言葉が私を鼓舞し続けた。「一、 吾々は、英霊の精神を顕彰し、新憲法、新教育基本法の制定、もつて真の独立国家日本を創造する行動家たらんことを期す」「一、吾々は、祖国のいのちにつらなる高き志を次代に伝える責任者たらんことを期す」と唱へる毎に力が湧いて来た。英霊を顕彰し次代に英霊の志を伝へる為の事業には必ず共感される方がをられるはずである。県民の真心を信じやうと。
 結果的には、「集ひ」当日の参加者が一八〇〇名、資金も現在四六〇万円が寄せられ、三つの事業の目途を立てる事が出来てゐる。当日は県副知事・県議会副議長・国会議員九名(本人二名)・県議会議員八名(本人)・市町村関係者六十名、陸上自衛隊からも西部方面総監・第8師団長が参列され、半公共的な集ひとする事も出来た。終戦六十年に当り、公職者に出欠の有無を迫つて意識を喚起し、多数の参加を得た事も成果の一つであつた。
 「集ひ」では、第一部の慰霊祭・式典の時に、天が俄にかき曇り雷鳴が轟き、土砂降りの雨が降り注いだ。慰霊祭は、熊本県神社庁十四支部の全てから代表を出して奉仕されたものであり、雅楽の奏楽で進行し浦安の舞も献じられ、荘厳かつ真心のこもる祭典であつた。更には、慰霊祭と式典に陸上自衛隊第八音楽隊が出演して国歌・海ゆかば・国の鎮め・鎮魂同期の桜を吹奏された。参列者は深い感動の中で英霊をお偲び申し上げた。
 丁度同じ日、福岡でも日本会議福岡主催の「終戦六十年の集ひ」が開催され、ここでも慰霊祭の時に雷鳴が轟き豪雨になったといふ。梶栗事務局長によれば、十年前の終戦五十年の祭典の際も雷雨となり、それが再現されたとの事である。国民の慰霊の真心が結集された時、英霊は誠心を聞こし召され、雷雨となつて私達に英霊の声を示されるのである。
 日本会議が呼びかけ、史上空前の二十万五千名の参拝者が集つた八月十五日の靖国神社での国民の集ひでも、行事終了のその時に雷鳴が轟き、場を清めるが如き雨が降り注いだと言ふ。十七年前の八月十五日にも私は同様の体験を靖国神社で味はつた。この年、昭和天皇は病に冒された玉体を押して、那須の御用邸からヘリコプターで日本武道館に到着され、全国戦歿者追悼式典にご出席になられた。正午の時報に合はせて天皇皇后両陛下が祭壇の前に進まれんとした刹那、靖国神社の上に雲が湧き起こり雷鳴が轟き土砂降りの雨が降り注いだのである。雨は、天皇陛下のお言葉の間中降り注ぎ、お言葉が終ると同時に止んだ。命がけで戦歿者の慰霊に立たれた昭和天皇の御姿に英霊が感応され天地が涙したのだつた。 
 英霊は生きて居られるのである。熊本の会場では、式典の際、青年代表として九州福祉大学四年生の山下まさより正順君が登壇し、靖国神社への思ひと、父である故山下たかゆき巍介氏が終戦五十年の際に命を削つて取り組まれた忠魂碑・慰霊碑写真集作成時の不思議な体験の一つを紹介した。ある町で中々見つからない忠魂碑を探し出された際、突然カミナリが鳴り雨が降り出した、その忠魂碑は破壊され、忠の部分だけが倉庫の横に捨ててあつたのだつた。故山下巍介氏の「英霊は生きてゐる」との悲痛な叫びを長男の正順君が十年の時を隔てて紹介したのだつた。参列者は静まりかへり涙した人も多かつた。
 英霊はとこしなへに生き、祖国日本の行く末を見守られてゐるのである。集はれた一八〇〇名の方々はさう確信して帰られたと思ふ。そして、この集ひを企画した吾々には、参加者と感応された英霊の方々の祖国日本再生へ向けた熱き願ひを実現する責務を負はされたのである。戦ひの継続、それのみが英霊にお応へする唯一の生き方なのである。
捧げつるまことごころ誠心を聞こし召し天とどろきて神も涙す
真心をうべなひ給ふ英霊の熱き願ひを負ひて進まん
英霊を汚すしこぐさ醜草なぎ払ひ生命の限り吾れは叫ばむ

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