「道の学問・心の学問」第三十六回(令和3年1月22日)
伊藤仁斎に学ぶ⑧
「学問は須く活道理を看んことを要すべし。」 (「童子問」下巻第二十五章)
仁斎は、日々刻刻移り変わる万物の姿の中に世の中の真理があると指摘し、「活物」「活法」「活道理」を強調し、それに反する「死物」「死道理」を拒否した。
仁斎は言う。「心は活物(生きて活動しているもの)であり、学問は活法(活用する方法)である。活法である学問の力で活物たる心を修めなければならない。それは草木を養う様に灌漑培植(水を注ぎ土地を潤す)に務めて、くじき折ったり撓めたり曲げたりして其の生気を断ち切り喪わせてはならない。」と。活きている心を生き生きと伸ばし生長させて行く事の必要性を強調する。その為には、「生きた道理」を看なければならない。
「枯草や金石などは固定された物であり増減する事は無い。それらは死物である。しかし、人間はそうでは無い。進まない時には退き、退かなければ必ず進む。一息として停まる事は無い。死物の様にそのままでいる事は無い。それ故、君子(立派な人物)は過ちの無い事(固定)を貴ばずに、能く改める事(変化)こそが貴い事だと考える。人間が謹厳すぎて寛容温柔の気象が無いのは、死んだ道理に執着して生きた道理を見てない為に考えが固まってしまうのである。君子たる者は終日怠らず努力し、畏れ謹んでいるものである。活きた道理を見ている人間は、心には余裕がありゆったりとしている。その様な人物の言葉は一見凡庸に見えるが、実は意味が行き届いているものである。」
仁斎は、禅で使用される「明鏡止水」の言葉を否定する。鏡は能く影(光)を写す事は出来ても、物を照らす事は出来ない。日月が光を放ち、灯や燭台が遠くを照らす様になる事は出来ない。鏡は生きた物ではないからだ。止水は源が無く停止して蓄えているだけであり、死物に他ならない。一方、流水は源があって流れ動いている。活物である。人間の心は活物なのだから、自ら光を発し、滾々と湧き出る流水の如く、明朗清新であるべきなのである。
仁斎は、激しい求道心を内に秘め、生涯真実を求めて探求し続けた。だが、その激しさは表面には決して現れなかった。仁斎は、万物流転の姿こそが、真の生命の姿であると考えていた。それ故、現状では未熟に見える者達でも、必ず変化し立派になって行く事を信じる事が出来た。そして、それを助ける為に力を尽くした。仁斎の物の観方は「生命の哲学」とも言うべきものであり、世俗を超脱するのでは無く、世俗の中で無限に自他共なる成長を求め続ける為の学問であった。仁斎の「進まない時には退き、退かなければ必ず進む。一息として停まる事は無い。」の言葉を肝に銘じて日々前進して行きたい。
伊藤仁斎に学ぶ⑧
「学問は須く活道理を看んことを要すべし。」 (「童子問」下巻第二十五章)
仁斎は、日々刻刻移り変わる万物の姿の中に世の中の真理があると指摘し、「活物」「活法」「活道理」を強調し、それに反する「死物」「死道理」を拒否した。
仁斎は言う。「心は活物(生きて活動しているもの)であり、学問は活法(活用する方法)である。活法である学問の力で活物たる心を修めなければならない。それは草木を養う様に灌漑培植(水を注ぎ土地を潤す)に務めて、くじき折ったり撓めたり曲げたりして其の生気を断ち切り喪わせてはならない。」と。活きている心を生き生きと伸ばし生長させて行く事の必要性を強調する。その為には、「生きた道理」を看なければならない。
「枯草や金石などは固定された物であり増減する事は無い。それらは死物である。しかし、人間はそうでは無い。進まない時には退き、退かなければ必ず進む。一息として停まる事は無い。死物の様にそのままでいる事は無い。それ故、君子(立派な人物)は過ちの無い事(固定)を貴ばずに、能く改める事(変化)こそが貴い事だと考える。人間が謹厳すぎて寛容温柔の気象が無いのは、死んだ道理に執着して生きた道理を見てない為に考えが固まってしまうのである。君子たる者は終日怠らず努力し、畏れ謹んでいるものである。活きた道理を見ている人間は、心には余裕がありゆったりとしている。その様な人物の言葉は一見凡庸に見えるが、実は意味が行き届いているものである。」
仁斎は、禅で使用される「明鏡止水」の言葉を否定する。鏡は能く影(光)を写す事は出来ても、物を照らす事は出来ない。日月が光を放ち、灯や燭台が遠くを照らす様になる事は出来ない。鏡は生きた物ではないからだ。止水は源が無く停止して蓄えているだけであり、死物に他ならない。一方、流水は源があって流れ動いている。活物である。人間の心は活物なのだから、自ら光を発し、滾々と湧き出る流水の如く、明朗清新であるべきなのである。
仁斎は、激しい求道心を内に秘め、生涯真実を求めて探求し続けた。だが、その激しさは表面には決して現れなかった。仁斎は、万物流転の姿こそが、真の生命の姿であると考えていた。それ故、現状では未熟に見える者達でも、必ず変化し立派になって行く事を信じる事が出来た。そして、それを助ける為に力を尽くした。仁斎の物の観方は「生命の哲学」とも言うべきものであり、世俗を超脱するのでは無く、世俗の中で無限に自他共なる成長を求め続ける為の学問であった。仁斎の「進まない時には退き、退かなければ必ず進む。一息として停まる事は無い。」の言葉を肝に銘じて日々前進して行きたい。
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