「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

石田梅岩に学ぶ①

2021-07-06 12:18:55 | 【連載】道の学問、心の学問
「道の学問・心の学問」第六十回(令和3年7月6日)
石田梅岩に学ぶ①
「我講釈をはじむる時、ただ見台とさし向ひとおもひしに、聴衆一人にてもあれば満足なり」
                                         (「石田先生事蹟」)

 国民教育家の森信三は、『幻の講話』第4巻第22講で「石田梅岩先生」を取り上げ、「教育者として最も尊敬する」人物と紹介している。更に、「先生の伝記として最も卓れたもの」として「石田先生事蹟」を挙げ、「わが国における「伝記」中の白眉」と述べている。この伝記は、元々先生の命日に門人達が集まって御祭りをする際に、門人一同が声を出して共に読む為に作成されたものであり、門人一同が一字一句の末に至るまで練り、磨きに磨いて完成したものである。それ故、「音読」を薦めている。「石田先生事蹟」は、玉川大学出版の日本教育宝典『石田梅岩・手島堵庵集』に掲載されているので、私も早速声に出して読んだが、梅岩の人柄と正直な生き方が実によく表現されている。

 石田梅岩は、貝原益軒に遅れる事五十五年、貞享二年(1685)9月15日に、丹波国桑田郡東懸村(現在の京都府亀岡市東掛)の農家の次男として誕生した。23歳の時に京都の商家に奉公に出る。その時、「神道を慕い、どうにかして神道を説き広めたいとの志を抱き、もし聞く人が居ないなら、鈴を振って町々を回ってでも、人の人たる道を勧めたい、と願っていた。それ故、商売の為に出かける時でも、書物を懐中に入れて、少しの時間があれば学問に心掛けた。朝は仲間が起き出さぬ前から、夜は人が寝静まった後に書物を繙いた。」と記されている。「人の人たる道を広めたい」との強い志を抱き、寸暇を惜しんで学び続けた青年だった。

その努力の末に、40歳を過ぎる頃に人間の「本性」についての確信に近いものを悟り、師に就き学びを深め、遂に45歳の時に、初めて一般の人々に向けての「講席」を開講した。奉公人上がりの学者である梅岩に師事する人は少なく、ある夜の講席では、門人一人だけの聴講だった。門人が「私だけの為の講義は勿体ないので、今日はお休みされたが良いのでは。」と言うと、梅岩は「私が講釈を初めて行った時には、ただ書見台と差し向かいでも構わないと覚悟を決めていたのだ、聴衆が一人でも居ればそれで満足だ。」と述べて講釈を行ったと言う。

 私は学生時代に日本文化研究会というサークルで歴史や人物の学習を行っていたが、その様な「生真面目」なサークルに参加する学生は少なかった。それ故、例会を行う時に「例えサークル員が誰も来なくても例会を続ける事。その事によって必ずサークルは永続する。」との先輩方の遺言を肝に銘じて、例会に臨んでいたが、それも梅岩の追体験だった。

 人が集まるから話すのではない。自らの已むに已まれぬ求道の発露としての「講義」でなければならない。梅岩のその決意が、後に「石門心学」という日本教育史に残る大潮流を生み出したのである。


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