「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑫吉村 学「火砲と運命を共にすべく、復員後の昭和21年8月15日に自決した砲兵隊長」

2020-12-22 11:24:18 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
ニコニコ大隊長と親しまれた
吉村 学(よしむら まなぶ)S13卒
「火砲と運命を共にすべく、復員後の昭和21年8月15日に自決した砲兵隊長」
     
 吉村学は大正9年10月に菊池郡西合志町合生に生まれた。小学校時代から絵が得意で頭も良く行動は果断だったという。済々黌の入試の国語の問題に「片仮名五十音図を書け」とあったので、夫々のワクの中に「絵を描いた」、「ア」の字を書くワクの中には足の絵を、「イ」の所には犬の絵を、といった具合で「最後のンの所だけはわからないから書きませんでした。」と引率の教師に述べたと言う面白いエピソードが残っている。済々黌在学中は毎朝自宅の二階に駆け上ってパンパンと柏手を合わせ神様に礼拝した後学校に行っていた姿が印象的だったという。済々黌時代の吉村は人一倍大柄の容姿に慈顔を備え、春風をしのばせるふくよかな温容は、接する人に無限の親しみと誠実さを感じさせた。

 軍人志望コースに進み、済々黌五年在学時の昭和12年11月に陸軍士官学校に進学した。卒業後15年10月に支那の湖北省黄崗県の野砲兵第39連隊に所属する。漢水作戦、豫南作戦、沙東作戦、江花作戦、第一次長沙作戦、郝穴作戦に参加して武勲を挙げる。17年11月より20年2月迄、野砲兵第39連隊第一中隊長として、中支那の掇刀石地区での陽動作戦、宣昌付近での警備、江北殲滅作戦に参加して戦果を挙げた後、守備及び防御部隊として、敵襲に際しては隊長の陣頭指揮で、敵に壊滅的な打撃を与えた。18年4月には竜北掃討作戦、引き続き江南撲滅作戦、19年には常徳撲滅作戦、湘佳作戦、20年には嚢西防衛作戦を、隊長として率いて戦った。武功は上聞に達し天皇陛下より叙勲されている。

 20年4月第132師団が編成され、陸軍大尉として、その初代砲兵隊長となった。そして8月の終戦を迎えた。吉村隊長について部下の松岡中尉は次の様に述べている。「在隊間俸給は年老いた母上に留守宅渡しにて孝養を尽くしておられました。吉村隊長は頭脳明晰且勤勉な方で常に部下思いでありましたが一方隊規は厳正にして精神要素及び砲兵たるべき信条に徹され殊に「一門の火砲、一名の砲手となるも尚毅然として戦闘を遂行せよ。」と強調され建軍以来の信条である「火砲と運命を倶にする。」精神を如実に実現された立派な武人でした。日頃の訓練はもとより弾丸飛雨の間においても周密、的確な陣頭指揮に立ち精強な部隊育成に専念された。又、温厚な人柄でニコニコ大隊長と異名をうたわれ上司の信頼も殊に厚く、部下も斉しく崇敬していました。吉村隊長の御写真を拝見すると判りますように身長五尺七寸(173㎝)、体重十八貫(67.5㎏)で人の三人分位はあろうという体の横巾で加えて力持ちで銃剣術の試合に私達は一突きで後方に突き倒される仕末でした。」

 8月15日終戦を知った吉村大尉は挺身斬込隊の編成を準備していたが、この地域では将校四十五名の自決が相次いで惹起した。第六方面軍司令官岡村寧次大将は各部隊長に対し「堪え難きを耐え忍び難きを忍び故国に一兵も損することなく故国に至らしめ」との厳命を下し、吉村大尉は自決を思い留まった。部下の混乱を全て収拾し、上海経由で21年5月29日に博多に上陸した。

 6月15日に予備役に編入され、その後は生家に戻って母親に孝養を尽くしていたが、8月10日に母親を阿蘇の杖立温泉に静養に送り出し、8月15日午前二時頃、自宅縁側にて軍服の正装で東方(皇居)に向かい、日本刀で下腹部を三十センチ程度薄く切り拳銃で咽喉を撃ち坐臥のまま自決した。遺書と血染の日の丸が残されていた。享年26歳だった。

【遺書】
 一往来復、八月十五日は再び来ぬ。忘れ様として忘れ得ざる今月今日なり。今此所に二十有六年の一生を終らんとす。顧るに昨年血涙を呑みて、大詔を拝し戦ふべきや死すべきや、敵の軍門に降るべきや、決断をするを得ず。戦はれんことを希(こいねが)ふ。然るに聖断既に下り事既に茲に到る。遂に戦ふを得ず、自決せんと欲す。然るに吾に部下あり、混沌たる状況に処し部下を捨てて自決せんは余りにも無責任なると思料す。依つて遂に意を決し部下を故国に送らんと決す。心血を注ぎし不落の陣地、玉砕を覚悟せし彼の山悲涙、咽び悲憤にくれし退却行、皇国日本の末路惨たる様身にしむ。天門に集結するや隠忍自重堪へ難きに堪へ忍び難きに忍び、特に吾死生栄辱を共にし命とたのむ火砲、宝と愛育せし軍馬、軍刀将又(はたまた)拳銃も皆悲痛なる決意の中に敵に渡さざるを得ざるに到る。嗚呼吾何の面目やある。訓示して曰く、「一時中国軍にあずくるのみ、数年後必ず現数の三倍にして返させんと」悲憤の涙滂沱として流る。死を決意しつつ己が最後の努めたる部下の帰国の事に当る。

 報ずる所の国内情勢、夢と疑ふ。国賊の奴等の言々云はん方なし。意を変決して是等国賊を討たんと欲す。今茲に帰国の事成る、部下各々父母の膝下に帰る。吾事終、又而して敗戦後の日本や如何に、嗚呼博多上陸直面する現実は余りにも冷厳にして又悲惨なり。山紫に河清く昔に変らじ皇国、然るに地に住む人の心や如何に。国破れて何の山河ぞ。此の如き世に住むの要なし。続くを信じて玉砕した戦友に何と答へん。又遺族は如何に。

 趨勢は如何ともし難し、人の力を以て動かすべからずと雖も、何を以て吾身一つの安楽を望まんや。死あるのみ。之吾終戦以来今日に及ぶ決心の変化の大要なり。世相は如何に将来を如何に洞察せしや。今更に諜々を要せず。吾終戦以来常々考へ決心せるものにして、今日一日の考にあらざるは論をまたず。国を憂ひ家を思ひ己に問ひ決したるなり。只一つの誠心あるのみ。只死あるのみ。

 山は裂け海はあせなん世なりとも君に二心われあらめやも(※源実朝の和歌)

時を得ば再び生れ来り必ず御奉公せん

 死に先は地獄極楽知らねども護国の魂ぞ暫留めん
今改めて云ふことなし。吾大東亜戦争のために生る。今時に利あらず斯如し。吾今や万々の任を完了するを得たり。従容として死に就かんのみ。

 死為忠義鬼極天護皇基(死して忠義の鬼と為り、極天皇基を護らん・藤田東湖「正気の歌」一節)

吾末子として生れ幼より父母の慈愛深く、姉兄又能く惠み指導激励す。吾依て総じて我儘勝手の事多かりき。今又更に死に臨み最後の勝手に望まんとす。願わくば努められよ。吾屍は左の如く処置せられたく。棺に入るることなく軍服の儘土葬せられ度、国旗を覆ひ下さらば更に幸甚なり。葬式を要せず告別式は親類のみとせられ度。僧侶は不要なり。唯兄願はくば吾心とし魂とし修養の目標たる御勅諭(軍人勅諭)の五ヶ条を奉読し賜え。墓標を立てず石碑の要更になし。香典を受くべからず、又香を焚くの要なし。死せる後は空なり、体は一物体に過ぎざるなり。

吾心常に九重の城を護り又家を護らん

大元帥陛下萬歳 大元帥陛下萬歳 大元帥陛下萬歳

先輩同期生各位の御指導友交を謝し御健斗の程を祈る。部下なりし人々の御援助を謝し多幸を祈る。

母上様 先立つ不幸を御赦し下さい。海山よりも大きな御恩の萬一をも果さざりしを憾む。長寿御健在の程をお祈り致します。

兄上様 長い間お世話になりました。弟として努めなかつたのを恥ます。残られた兄上様達、末永く御達者で仲よく暮して下さい。御発展の程をお祈り致します。此の「日の丸」を日本復興の暁、私の生命たりし火砲の上に立てて下さい。之私の唯一の供養です。

姉上様 御慈愛の程感謝致します。御幸福の程お祈り致します。

親類御一同 長い間お世話になりました。御一家益々御繁栄の程をお祈り致します。

八月十五日

 尚、昭和45年4月16日、陸上自衛隊北熊本駐屯地に於て、第八特科連隊の加藤連隊長の吉村大尉は砲兵精神の権化であるとの訓示の後、故吉村大尉が念願した血染の日章旗を一〇五ミリ榴弾砲の砲身に掲げ、空砲一発、在天の霊に届けとばかり発射した。更に、49年8月15日には「故陸軍大尉吉村学遺徳顕彰留魂碑」が西合志町合生の故吉村大尉の実家の庭に建立された。


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