「永遠の武士道」研究所所長 多久善郎ブログ

著書『先哲に学ぶ行動哲学』『永遠の武士道』『維新のこころ』並びに武士道、陽明学、明治維新史、人物論及び最近の論策を紹介。

済々黌先輩英霊列伝⑨田邊章一(S2卒)「映画脚本『大日本帝國史』が金賞に輝く程の文才の教師、戦後シナ大陸で病死す」

2020-12-01 14:00:16 | 続『永遠の武士道』済々黌英霊篇
三十三回忌に教え子達が追悼集を出版
田邊 章一(たなべ しょういち)S2卒
「映画脚本『大日本帝國史』が金賞に輝く程の文才の教師、戦後シナ大陸で病死す」
     
 田邊章一は明治43年下益城郡松橋で生まれ、後に熊本市坪井に転居した。済々黌卒業後、第五高等学校内第十三臨時教員養成所国漢科に進み昭和6年に卒業、大阪市立育英商工学校に勤務し、国語と習字を受け持った。

 昭和9年新春の大阪毎日新聞社・東京日日新聞社の映画脚本「大日本帝國史」の募集に応募。七百九十五篇の応募作品の中で見事に第一等当選を果たし、昭和10年5月9日に発表された。田邊二十六歳での快挙である。選者の徳富蘇峰は「当選作品はとにかく忠実に史実を追ひ、特に日本精神作興に力を注ぎ、五百枚になんなんとする大作を終りまで少しもだれずに読ませるところなど、大いに敬服した。」と評し、菊池寛は「当選作品は非常に努力して書いてある。詩的要素も多分に盛つてあり、配列の妙を得てゐる。単に読物としても、また映画になつたものとして見ても、一番すぐれている。」と評している。当選者の話として田邊は「予選発表から本原稿締切までにこの執筆を休んだのは昨年九月の大風水害の日一日だけでした。その間図書館に通ったり、各地の方言を知人に問合せたり、京都、奈良をはじめ遠くは博多、対馬方面までも出かけて実地調査をしました。教職にあるおかげで調査上の便宜はありましたが、奈良の正倉院だけ拝観出来なかったのは残念です。参考書は綜合文化史体系等の叢書ものを多く読みましたが、近世以後は徳富蘇峰氏の『近世日本國民史』がテキストです。昨年十一月から一日十枚くらゐづゝ清書しました。映画化についての希望を申せば、俳優の演技をあつさりとやつて戴きたい事、最後の空中撮影をうまくやつて戴きたい事、時日がかゝつても慎重にやつて貰いたい事などです。」と述べている。又、田邊の弟の言として、兄が「これは書きながら涙が原稿用紙の上に落ちるのを拭きながら筆を走らせた」と語ったと述べている。日本の歴史に対する田邊の感動そのままに文が綴られて行ったのである。

 田邊が制作した「トーキー大日本帝國史」は五篇に分かれている、序景の後、第一篇(神代より平家没落まで)、第二篇(――豊臣家滅亡まで)、第三篇(――征東軍進発まで)、第四篇(――明治天皇崩御まで)、第五篇(――――現在)、である。序景には伊豆沖から眺めた富士山、更には近距離からの富士山が映し出され、「日本! 悠久二千六百年の燦たる歴史を持つ日本! 此の日本は、如何にして出来たか。如何にして発達して来たか。此の日本を、そだてのばす為、我々の祖先は如何なる働きをなしたか。そして、其のあとを承けついで、昭和の大御代を背負つて立つべき我々に如何なる事を教へてゐるか。此の疑問を解く為に、我々は、輝かしい日本の歴史を、今、目の前に、くりひろげてみよう。」のことばが流れる。本篇はそれぞれの時代の主要な出来事が生き生きと感動を以て描かれている。トーキーの最後には「春は花咲き、秋は紅葉映(て)る日本!山は紫に、水清き日本!しかも 上に一系の天子を仰ぎ、古く汚れなき歴史を護り、溌溂たる力を以て飛躍する日本!此の日本に生を享けた我々の幸福を、何に譬へる事が出来るか。」「悠久二千六百年!我々の祖先は、此処まで日本を育てゝくれた。之からは我々の番だ!祖先の血と汗とを無駄にしてはならぬ。光ある歴史に泥をぬつてはならぬ。 今、太平洋に 夜は明けようとしてゐる。やがては我々の前に太陽は燦として輝くであらう。」の字幕が流れて終了する。これらの言葉の一つ一つが田邊の願いであり祈りだった。
田邊家の実家では、御母堂が、受賞を記念して本妙寺の参道石段に田邊章一の名前で石燈籠を献灯されている。

 昭和15年には大阪市立南高等学校に転勤。戦争が深まる中の17年3月に帰熊。済々黌での勤務を希望したが、県立第一高等女学校への赴任となった。情熱を込めて国文学を語る田邊の授業は多情多感な第一高女の乙女達の心に響き、田邊を人生の師と仰いだ。田邊は「教壇で或は教壇から降りて、最前列の机に手をおき、北原白秋、佐藤春雄らの詩を、うるんだ眼で顔をあからめ、情熱をこめて朗読された。」と当時の教え子は記している。又、宮沢賢治の詩を好み「雨ニモマケズ」の朗読には特に力が込められ、学生の心に刻まれた。又「強く正しく生活せよ。苦難を避けず直進せよ。」が口癖だったと言う。だがその様な教師としての日々は長くは続かなかった。

 昭和19年3月11日に教育召集を受け、7月には歩兵13連隊補充隊に応召され、陸軍二等兵としてシナ大陸に渡った。長江を遡って漢口に上陸。一時病魔に侵されるも退院して京漢線孝感教育隊に入隊。10月末には同地を出発して七百キロの行軍を続け、12月下旬に南の要衝の地である衡陽に到着、独立歩兵第六十二大隊に編入された。まもなく脚気に掛かって入院。20年4月には震動部隊(機関銃隊)に配属となり、中隊書記として指揮班に編入された。評判良く一等書記として重宝がられたと言う。又、講談が大得意で時々指揮班の者を大いに笑わせたと言う。

 終戦後、東江から江陽・長沙・九江・都昌迄約四百里を三か月をかけて行軍。この間復員業務で多忙を極める。そして過労と栄養失調に端を発し、21年1月4日にマラリアを発病、戦友一同必死の看病をするも病勢は悪く14日に船で九江の兵站病院に運ばれて入院した。だが、17日遂に帰らぬ人となった。享年36歳だった。遺骨が熊本に戻って10月には妙体寺でかつての教え子達多数が参列して盛大な葬儀が営まれた。

 昭和52年8月、田邊の第一高女の教え子達が田邊の三十三回忌に合わせてその遺徳を歴史に残すべく『田邉先生33回忌追悼誌』を発刊した。

【遺詩】
  道
わが行くは
草原を貫く一すじの道
一日(ひとひ)二日(ふたひ)とふみしめて
仆るゝ日まで歩く道
故国ははるか白雲の
むかふすはてにさかれども
われらは今日も この道を行く

炎天の坂をのぼれば
○○の地平線 はるかなり
蓮池に蓮の花咲き
白亜の塔は 遠き湖畔に立てり
数百の乱雲は青空に浮かび
紫の帯となりて流る

あの雲の流るゝはてに
わが進む道もつゞけり
われらたゞ 道ふみさけて
地のきはみ 空のはてまで
ひたすらすゝみ 戦ひ行くとき
大みいつに草もなびかん

  烈日の彼方に
空の涯に
けふも戦ひはつゞいてゐる。
古城をめぐって樹々の緑は燃え

南国の都に再び夏は来たが
つはもの等は遠く海を越えて
便りもとゞかぬ島々に
大東亜の防人に立ってゐる。

そして今もなほ
銀河きらめく夜更の街々を
颯々とわたる風のやうに
軍靴の音は過ぎて行く。
この音のゆくところ
一億の憤怒は焔となって
敵の非望を焼きつくすのだ。

前線の心は銃後の心である。過去は一擲され
生活は必死となり
ひるがへる日章旗の下に
若人は粛然として待機し
児童の歌声は夏空にこだまする。

あゝ あの烈日の彼方に
決戦はけふもつゞいてゐる。


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