ガンバレ、ニッポン

なんか、不安定なニッポンですね。

癒えることないベトナム戦争での民間人虐殺 「ああ、韓国人は今も村に入れない」

2016-01-18 15:01:13 | 政治、経済
ベトナムの経済が向上して

先進国の仲間になれば

韓国への虐殺問題はさらに拡大でしょう。

フィリピンでは韓国軍による慰安婦問題がさらに拡大。。。



ソースから

韓ベ平和財団」ク・スジョン氏からの手紙
 「ベトナムピエタ」銅像建立を推進したのは韓ベ平和財団(仮称)だ。韓ベ平和財団の中心人物の一人は、1999年にベトナム民間人虐殺を韓国社会に初めて知らせたク・スジョン『ハンギョレ21』ホーチミン通信員だ。彼女は昨年の秋から推進委員長のノ・ファウクク極東大学客員教授などと共に、韓ベ平和財団の設立に参加してきた。財団はどのように始まったのか、なぜ財団を設立しようとするのかク氏が手紙で伝えた。

 1994年5月、本当に蒸し暑かった日でした。「謝罪します」。ホーチミン大学のキャンパスで偶然出会った日本人老夫婦が、私の前で靴を脱いで跪き、何度も深く頭を下げました。その年の最初のスコールが竹箆(しっぺ)のように背中を叩きつける中、揃えた靴に雨水が溢れるまで、彼らは体を起こそうとはしませんでした。後日、韓国人である私たちは、ベトナムに悲しい巡礼の旅に出て、絶えず頭を下げて「申し訳ありません」を繰り返すことになるとは、その時は夢にも思いませんでした。

 ベトナム中部で韓国軍の足跡を追ってあちこちを彷徨っていた1999年、ほとんどの町で、私は虐殺から30年ぶりに初めて現れた韓国人でした。ところが、村の人たちはいきなり私の手を引っ張って、イギリス人が立てた慰霊碑と日本人が建てた学校に連れて行きました。そこで出会った韓国軍の被害者は、ドイツ人が支援した義足を着けていました。韓国軍が通り過ぎた村には必ず建てられていた慰霊碑、生まれて初めて対面した韓国軍憎悪碑、生まれて間もなく、名前も付けてもらえなかった赤ちゃんの墓の前でも、何とか耐え抜いていた私が、ビンホアでは崩れ落ちました。

 ジュンコ(JUNKO)学校を訪れたのは、それからしばらく後のことです。明治学院大学に在学中の高橋淳子氏は、1993年にピースボート(Peace Boat)に乗ってダナン港に寄着し、韓国軍による民間人虐殺地であるトゥイボ村を訪問することになります。淳子氏は学校がなく、村の小道に佇んでいる子供たちが気になりました。日本に帰って路上で募金運動を繰り広げていた淳子氏は、残念ながら、交通事故でこの世を去ります。淳子氏の部屋を整理して日記帳を見つけた両親は、生前に果たせなかった娘の夢を実現するため、代わりジュンコ学校を建てました。運動場に入ると、あちこちから「ジュンコが来た!」という歓声が沸き上がりました。村の子供たちは「ジュンコ、ジュンコ!」と叫びながら、私の後ろを付いて回りました。トゥイボで、私は自分の名前ではなく、「ジュンコ」と呼ばれてもいいと思いました。

1999年、私はベトナムの村で 
30年ぶりに初めて現れた韓国人 
彼が私の手を引っ張って連れて行ったところは 
イギリス人と日本人が建てた慰霊碑と学校 

2月のビンアン虐殺50周年慰霊祭 
小規模ながらも韓国参拝団を組織し 
しっかり記憶し志を共にする 
その約束を財団設立として実践

 遅ればせながら、謝罪するためベトナムに足を運ぶ韓国人たちも後を絶ちません。 2003年に『ハンギョレ21』読者の寄付で建てられた韓ベ平和公園にはもうかなり木が生い茂っています。2000年から、韓国軍の駐屯地を中心に毎年無料診療事業を行ってきた「ベトナム平和医療連帯」は、いつの間にか17期診療団を迎えることになりました。青龍部隊の駐屯地だったであるクアンナム省で韓ベ青年平和キャンプを行ってきた市民団体「ナワウリ(私と私たち)」は、虐殺が起きた村への道を舗装し、橋を架け、慰霊碑を建てて、幼稚園も建立しました。昨年4月には「平和博物館」の招待で、ベトナム戦争韓国軍虐殺の被害者たちが初めて韓国を訪問しました。

 しかし、私たちの手が及ばないところがはるかに多いです。韓国軍憎悪碑に建てられているビンホア村は人民委員会庁舎がある村の入り口までしか、(韓国人の)出入りを許しません。村で住んでいる人々の時計はまだ1966年12月の日その時刻で止まっています。「韓国軍にやられるのなら、むしろ米軍にやられた方がまし」という自嘲まじりの怨声も聞こえます。すぐ隣にある町のミライ村には、米国の良心的な市民の努力で虐殺被害者に対する支援が行われており、病院や学校、博物館、公園が立ち並んでいることを当てつけて言っているのでしょう。ああ、私たちは村の中には入れない、韓国人です。

 韓国軍戦闘兵派兵50周年の2015年を基点に、今年からベトナム中部のあちこちで韓国軍民間人虐殺50周年慰霊祭が相次いで行われます。今年2月に予定されているビンアン虐殺50周年慰霊祭には、小規模ながら韓国人参拝団を組織して参加する予定です。何も用意しておりませんが、今からでも記憶し、志を共にするという約束を持っていきます。その約束が、まさに「韓ベ平和財団」です。

 昨年9月にノ・ファウク極東大学碩座教授を推進委員長にして、カン・ウイル、ミョンジンなど宗教界、イ・ジョンウ、ハン・ホング、パン・ヒョンソク、クォン・インスクなど学界、ユ・ホンジュン、イ・チョルス、イム・オクサン、チョン・ジヨンなどの文化芸術界をはじめとする各界の著名人たちが志を一つにして韓ベ平和財団推進委員会を発足させました。財団が、韓国とベトナムが戦争の痛みと傷を癒し、ひいては東アジアの共生と平和の未来を開くために貢献できればと思っています。このため、アジア地域内の市民団体と連帯して、次世代の平和人権活動家を養成し、朝鮮半島とアジアの平和運動の土台を築くために努めます。その第一歩として「少女像」の作家であるキム・ソギョン、ギム・ウンソン夫妻の「ベトナムピエタ」銅像建立キャンペーンと共に、韓ベ平和財団の資金を調達するための「韓ベ平和美術展」を企画しています。

 私たちは、ベトナムに申し訳ない気持ちを伝えるのは、ただ被害者のためだけではありません。それは、一度も戦争の傷を治癒したことがない、私たちの内面の暴力性を一緒に取り払うことになるでしょう。私たちはまた、過去の記憶と和解しなければ、未来の平和を夢見ることができないからです。安倍首相の形だけの「おわび」に怒りを感じている際、突然日本人老夫婦の謝罪を思い出したのは幸いでした。絶望の中でも粘り強く光を醸し出す“人”への希望を救い上げることができたからです。

 何度噛みしめても自己省察が前提になっていない反省と、骨を削る努力に裏打ちされない謝罪は、結局忘却と無責任のための免罪符に過ぎないかもしれません。平和は、他人の痛みを自分の議題として抱え、同じ痛みを耐え抜く、現代の「数えきれないジュンコたち」の連帯から始まると信じています。韓ベ平和財団を主導的に導いてもらえる発起人を募集しています。また、皆さんの暖かいご支援をお待ちしております。


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