丹 善人の世界

きわめて個人的な思い出話や、家族知人には見せられない内容を書いていこうと思っています。

大学入試と英字新聞

2011年03月01日 | 個人史
高校生活最大のイベントはなんといっても大学入試。

僕の時代にはまだセンター試験などと言う物はなかった。
国公立大学は一期校と二期校に分かれていて、先に東大・京大・阪大などの
大手の大学の入試があり、その発表を受けて、残りの国立大学の入試が
行われた。
もちろん私立大学はそれとは期日は別で一発勝負の入試が行われた。

この制度が無くなったのは、連合赤軍事件が起きてからだろう。
事件の中心となったのが、関東で有名な二期校の大学生で、東大などの
一期校で不合格となり、希望ではなくてその二期校の大学に進学した学生が、
いろいろ挫折感やら何やらつのらせて社会的事件を引き起こしたといういきさつがあり、この制度の見直しが言われて、現在のようなセンター試験制度ができて、二期校制度が廃止されたのだが、これはかなり後の話。

僕の家は貧しいからとても私立大学を受験できるはずもなく、また家から通えない遠方の学校というのも最初から除外された。そうなると大学は自ずから決まってしまう。

高校時代は、本来得意だった数学も散々な出来だったし、英語はまったく落ちこぼれてしまっていたし、先に書いたように一応理系コースに進んでいたから、工学部を選ぶ以外に選択はなかった。
工学部で上位の学校は望めそうもなく、結局は某市立大学を受験することに。
この学校は一期校と同じ日程であり、不合格の時のための二期校は選択しなかった。教育大学が二期校にはあったけれど、そこに入るつもりはまったくなかった。

受験当日、会場内で英字新聞の申込み案内が配られた。まあ進学しようとする学生にちょうどよかったのだろうが、何となく購読したくなって申し込むことに。
この英字新聞は半年間購読した。しかし毎日、英字の新聞記事を読むのはさすがにつらくて挫折することには成ったのだが。
この時の記事で印象深いのは、ちょうど大相撲で初の外人力士として人気の高かった高見山が快進撃を続け、とうとう生涯ただ一度の優勝をしたときだった。英字新聞だから記事は大きな扱いだった。

で、肝心の入試はと言うと、倍率がすごく高くてはじかれてしまったということにしよう。学力不足だったことはナイショにする。

どこも行くところが無くて、親が捜してきたのが、けっこう評判がよかった天王寺予備校と言うところ。この予備校、確かによい予備校で、出身学校の履歴に書きたいくらいだった。
予備校時代はまた後の項目で。