本棚でじっくり熟成され、すっかり茶色になった岩波の青帯『嘆異抄』。
いつか読むつもりで買っておいたのは間違いないが、古本だったのか、貼った覚えのない付箋まで貼ってある。
コースと真宗はすごく近いとずっと思っていて、いつかは読まねばと思っていたのだけど、哲学も精神世界も、最低限の知識をかき集めるので精一杯で、原典にあたるのはとうぶん無理、と思っていた。
でもこの『嘆異抄』は薄い。
しかも目の前にある。
解説と広告をたっぷり入れてようやく背表紙が7mmくらいか。
古文にはそれなりに耐性があるはず、と思って立ち向かってみたら、最初の解説が大変優れていて、それを念頭に置いておけば流れが掴める感じだった。
前半は唯円さんによる親鸞の言葉の聞き書き。
後半は著者とされる唯円さんの「嘆異」で、主に知識偏重と信心偏重の偏りに向けられていて、これはコースでも良く起きる。
唯円さんは、
「教えの文章には真実と方便が混ざっている、だからそれをちゃんと読み解かなければならない」
「何よりも大事なのは、この教えを自分のこととして受け取ることである」
という。
テキストの解釈には言葉の限界がある。
真実を言い表すためには文脈に頼り、比喩にも頼る。
文字知識との付き合い方や、もともと持っているエゴの脂質によって、知識偏重と信心偏重、自分が振れ易い方に容易に触れる。
しかし、自分が本当に赦す時に、実際に心や体に起きる平安や、違和感や、怒りや、屈辱や、そういう体験に照らすことで超えることができる。
これも同じだよねえと思うと、なんだか、唯円さんがすごく身近で、タイムスリップした気分になる。
お茶菓子を持ってお住まいをお尋ねしたい。
いつか読むつもりで買っておいたのは間違いないが、古本だったのか、貼った覚えのない付箋まで貼ってある。
コースと真宗はすごく近いとずっと思っていて、いつかは読まねばと思っていたのだけど、哲学も精神世界も、最低限の知識をかき集めるので精一杯で、原典にあたるのはとうぶん無理、と思っていた。
でもこの『嘆異抄』は薄い。
しかも目の前にある。
解説と広告をたっぷり入れてようやく背表紙が7mmくらいか。
古文にはそれなりに耐性があるはず、と思って立ち向かってみたら、最初の解説が大変優れていて、それを念頭に置いておけば流れが掴める感じだった。
前半は唯円さんによる親鸞の言葉の聞き書き。
後半は著者とされる唯円さんの「嘆異」で、主に知識偏重と信心偏重の偏りに向けられていて、これはコースでも良く起きる。
唯円さんは、
「教えの文章には真実と方便が混ざっている、だからそれをちゃんと読み解かなければならない」
「何よりも大事なのは、この教えを自分のこととして受け取ることである」
という。
テキストの解釈には言葉の限界がある。
真実を言い表すためには文脈に頼り、比喩にも頼る。
文字知識との付き合い方や、もともと持っているエゴの脂質によって、知識偏重と信心偏重、自分が振れ易い方に容易に触れる。
しかし、自分が本当に赦す時に、実際に心や体に起きる平安や、違和感や、怒りや、屈辱や、そういう体験に照らすことで超えることができる。
これも同じだよねえと思うと、なんだか、唯円さんがすごく身近で、タイムスリップした気分になる。
お茶菓子を持ってお住まいをお尋ねしたい。