いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

染井霊園に眠る著名人と「ソメイヨシノ」

2008-04-01 01:35:17 | 散策
駒込駅の周辺は、染井吉野の発祥地として知られています。
六義園・染井門から「染井通」を600m程行った突き当たりに「染井霊園」があります。
染井村と呼ばれた頃の面影があるかとの思いを致して足を延ばすと、元気印の気持が通じました。
染井吉野の古木が見事な花を満開にして、春を謳歌していたのです(写真)。

霊園には、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)、高村光雲、光太郎・智恵子、松浦武四郎などの著名人が67名も眠っていました。岡倉天心、二葉亭四迷、高村光雲、光太郎・智恵子だけは墓前で合掌してきましたが、場所の探索は方向音痴の元気印にとって一苦労でした。

ちなみに、幣原喜重郎は、昭和20(1945)年12月25日、昭和天皇の人間宣言を英文で書きあげたのですが、前日、暖房が不十分だった首相執務室で仕事をしていたのです。それで風邪を引いて急性肺炎に患かってしました。3時間以上かけて書き上げた人間宣言を翌朝、秘書官に渡した直後に執務室で倒れても、シエイクスピアの「真夏の夜の夢」の第二幕を英語で復誦して、自ら病状を診断した剛毅な政治家、外交官です。73歳の時、第三十一代総理大臣に就任してから、マッカーサー元帥の信頼を得て、憲法改正(新憲法作成)作業を無事に遂行したことはご存知でしょう。

高村光雲は仏師で彫刻家です。智恵子をこよなく愛し続けた光雲3兄弟の長男・光太郎は、彼女と死別してから3年後の昭和16(1941)年、詩集「知恵子抄」を出版しています。

北海道立の工業高校・機械課程同窓生3名が、青函連絡船に乗って津軽海峡を渡り、自動車用タイヤの金型を製作する町工場(墨田区)へ就職したのは昭和34年3月の終わり頃、都会に憧れていた元気印は、伯父の尽力で決まっていた地元の就職を断っての上京でした。
しかし、故郷夕張の空は無限に広がる澄み渡った碧空でしたが、東京の空はどんよりとスモッグで濁っていたのです。光太郎・智恵子の墓碑に辿り着くと、30数年前に感銘を受けた詩、「あどけない話」を思い起こしました。

 智恵子は東京に空が無いという
 本当の空が見たいという
 私は驚いて空を見る
 桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
 切っても切れない
 昔なじみの綺麗な空だ

どんより煙る地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながらいう
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子の本当の空だという
あどけない空の話である

松浦武四郎は、諸国巡りをしている時期に僧となりますが還俗した松坂市(三重県)の人です。蝦夷地の探検では択捉島や樺太まで探査しています。そして、安政2(1855)年、蝦夷御用雇いに抜擢就任し、蝦夷地を再踏査して「東西蝦夷山川地理取調図」を出版しています。
明治元年から2(1869)年に開拓判官に任命され、蝦夷地を「北海道」と命名し、国名・郡名はアイヌ語の地名をもとに選定した名前を付けています。また、「北海道人:ほっかいどう・じん」の雅号を持っているので、夕張生まれの元気印には身近に感じられる人物です。

冒頭に、元気印の気持ちが通じたと書きました。
徳川綱吉から柳沢吉保が拝領し、六義園を造営した染井村、幕末には植木市で賑わい栄えていた染井村、ソメイヨシノ発祥地の面影を探すために散策に訪れた地に眠っている人達は、後戻りのできない元気印の青春時代の一齣を蘇らせてくれたからです。



コメント
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