いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

六義園・アンパンマンに遭遇

2008-04-03 04:06:10 | 散策
染井吉野と枝垂れ桜のライトアップ・イベントが始まると、六義園は花見客で賑わい、見所周辺はラッシュアワー並みに混雑して、写真愛好家泣かせの日が続きます。
3月29日がそうでした。前夜、民放TV局がライトアップしている枝垂れ桜を実況中継しましたので、終日花見客でごった返しでした。
そこで、ライトアップが終わった二日後の4月1日、枝一杯に咲いた薄紅色の花は、30日の雨で散っているのではと疑心暗鬼だったのですが、駄目もと覚悟で7時前に自宅を飛び出し、一番乗りを狙ったのです。

駒込駅構内にある喫茶店でパンとコーヒーの朝食を済ませ、開園20分前の六義園正門に着くと、元気印と同じ思いのカメラマンが1人、三脚を携えて待機しています。暫くすると、カメラマンは5人になり、花見に来た人を含めると10人前後が正門前で待機していました。

開園10分位前に、管理人が止め金を外す金属音がして両開きの正門扉が内側に開かれたのです。
「これで、入れる」
全員が期待しました。
園内の作業を終えた軽トラックが正門を越すと
「開園9は時からです。一度扉を閉めます」
管理人に入園を阻止されてしまったのです。恐らく、彼は几帳面な性格なのでしょう。
正門の扉は六義園を囲んでいる塀に変身してしまい、開園時間になるまでピクリともしませんでした。

鬱憤晴らしに周りを眺めると、正門前のビルの壁にアンパンマンの顔と「えほんとおもちゃのお店 B1F」と書かれた案内板があったのです。矢印方向に目線を走らせた先にアンパンマンと仲間達(写真)がいるではありませんか。
正門前の白いタイル張りのビルは、(株)ブレーベル館だったのです!!

駄目もとを覚悟した早朝撮影に満足して帰宅し、アンパンマン、仲間などのスナップをアルバムにして孫娘にプレゼントすると大喜びです。
時間を厳守する几帳面な管理人のお陰で、アンパンマンと出くわすチャンスを得る、徳に恵まれた早起きになりました。二日前の11時頃はアンパンマンとすれ違いのまま終わっていますので。

六義園の管理人さん『ありがとう』。


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大国神社 幹に咲くソメイヨシノ

2008-04-02 00:14:34 | 時の話題
大国神社(だいこく・じんじゃ)は、人気スポット六義園の近くにあります。六義園は南口へ出ますが、大国神社は北口になり、塀で囲まれた傾斜地の下に慎み深く鎮座している小さな神社に気付く人は少なく、素通りしています。

そう言う元気印も「染井霊園」からの帰りに、鳥居前にいる数名のカメラマンの姿が目に留まらなければ、幹に咲くソメイヨシノに巡り遇わないで、駒込駅北口へ向かってまっしぐらでした。

徳川家斉(いえなり)は、天明7(1787)年、徳川十一代将軍職に就任します。その前に、家斉は鷹狩りの帰りにここへ立ち寄っていますので、家斉の出世に因んで、出世大国、日の出大国と呼ばれるようになったとの伝聞が残っているようです。家斉が大国神社の信仰者であったことは、由緒書(ゆいしょがき)に記載されていますので、伝聞は前向きに評価しています。

由緒書の説明を続けます。
神社の創設は、天明3(1783)年、神社として体裁を整えたのが明治12(1879)年、昭和20(1945)年4月13日の空襲で本殿以下五棟が焼失したので、本殿・拝殿・鳥居。神灯門は戦後に建て現在に至っています。

境内にあるソメイヨシノは、本殿などを復興した時に植樹したと推測されるので、樹齢は50年を越えている筈です。それは、鳥居の左側にある保存樹木「第436号」「第437号」に指定されたソメイヨシノです。その2本は、幹が神社境内から堀を越えて歩道に張り出しているため、満開の花を付けた枝が境内に見当たりません。見学者の目線が幹に咲いている花に向くのは自然の流れです。

保存樹木「第437号」の花(写真)は、可憐で水みずしく、元気そのものです。六義園の枝垂れ桜、染井霊園で満開のソメイヨシノとは違う生命力を感じます。

「元気印の立場は保存樹木に指定されたソメイヨシノです。孫たちの花を咲かせる役割は親に任せて、幹に咲き誇る花のように、自分自身がひと花咲かせる気魄を持って生きる目標を立てる、悔いのない生涯にするための自分史を書き始めませんか」

日本人の平均寿命はこれからも伸びるでしょう。今日から10数年以上も続くシニア時代を生き抜く自分史のシナリオを創作する。
そこには、自立して生きるために努力するほろ苦い時間と、それを克服した時の達成感に浸る充実した時間が共存しています。

シニア時代に突入した7年前、自分史の起承転結を考えようかなと思いつつ、シナリオの原稿用紙は真っ白のままです。

「幹に咲いたソメイヨシノは、あなたの出世花、日の出花かも知れませんよ」
ボケ封じ観音さまが激励してくれます。

「現役を卒業した元気印には、無縁の話でしょう」
「シニアに求められているのは、明日への夢を描き、希望を抱く気概でしょう。超高齢化社会を生き抜くのに欠かせない心構えですよ。日々の積み重ねが自分史になるのです」

緩んだネジを元に戻そうとしない元気印の生活習慣を、ボケ封じ観音さまは飽きもせずに観察して、毎日欠かさず助言してくれるのです。ボケ神が取り憑く前に緩んだネジを締めよう。


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染井霊園に眠る著名人と「ソメイヨシノ」

2008-04-01 01:35:17 | 散策
駒込駅の周辺は、染井吉野の発祥地として知られています。
六義園・染井門から「染井通」を600m程行った突き当たりに「染井霊園」があります。
染井村と呼ばれた頃の面影があるかとの思いを致して足を延ばすと、元気印の気持が通じました。
染井吉野の古木が見事な花を満開にして、春を謳歌していたのです(写真)。

霊園には、幣原喜重郎(しではら・きじゅうろう)、高村光雲、光太郎・智恵子、松浦武四郎などの著名人が67名も眠っていました。岡倉天心、二葉亭四迷、高村光雲、光太郎・智恵子だけは墓前で合掌してきましたが、場所の探索は方向音痴の元気印にとって一苦労でした。

ちなみに、幣原喜重郎は、昭和20(1945)年12月25日、昭和天皇の人間宣言を英文で書きあげたのですが、前日、暖房が不十分だった首相執務室で仕事をしていたのです。それで風邪を引いて急性肺炎に患かってしました。3時間以上かけて書き上げた人間宣言を翌朝、秘書官に渡した直後に執務室で倒れても、シエイクスピアの「真夏の夜の夢」の第二幕を英語で復誦して、自ら病状を診断した剛毅な政治家、外交官です。73歳の時、第三十一代総理大臣に就任してから、マッカーサー元帥の信頼を得て、憲法改正(新憲法作成)作業を無事に遂行したことはご存知でしょう。

高村光雲は仏師で彫刻家です。智恵子をこよなく愛し続けた光雲3兄弟の長男・光太郎は、彼女と死別してから3年後の昭和16(1941)年、詩集「知恵子抄」を出版しています。

北海道立の工業高校・機械課程同窓生3名が、青函連絡船に乗って津軽海峡を渡り、自動車用タイヤの金型を製作する町工場(墨田区)へ就職したのは昭和34年3月の終わり頃、都会に憧れていた元気印は、伯父の尽力で決まっていた地元の就職を断っての上京でした。
しかし、故郷夕張の空は無限に広がる澄み渡った碧空でしたが、東京の空はどんよりとスモッグで濁っていたのです。光太郎・智恵子の墓碑に辿り着くと、30数年前に感銘を受けた詩、「あどけない話」を思い起こしました。

 智恵子は東京に空が無いという
 本当の空が見たいという
 私は驚いて空を見る
 桜若葉の間(あいだ)に在るのは、
 切っても切れない
 昔なじみの綺麗な空だ

どんより煙る地平のぼかしは
うすもも色の朝のしめりだ
智恵子は遠くを見ながらいう
阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に
毎日出ている青い空が
智恵子の本当の空だという
あどけない空の話である

松浦武四郎は、諸国巡りをしている時期に僧となりますが還俗した松坂市(三重県)の人です。蝦夷地の探検では択捉島や樺太まで探査しています。そして、安政2(1855)年、蝦夷御用雇いに抜擢就任し、蝦夷地を再踏査して「東西蝦夷山川地理取調図」を出版しています。
明治元年から2(1869)年に開拓判官に任命され、蝦夷地を「北海道」と命名し、国名・郡名はアイヌ語の地名をもとに選定した名前を付けています。また、「北海道人:ほっかいどう・じん」の雅号を持っているので、夕張生まれの元気印には身近に感じられる人物です。

冒頭に、元気印の気持ちが通じたと書きました。
徳川綱吉から柳沢吉保が拝領し、六義園を造営した染井村、幕末には植木市で賑わい栄えていた染井村、ソメイヨシノ発祥地の面影を探すために散策に訪れた地に眠っている人達は、後戻りのできない元気印の青春時代の一齣を蘇らせてくれたからです。



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