会報待たずして書きたいことが見つかりました、並木です。
サ責との振り返りで、<チューニング>や<チャンネル>といったちょっとした横文字が飛び交うことがあります。自分としては実りのある話で、今日はこれを要約したくなりました。
「マイノリティのコミュニケーション方法」を持つ人を前にし、始めから「理解が難しい」と決めつけるのではなく、マイノリティの方々の言語、表情、あらゆる所作に辛抱強く五感や意識を傾けていれば、その人の持つ「調律」やら「音階」みたいなものがわかってくる気がします(過去にもその様な体験が幾つかありました)。聞こえてきた調律に、<チューニング>を合わせることができれば「やりたい・成したい」を汲むことができるという話です。
勿論、センスは伴うのかもしれません。でも「センスは磨ける」と思っています。サ責は「<コピー>も大事な要素」だと話していて、更に奥が深まりました。コピーについて掘り下げるのはまた後日にしましょう。この様な表現はバンドなどアンサンブルを伴う音楽の演奏経験者に伝えるに特化した表現にはなってしまうのですが、サ責の用いる<チューニング>という例えはとても腑に落ちました。
<チャンネル>というのは逆に自分が用いた言葉を拾ってもらったのですが、人間は多面的な生き物だと思っていた方が、福祉職だけでなくあらゆる人付き合いが少し楽になるのではないかなと思います。誰だって色んな側面がある気がします。<芸術家やバンドマンであり介助者><この人とはこれをやりたい><この人にはこの悩みを聞いて欲しい><いつもコーヒーだけどたまにはお茶><この人は私生活が見えない><たまにはムーディーな音楽聴きたい>とか。
<私>の知らないところで<その人>の時間は流れ続けている。そんなものでしかないと思うので、目の前の人を今この瞬間の状況で簡単に判断してしまうのは大変勿体ないことだと思います(ちなみに利用者さまの今、目の前の状態の把握のために記録が大切という話などもあります)。
勿論たった一回のネガティヴな体験によって、あっという間にそれまでの流れが壊れてしまうこともあるかもしれませんが、逆に言えばマジョリティ同士のコミュニケーションだってすれ違うことは多々あります。そういう時は少し休んで、振り出しに戻ってチューニングをし直せばよいのだと。自分もネガティヴな失敗体験はそれなりですが、身体はそれまで築いた自分のセンスや技術は忘れていないもので、むしろそこから開かれるものも多い気がしています。
最後に福祉職は、技術として<チューニング力>を養う努力も必要だと思いますが、実は社会の中で生きていれば誰でも普段からやっていることで、それを客観的に捉える面白さに気づくとより深みを帯びる仕事だなと感じます。
並木