No8: メキシコのサボテンを世界に広めたプラントハンター、ガレオッティ
そういえば、シリーズN04のベルギーのプラントハンター“リンデン”のところでこんな記述をした。
「リンデン探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。」
この時はリンデンと同郷のベルギーの探検家としてしかガレオッティを認識しなかったが、リンデンたちと行動を共にすることによってプラントハンターとして育っていったようだ。
リンデン探検隊は1838年にメキシコ探検に来ているが、ガレオッティは、1835年大学卒業後直ぐにメキシコの地質学的なリサーチに派遣されて来ていたので、リンデン達よりもメキシコ探検の先輩であり、地質学的な探索だけでなく、プラントハンティングにも興味関心が広がっていったのだろう。
ガレオッティの生い立ち
ガレオッティは、1814年にパリで生れ、1830年8月にベルギー独立の革命がおきるがこの直後あたりにベルギー・ブリュッセルに父親と共に移住し、有名な地質学者で地図製作者でもあったファンデルマーレン(Vandermaelen, Philippe 1791-1869) が1830年に設立した“Etablissement Géographique de Bruxelles”で学んだ。直訳するとブリュッセル地理学院とでもなるのだろうか?
ガレオッティは優秀な卒業論文を書き、1835年にベルギーのアカデミーから金メダルを受賞したが、この授賞式には出席せずにメキシコに出発し、その年の12月に到着している。
彼がメキシコに行ったのは、ファンデルマーレン兄弟がスポンサーとなり、中央アメリカの地質学的な情報を収集するためであり、メキシコには1835-1840年までの5年間滞在し、オリザバ山の登頂、Chapala 湖の地図と博物誌などの作成が実績として残っていてこれらが本来の探検旅行の目的であった。
スポンサーのファンデルマーレン兄弟は、家業がフランダースの裕福な石鹸メーカーであり、フィリップは家業を継がずに地図製作者として名を上げ、中央アメリカの地図製作のための情報を収集するためにガレオッティをメキシコに派遣した。
しかし、ガレオッティは、このメキシコ滞在期間中に植物学への興味を深め、数多くの植物、特にサボテンを採取して1840年にベルギーに戻った。彼が集めた植物と標本は、後にブリュッセル植物園が購入している。
帰国後、ブリュッセル大学で地質学を教える職を提供されたが、これを断り、郊外で育種園を経営するビジネスを選択し、帰国直後の1840-1841年に、サボテンなどを輸入して販売するビジネスを具体化するためにメキシコに旅行した。
開業資金面では、彼の友人である数学者のケトレ(Quetelet, Lambert Adolphe Jacques 1796 –1874)に出資を頼んだが、彼は、サボテンとガレオッティの夢を理解することが出来なかった。そこで資金調達のために、彼のメキシコでの植物コレクションの一部(8000標本)を売ることにしたが、その中のたった一つのサボテンが労働者の一年の賃金に当たる500フランで売れたというから好事家のマーケットが成立していたようだ。
やはり、事業を立ち上げるのは大変だ。
この育種園では、植物学者マルティン(Martens, Martin 1797-1863)と一緒に働き、ガレオッティが採取した植物の同定・分類などを担当し、多くの植物に命名者として“M.Martens & Galeotti”と足跡を残している。
ただし、同定するための過去の植物情報が少なかったためか、或いは、唯我独尊だったのかわからないが、先に発見され命名されているモノが結構あり、マルティンとガレオッティが命名した植物名は受理されないものが多い。
植物命名の総本山であるロンドンのリンネ協会、キュー植物園などとのネットワークが無かったのか、この権威を認めていないためなのか、或いは園芸ビジネスに主眼を置き学名などに気にもとめていなかったのか、チェックが甘かった。
ガレオッティの採取した植物を調べていてこれには大分泣かされた。一つの植物品種には一つの名前というリンネの考えは正しいし間違いが排除できる。と調べることに無駄に近い汗をかきながら思った。
ガレオッティの育種園は、経済危機も影響し1849年頃倒産する。
この頃のヨーロッパは10年周期で景気の変動があったが、ジャガイモの根ぐされ病、ペストの流行などで1845-1849年のアイルランドの大飢饉は、100万人が餓死し100万人がアメリカなどへ移住したという。ケネディ家もこの時の移民の一人であり、アイルランドからの移民の子孫から米国大統領を輩出するが、これは後のことであり、ヨーロッパでは経済危機と革命の嵐が吹き荒れる時期にガレオッティの育種園が倒産した。
ガレオッティの育種事業は10年持たなかったが、メキシコのサボテンを世界に広めたのはガレオッティであることは間違いない。
1852年からはブリュッセル植物園と一緒に園芸誌“d’Horticulture pratique”の編集を始め、1857年に最初の発刊を行った。
また、倒産後の職としてブリュッセル植物園に1853年から彼が亡くなる1858年まで園長として勤め、彼の個人的なコレクションは死亡後に植物園が買い取った。
44歳と早世であったが、メキシコのシダ、サボテンなどで新しい種の発見など成果を残している。
ガレオッティが採取したサルビア
キュー植物園の植物標本登録データベースには、ガレオッティがメキシコで21種のサルビアを採取したと記録されている。そのうちのいくつかを紹介する。
(1)Salvia longispicata
(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm
ガレオッティが1840年にメキシコ南西部で発見・採取した「サルビア・ロンギスピカタ」は、標高400‐2000mの地域に自生する1.3mぐらいの小さな多年生の潅木で、青紫の花を長い花序にコーンのようにスパイク状に密集してつけるので“ロンギスピカタ”(long+spike)という種小名がつけられた。
しかし、実物の写真を掲載しているところが少なく、現在はあまり栽培されていないのだろう。この写真も実物とマッチしているかどうか疑問のところがあるという。
この「サルビア・ロンギスピカタ」は、「サルビア・ファリナケア(Sslvia farinacea)」との自然交配で“ラベンダーセージ”で知られる「サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')」が誕生していて、こちらの方が有名になっている。
(写真)サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')
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※ サルビア・インディゴ・スパイヤーの説明はこちら
(2)Salvia chrysantha (類似:Salvia lasiantha(True Species))
(写真)類似のサルビア・ラシアンサ(True Species)
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(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm
採取年は不明だが、学名は「サルビア・ロンギスピカタ」同様に1844年にMartens &とGaleottiによって命名されているので、1840年頃採取されたのだろう。採取した場所は、メキシコ中部のザカテカス州カニタス・デ・フェリッペ・ペスカドル付近の山中。というところまではわかったが、このサルビアの植物情報がなかなか見当たらない。仕方ないので類似の「サルビア・ラシアンサ」の写真とその植物情報を記述する。
「サルビア・ラシアンサ」は、冬に開花するサルビアで温室で育てる必要がありそうだが、赤紫の萼とオレンジの花のコンビネーションが見事な花だ。こんなサルビアもあったのだと感心してしまう。
(3)Salvia galeottii(同義 Salvia coccinea)
「サルビア・ガレオッティ」は、1840年6月にメキシコ、ベラクルーズの近くにあるハラパ(Jalapa)でガレオッティによって採取され、1844年に「Salvia galeottii」と命名された。しかしこの花は、「サルビア・コクシネア」と既に違った学名で1777年に発表されておりこれが優先されている。
「サルビア・コクシネア」は、日本でも普及していて、園芸品種を含めてピンク、レッド、ホワイトなどカラフルな花色が楽しめる。
(写真)サルビア・コクシネア
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※サルビア・コクシネアの説明はこちら
(4)Salvia martensii (同義:Salvia carnea var. carnea)
(サルビア・カルネアの写真リンク)The National Gardening Association
「サルビア・マーテンシィ」は、1840年にガレオッティがメキシコ南西部で採取したサルビア。1844年に「Salvia martensii」と命名されたが、「サルビア・カルネア(Salvia carnea var. carnea.)」と同じであり、メキシコシティから南西方向に150km行ったところにあるバレデブラボ地域に自生する。夏から秋にかけて長い花穂を伸ばし、淡いピンクの小さな花をつける。木質性の1.2mぐらいの潅木で、温暖なところでは一年中花をつけるというが、耐寒性が弱いようなので育てにくいようだ。
雑 感
1830年にオランダから分離独立したベルギーは、北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏で、現在でもこの違いが解決しないで分離独立の動きがあるという。
この新興国ベルギーのプラントハンターであるリンデンとガレオッティには、生涯プラントハンターを追及した英国のプラントハンターとは異なり、スポンサーから独立した財政基盤を創ろうとする共通した行動が見られた。この違いはどこから来ているのだろうかという疑問と興味がわいてしまった。
そういえば、シリーズN04のベルギーのプラントハンター“リンデン”のところでこんな記述をした。
「リンデン探検隊3名及びベルギーの植物学者でプラントハンターのガレオッティ(Galeotti, Henri Guillaume 1814-1858)の4名は、オリザバ市の約30㎞北西部にあるメキシコ最高峰のオリザバ山に1838年8月に登頂し、最初の登山家としての栄誉も得ている。」
この時はリンデンと同郷のベルギーの探検家としてしかガレオッティを認識しなかったが、リンデンたちと行動を共にすることによってプラントハンターとして育っていったようだ。
リンデン探検隊は1838年にメキシコ探検に来ているが、ガレオッティは、1835年大学卒業後直ぐにメキシコの地質学的なリサーチに派遣されて来ていたので、リンデン達よりもメキシコ探検の先輩であり、地質学的な探索だけでなく、プラントハンティングにも興味関心が広がっていったのだろう。
ガレオッティの生い立ち
ガレオッティは、1814年にパリで生れ、1830年8月にベルギー独立の革命がおきるがこの直後あたりにベルギー・ブリュッセルに父親と共に移住し、有名な地質学者で地図製作者でもあったファンデルマーレン(Vandermaelen, Philippe 1791-1869) が1830年に設立した“Etablissement Géographique de Bruxelles”で学んだ。直訳するとブリュッセル地理学院とでもなるのだろうか?
ガレオッティは優秀な卒業論文を書き、1835年にベルギーのアカデミーから金メダルを受賞したが、この授賞式には出席せずにメキシコに出発し、その年の12月に到着している。
彼がメキシコに行ったのは、ファンデルマーレン兄弟がスポンサーとなり、中央アメリカの地質学的な情報を収集するためであり、メキシコには1835-1840年までの5年間滞在し、オリザバ山の登頂、Chapala 湖の地図と博物誌などの作成が実績として残っていてこれらが本来の探検旅行の目的であった。
スポンサーのファンデルマーレン兄弟は、家業がフランダースの裕福な石鹸メーカーであり、フィリップは家業を継がずに地図製作者として名を上げ、中央アメリカの地図製作のための情報を収集するためにガレオッティをメキシコに派遣した。
しかし、ガレオッティは、このメキシコ滞在期間中に植物学への興味を深め、数多くの植物、特にサボテンを採取して1840年にベルギーに戻った。彼が集めた植物と標本は、後にブリュッセル植物園が購入している。
帰国後、ブリュッセル大学で地質学を教える職を提供されたが、これを断り、郊外で育種園を経営するビジネスを選択し、帰国直後の1840-1841年に、サボテンなどを輸入して販売するビジネスを具体化するためにメキシコに旅行した。
開業資金面では、彼の友人である数学者のケトレ(Quetelet, Lambert Adolphe Jacques 1796 –1874)に出資を頼んだが、彼は、サボテンとガレオッティの夢を理解することが出来なかった。そこで資金調達のために、彼のメキシコでの植物コレクションの一部(8000標本)を売ることにしたが、その中のたった一つのサボテンが労働者の一年の賃金に当たる500フランで売れたというから好事家のマーケットが成立していたようだ。
やはり、事業を立ち上げるのは大変だ。
この育種園では、植物学者マルティン(Martens, Martin 1797-1863)と一緒に働き、ガレオッティが採取した植物の同定・分類などを担当し、多くの植物に命名者として“M.Martens & Galeotti”と足跡を残している。
ただし、同定するための過去の植物情報が少なかったためか、或いは、唯我独尊だったのかわからないが、先に発見され命名されているモノが結構あり、マルティンとガレオッティが命名した植物名は受理されないものが多い。
植物命名の総本山であるロンドンのリンネ協会、キュー植物園などとのネットワークが無かったのか、この権威を認めていないためなのか、或いは園芸ビジネスに主眼を置き学名などに気にもとめていなかったのか、チェックが甘かった。
ガレオッティの採取した植物を調べていてこれには大分泣かされた。一つの植物品種には一つの名前というリンネの考えは正しいし間違いが排除できる。と調べることに無駄に近い汗をかきながら思った。
ガレオッティの育種園は、経済危機も影響し1849年頃倒産する。
この頃のヨーロッパは10年周期で景気の変動があったが、ジャガイモの根ぐされ病、ペストの流行などで1845-1849年のアイルランドの大飢饉は、100万人が餓死し100万人がアメリカなどへ移住したという。ケネディ家もこの時の移民の一人であり、アイルランドからの移民の子孫から米国大統領を輩出するが、これは後のことであり、ヨーロッパでは経済危機と革命の嵐が吹き荒れる時期にガレオッティの育種園が倒産した。
ガレオッティの育種事業は10年持たなかったが、メキシコのサボテンを世界に広めたのはガレオッティであることは間違いない。
1852年からはブリュッセル植物園と一緒に園芸誌“d’Horticulture pratique”の編集を始め、1857年に最初の発刊を行った。
また、倒産後の職としてブリュッセル植物園に1853年から彼が亡くなる1858年まで園長として勤め、彼の個人的なコレクションは死亡後に植物園が買い取った。
44歳と早世であったが、メキシコのシダ、サボテンなどで新しい種の発見など成果を残している。
ガレオッティが採取したサルビア
キュー植物園の植物標本登録データベースには、ガレオッティがメキシコで21種のサルビアを採取したと記録されている。そのうちのいくつかを紹介する。
(1)Salvia longispicata
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(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm
ガレオッティが1840年にメキシコ南西部で発見・採取した「サルビア・ロンギスピカタ」は、標高400‐2000mの地域に自生する1.3mぐらいの小さな多年生の潅木で、青紫の花を長い花序にコーンのようにスパイク状に密集してつけるので“ロンギスピカタ”(long+spike)という種小名がつけられた。
しかし、実物の写真を掲載しているところが少なく、現在はあまり栽培されていないのだろう。この写真も実物とマッチしているかどうか疑問のところがあるという。
この「サルビア・ロンギスピカタ」は、「サルビア・ファリナケア(Sslvia farinacea)」との自然交配で“ラベンダーセージ”で知られる「サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')」が誕生していて、こちらの方が有名になっている。
(写真)サルビア・インディゴ・スパイヤー(Salvia 'Indigo Spires')
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※ サルビア・インディゴ・スパイヤーの説明はこちら
(2)Salvia chrysantha (類似:Salvia lasiantha(True Species))
(写真)類似のサルビア・ラシアンサ(True Species)
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(写真出典)Robin’s Salvias
http://www.robinssalvias.com/blue/l.shtm
採取年は不明だが、学名は「サルビア・ロンギスピカタ」同様に1844年にMartens &とGaleottiによって命名されているので、1840年頃採取されたのだろう。採取した場所は、メキシコ中部のザカテカス州カニタス・デ・フェリッペ・ペスカドル付近の山中。というところまではわかったが、このサルビアの植物情報がなかなか見当たらない。仕方ないので類似の「サルビア・ラシアンサ」の写真とその植物情報を記述する。
「サルビア・ラシアンサ」は、冬に開花するサルビアで温室で育てる必要がありそうだが、赤紫の萼とオレンジの花のコンビネーションが見事な花だ。こんなサルビアもあったのだと感心してしまう。
(3)Salvia galeottii(同義 Salvia coccinea)
「サルビア・ガレオッティ」は、1840年6月にメキシコ、ベラクルーズの近くにあるハラパ(Jalapa)でガレオッティによって採取され、1844年に「Salvia galeottii」と命名された。しかしこの花は、「サルビア・コクシネア」と既に違った学名で1777年に発表されておりこれが優先されている。
「サルビア・コクシネア」は、日本でも普及していて、園芸品種を含めてピンク、レッド、ホワイトなどカラフルな花色が楽しめる。
(写真)サルビア・コクシネア
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※サルビア・コクシネアの説明はこちら
(4)Salvia martensii (同義:Salvia carnea var. carnea)
(サルビア・カルネアの写真リンク)The National Gardening Association
「サルビア・マーテンシィ」は、1840年にガレオッティがメキシコ南西部で採取したサルビア。1844年に「Salvia martensii」と命名されたが、「サルビア・カルネア(Salvia carnea var. carnea.)」と同じであり、メキシコシティから南西方向に150km行ったところにあるバレデブラボ地域に自生する。夏から秋にかけて長い花穂を伸ばし、淡いピンクの小さな花をつける。木質性の1.2mぐらいの潅木で、温暖なところでは一年中花をつけるというが、耐寒性が弱いようなので育てにくいようだ。
雑 感
1830年にオランダから分離独立したベルギーは、北部がオランダ語圏、南部がフランス語圏で、現在でもこの違いが解決しないで分離独立の動きがあるという。
この新興国ベルギーのプラントハンターであるリンデンとガレオッティには、生涯プラントハンターを追及した英国のプラントハンターとは異なり、スポンサーから独立した財政基盤を創ろうとする共通した行動が見られた。この違いはどこから来ているのだろうかという疑問と興味がわいてしまった。