モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

No12:「サルビア・マドレンス」と 世界を一周したプラントハンター、ゼーマン

2010-08-01 13:13:53 | メキシコのサルビアとプラントハンター
メキシコのサルビアとプラントハンターの物語 No12

メキシコにいつ来たかよくわからないために危うく忘れるところだったプラントハンターが一人いた。
ドイツ、ハノーバー生れのゼーマン(Seemann, Berthold Carl 1825-1871)で、メキシコのサルビアを二種採取して1856年にゼーマンが命名者となっているので、これ以前にメキシコでプラントハンティングをしている。1848-1849年にかけてサルビア以外の多数の植物をメキシコで採取しているのできっとこの頃なのだろう。

(地図)ゼーマン探検のコース

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』

彼は、世界を一周する探検隊に参加し、イギリスからブラジル・リオデジャネイロに行き、そのまま南下して南米最南端の海峡から太平洋に面した中南米の国ペルー、コロンビア、ヴェネズエラ、エクアドル、ニカラグア、パナマ、そしてメキシコ、米国、そしてフィジー、ハワイを探検し、マレーシア、シンガポール、そして南アフリカ・ケープ地方のテーブルマウンテンに登り英国に帰国するが、メキシコ以外に数多くの国で植物を採取した。

1859年に、彼はフィジーへ旅立って島の植物相の植物カタログを出版し、1860年代は再び南米を探検旅行して、1864年にはベネズエラ、1866-67年はニカラグアを旅行した。その後パナマの砂糖農園の管理、ニカラグアでは金鉱山の管理者となったがここで黄熱病にかかり亡くなる。晩年は、プラントハンター、植物学者のコースからはずれ目標を見失った感がある。


(出典)wikipedia

このゼーマンは、19歳の時の1844年に英国でプラントハンターの実践を学ぶためにキュー王立植物園に修行に来た。そして1941年からキュー植物園の園長だったW.Jフッカー卿(Hooker,William Jackson 1785-1865)の推薦で「HMS Herald, 1847–1851」の探検隊に参加することが出来た。フッカー卿(父)の目にとまったのだからよほど優秀だったのだろう。

この「HMS Herald, 1847–1851」探検隊を説明しなければならないが、英国海軍の軍艦ヘラルド号を使い、1847年から1851年までアメリカ西海岸とハワイ・フィジーなどの太平洋を探検し、南アフリカ喜望峰を経由して1851年6月6日に帰国した。

途中の1848年からは、北極探検をしていて消息がなくなったフランクリン探検隊(Sir John Franklin 1786–1847)の捜索にも従事し、ベーリング海峡、北極海周辺の探索も行った。このフランクリン探検隊全滅の原因は、自然の脅威が原因ではなく3年分の食糧を缶詰で持っていったが、蓋を閉じる際に使用した鉛が原因だったようだ。人間が作り出した文明の犠牲として有名な事件だったが、既にこの時から水俣病が起きていたのだ。

探検隊の人員構成を見ておくと、ヘラルド号の艦長はケレット(Sir Henry Kellett 1806-1875)で、フランクリン探検隊捜索の時に新しい島を発見し、船名をとってヘラルド島と名付ける。同乗したのは、生物学者フォーブス(Forbes,Edward 1815 –1854)、ナチュラリストとしてエドモンズトン(Edmondston, Thomas 1825–1846)とグッドリッジ(Goodridge,John 不明)そして、ゼーマンもナチュラリストとして乗船したが、席順は最下位でありエドモンズトンのアシスタント的な位置づけなのだろう。

(写真)左側がヘラルド号

(出典)University of Pittsburgh, Library
Seemann著『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の挿絵

ヘラルド号は、調査船として1822年に建造された500トンの木造帆船で、ディズニーランドか、ラスベガスのホテルにありそうなノスタルジックないい感じがするが、これで長期間の大航海をしたので快適とはいえない生活だったのだろう。
英国海軍の船には“HMS”という略称が使われる。何の略かと思ったら“Her Majesty's Ship(女王陛下の船)”だった。なるほど英国だ。

エドモンズトン死亡の怪
1846年7月、悲劇はエクアドル北西部にあるエスメランダ(Esmeraldas)地方の港町Atacamesで起きた。銃の暴発でエドモンズトンが死亡した。21歳だった。
歴史に“もし”ということは無いが、彼が生きていればバンクス卿と似たようなキャリアを経験し英国のアカデミーをリードする人物となったのだろうと推測できる。

何故推測したのか? 
という問いには英国だからと答えざるを得ないが、国をリードする人間は、若い時に難関を突破させる試練を与えられ試されるようだ。多分生死をかけるほどの難関であり生き残った者が(バンクス卿のように)その後の世界を構築する権利を得る。こういった考え方が英国の上流階級にあったように感じ取れる。

エドモンズトンは、20歳の頃に英国の次代のリーダー候補として選ばれたのだろう。
では、エドモンズトンは選ばれた人間なのだろうかというキャリアを垣間見ると
彼は、ゼーマンと同じ年に生まれ、その家系はスコットランド北方にあるシェトランド島では地主であり科学者を輩出した優れた家系のようだ。

エドモンズトンは早熟であり、11歳でシェトランド島の植物相を調査して編集し、20歳の時にはグラスゴーにある大学の植物学教授に任じられた。この数ヵ月後にはHMSヘラルド号のナチュラリストの地位を提供された。
この選定に関わったのが、キュー植物園の園長フッカー卿の息子Joseph Dalton Hooker(1817 – 1911)のようだ。息子のフッカーは、エドモンズトン11歳の時のシェトランド島の植物相の成果に接しており、8歳年下のエドモンズトンを盟友と認めたのだろう。

一方、このパートの主役ゼーマンは、帰国後の1853年に探検旅行の成果報告としての本を著する。その序文は次のような書き出しで始まる。
『1846年7月、トーマス・エドモンズトン氏の死亡後に、かねてよりフッカー卿(父)が約束していた、HMSヘラルド号のナチュラリストの名誉ある地位に任命された。』という書き出しで彼の探検旅行記『Narrative of the voyage of H.M.S. Herald』の序文が始まる。

序文の書き出しとしては奇異な印象を受けるが、初めの頃はゼーマンの自己顕示の表れだろうとしか思っていなかった。だが、ここにミステリーがあった。

エドモンズトンを撃ったライフル銃はゼーマンの銃であり、その引き金を引いたのはゼーマンのズボンの裾だった。
暴発が起きた場面は、(ヘラルド号に戻る?)ボートの中であり、ゼーマンの後にエドモンズトンが座っていた。そして、ゼーマンの銃口がエドモンズトンに向いていてズボンの裾が引き金を引いてしまった。
弾は、Whiffin氏の腕を貫通しエドモンズトンの頭に当った。エドモンズトンはかすかな悲鳴を上げ水に落ち死亡した。という。

悲劇的な事故が起きてしまった。というのが公式見解のようだが、これは偶発の事故だったのだろうか?
綿密に計画され周到にレッスンをした計画殺人という可能性は無いのだろうか? いまさら詮索しても意味の無いことを真剣に調べてしまった。

動機は、既に書いているので推理していただきたい。同年齢でなかったら起きなかったのかもわからない。?
(真剣に考えた方は意見をコメント欄に書いてね!)

ゼーマンが採取したサルビア
ゼーマンがメキシコで採取したサルビアはたったの2種であり、そのうちの一つが、サルビアの中では稀有なカナリア色の濃いイエローの花が咲く「サルビア・マドレンシス(Salvia madrensis)」だった。
草丈2m、手のひら大のハート型の葉、茎の先に花穂を伸ばしそこになまめかしいイエローの花が晩秋から多数咲く。秋の日に映えるこの強烈な色はクールダウンしていく気持ちを掻き立てる力がありそうだ。
秘めたる野心があるゼーマンが発見した花だけのことはありそうだ。

(写真)サルビア・マドレンシスの花


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