栽培植物の起源と伝播 No6
『全く異なる画期的な新種Zea diploperennisを発見したことになる。』というのが前号の最後だった。
その『画期的』な幾つかをまとめてみると次のようになる。
d. Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)ジーア・ディプロペレンニス(続き)
イルチスがポスターの大きさの年賀状を書いた1976年は、トウモロコシにとって画期的なイベントがいくつも始まる年でもあった。
最初に、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の命名者に名を連ねたドエブリー(Doebley , John F 1952?- )から始めよう。
遺伝学からトウモロコシの起源にアプローチしたポスト・リンネの旗手ドエブリー
(写真)Doebley , John F
(出典)National Academy of Sciences
ドエブリーは、大学の専攻を生物学で始めたが、遺跡発掘などをする人類学に専攻を変え1974年にペンシルベニアのWest Chester State Collegeを卒業した。人類学での修士過程はEastern New Mexico 大学に進み、考古学的なアプローチだけでなく遺伝学・生態学・霊長類学を取り込むようになった。しかし遺伝学は苦手のようだった。1976年からの人類学での博士課程では、Wisconsin–Madison大学に進み、ここで植物学教授のイルチスと出会った。
その出会いはこんな感じだったようだ。
イルチスが「人類学者は、植物のことを何も知らない。」といっているのを聞いた学生が、「ドエブリーはそうじゃない。」といったのを聞いたイルチスが、「君のためのプロジェクトがある。」とドエブリーを誘ったそうだ。
イルチスが手がけていたプロジェクトとは、“トウモロコシと野生のテオシント(ブタモロコシ)との関係を分類し、トウモロコシの起源を明確にする”プロジェクトだった。
ドエブリーは自分で何が出来るか勝敗もわからずにこの誘いに乗ってしまい、ここから大きな変革をドエブリーが作り出すことになる。
専攻をころころ変える優柔不断なドエブリーと見られても仕方ないが、結果的には、生物学がわかり考古学・人類学がわかり遺伝学がわかるというトウモロコシの起源に関わった科学者のクロスオーバーをドエブリー個人で完結するスキルを身につけていたことになる。運が良かったのかチャンスを呼び込んだのかわからないが、師匠のイルチスではでき得なかったドエブリーのための舞台が用意されていて彼はこれをしっかりと掴んだ。
ドエブリー以前の植物の分類は、雄しべ雌しべの数・形、花弁の枚数・形、葉の生え方・形・枚数等々親の形質を受け継ぐ形態による比較で、同じ品種か違う品種かを分類していた。この分類方法を、この手法を編み出した“リンネ”主義による分類とすると、ドエルビーは、植物の形態その物を作り出す遺伝子からアプローチする手法開発にその後20年間も取り組むことになる。
今では、血液から親子の関係を明確にするDNA鑑定は広く知られるようになっているが、トウモロコシで親子の関係、親戚関係、他人を区別するだけでなく、遺伝子を組み替えてクーロンを作り出すことを可能にしたのがドエルビーなので、ポスト・リンネの旗手ドエブリーを見出したイルチスはすごい人材をハンティングしたことになる。
膨大な植物標本を作り出したイルチスだが、プラントハンターというよりは、マン&ウーマンのハンターとしての能力も優れたものを持っていたようだ。
1976年は、この年にZea diploperennisを発見することになるグアダラハラ大学の学生グスマン(Guzmán, Rafael 1950-)、この種が全くの新種だということを分析し、この種の特殊能力を発見することになるドエブリー(Doebley , John F 1952?-)が出会い、トウモロコシの起源と世界三大穀物であるトウモロコシのビジネスが大きく変わる変革のスタートの年でもあった。
ウイルスに強い耐性をもつ新種 ジーア・ディプロペレンニス
画期的なことの二番目は、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)そのものにある。それは、Zea diploperennisは、トウモロコシにとって厄介な病気を引き起こす7種類のウイルスに強いという特質を持っていたということだった。
さらに、同じ多年草のZea perennisの場合は、他種と交配しても1代限りであり孫を作れないのに対して、Zea diploperennisは自由に雑種が作れるので、これまでにないトウモロコシの品種を創れるという可能性が高まった。
ウイルスに強く新たな品種を創りえる野生の新種の発見は、その当時の社会の識者を興奮させ、ニューヨークタイムズの一面を飾ったのもうなずける。
俄然注目を集め、この遺伝子を使って科学者はウイルスに強いトウモロコシの種類を開発し、世界三大穀物であるトウモロコシビジネスに関わる企業は、旱魃(カンバツ)に強く、害虫・ウイルスに強い収穫量の多いトウモロコシを新たに生み出せるのではないかという期待からその計り知れない価値に注目した。
当然、遺伝資源の利用と保全、知的財産権など新しい問題提起も起こされた。もはや内緒でZea diploperennisをメキシコ国外に持ち出すとか、内緒で遺伝子を組み替えた実験をするとかは国際的に犯罪になる時代に入った。
ワトソン(Watson ,James Dewey 1928- )とクリック(Crick, Francis Harry Compton 1916-2004)がDNAの二重らせん構造を明らかにしたのは1953年だったが、1970年代になると遺伝子工学が発達し遺伝子の組み換え実験がなされるようになる。その最初の実験は、1971年にスタンフォード大学のポール・バーグ(Paul Berg, 1926-)によってなされた。
無秩序な遺伝子組み換えによる実験は地球にない危険な生物を生み出す危険もあり、ポール・バーグも提唱者となり、1975年にカリフォルニア州のアシロマで国際会議が開催されそのガイドラインが議論された。
核物理学者が科学の進歩を無秩序に是認したために原子爆弾を作ってしまった世界的な反省があり、分子生物学者をして自己規制をするルールを事前に作るようになった。
ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)はこんな時代背景の中で発見されたので、野生種の保存は、遺伝子工学を活用する点でも、或いは、遺伝子工学を倫理的に使わない場合にはもっと重要性を持つようになる。
Sierra de Manantlan Biosphere Reserve
シエラ・デ・マナントラン生物保護区の設立
野生種のテオシント(ブタモロコシ)は、農地の拡大などで急速に生息地が減少し生存の危機に直面している。イルチスは野生種の保存、生物の多様性を保護する環境の保護に力を入れていて、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の発見はメキシコ政府・ハリスコ州政府に環境保護の必要性を感じさせるのに十分だった。
ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)が発見されてから10年後の1987年に、発見された場所であるシエラ・デ・マナントラン(Sierra de Manantlan)に生物保護区を作った。350,000エーカー(1416k㎡)の土地を保護区としグアダラハラ大学が管理することになった。
この保護区熱帯雨林地帯が基本で、斜面にはオーク、パインが広がり、メキシコ原産の植物が多いので知られているところだが、この広さは東京都の半分以上の広さがあるから驚きだ。
(地図)Sierra de Manantlan(メキシコシティの西)
イルチスがポスターの大きさの年賀状に書いた『“荒野で絶滅している(Zea perennis)!”』は、東京都の半分以上の広さの野生種のテオシントなどを保護する保護区となり、そこにはイルチスの夢も、そして、トウモロコシを必要とする人間の夢も育まれる場が出来た。
『全く異なる画期的な新種Zea diploperennisを発見したことになる。』というのが前号の最後だった。
その『画期的』な幾つかをまとめてみると次のようになる。
d. Zea diploperennis H.H. Iltis, Doebley & R. Guzmán (1979)ジーア・ディプロペレンニス(続き)
イルチスがポスターの大きさの年賀状を書いた1976年は、トウモロコシにとって画期的なイベントがいくつも始まる年でもあった。
最初に、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の命名者に名を連ねたドエブリー(Doebley , John F 1952?- )から始めよう。
遺伝学からトウモロコシの起源にアプローチしたポスト・リンネの旗手ドエブリー
(写真)Doebley , John F
(出典)National Academy of Sciences
ドエブリーは、大学の専攻を生物学で始めたが、遺跡発掘などをする人類学に専攻を変え1974年にペンシルベニアのWest Chester State Collegeを卒業した。人類学での修士過程はEastern New Mexico 大学に進み、考古学的なアプローチだけでなく遺伝学・生態学・霊長類学を取り込むようになった。しかし遺伝学は苦手のようだった。1976年からの人類学での博士課程では、Wisconsin–Madison大学に進み、ここで植物学教授のイルチスと出会った。
その出会いはこんな感じだったようだ。
イルチスが「人類学者は、植物のことを何も知らない。」といっているのを聞いた学生が、「ドエブリーはそうじゃない。」といったのを聞いたイルチスが、「君のためのプロジェクトがある。」とドエブリーを誘ったそうだ。
イルチスが手がけていたプロジェクトとは、“トウモロコシと野生のテオシント(ブタモロコシ)との関係を分類し、トウモロコシの起源を明確にする”プロジェクトだった。
ドエブリーは自分で何が出来るか勝敗もわからずにこの誘いに乗ってしまい、ここから大きな変革をドエブリーが作り出すことになる。
専攻をころころ変える優柔不断なドエブリーと見られても仕方ないが、結果的には、生物学がわかり考古学・人類学がわかり遺伝学がわかるというトウモロコシの起源に関わった科学者のクロスオーバーをドエブリー個人で完結するスキルを身につけていたことになる。運が良かったのかチャンスを呼び込んだのかわからないが、師匠のイルチスではでき得なかったドエブリーのための舞台が用意されていて彼はこれをしっかりと掴んだ。
ドエブリー以前の植物の分類は、雄しべ雌しべの数・形、花弁の枚数・形、葉の生え方・形・枚数等々親の形質を受け継ぐ形態による比較で、同じ品種か違う品種かを分類していた。この分類方法を、この手法を編み出した“リンネ”主義による分類とすると、ドエルビーは、植物の形態その物を作り出す遺伝子からアプローチする手法開発にその後20年間も取り組むことになる。
今では、血液から親子の関係を明確にするDNA鑑定は広く知られるようになっているが、トウモロコシで親子の関係、親戚関係、他人を区別するだけでなく、遺伝子を組み替えてクーロンを作り出すことを可能にしたのがドエルビーなので、ポスト・リンネの旗手ドエブリーを見出したイルチスはすごい人材をハンティングしたことになる。
膨大な植物標本を作り出したイルチスだが、プラントハンターというよりは、マン&ウーマンのハンターとしての能力も優れたものを持っていたようだ。
1976年は、この年にZea diploperennisを発見することになるグアダラハラ大学の学生グスマン(Guzmán, Rafael 1950-)、この種が全くの新種だということを分析し、この種の特殊能力を発見することになるドエブリー(Doebley , John F 1952?-)が出会い、トウモロコシの起源と世界三大穀物であるトウモロコシのビジネスが大きく変わる変革のスタートの年でもあった。
ウイルスに強い耐性をもつ新種 ジーア・ディプロペレンニス
画期的なことの二番目は、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)そのものにある。それは、Zea diploperennisは、トウモロコシにとって厄介な病気を引き起こす7種類のウイルスに強いという特質を持っていたということだった。
さらに、同じ多年草のZea perennisの場合は、他種と交配しても1代限りであり孫を作れないのに対して、Zea diploperennisは自由に雑種が作れるので、これまでにないトウモロコシの品種を創れるという可能性が高まった。
ウイルスに強く新たな品種を創りえる野生の新種の発見は、その当時の社会の識者を興奮させ、ニューヨークタイムズの一面を飾ったのもうなずける。
俄然注目を集め、この遺伝子を使って科学者はウイルスに強いトウモロコシの種類を開発し、世界三大穀物であるトウモロコシビジネスに関わる企業は、旱魃(カンバツ)に強く、害虫・ウイルスに強い収穫量の多いトウモロコシを新たに生み出せるのではないかという期待からその計り知れない価値に注目した。
当然、遺伝資源の利用と保全、知的財産権など新しい問題提起も起こされた。もはや内緒でZea diploperennisをメキシコ国外に持ち出すとか、内緒で遺伝子を組み替えた実験をするとかは国際的に犯罪になる時代に入った。
ワトソン(Watson ,James Dewey 1928- )とクリック(Crick, Francis Harry Compton 1916-2004)がDNAの二重らせん構造を明らかにしたのは1953年だったが、1970年代になると遺伝子工学が発達し遺伝子の組み換え実験がなされるようになる。その最初の実験は、1971年にスタンフォード大学のポール・バーグ(Paul Berg, 1926-)によってなされた。
無秩序な遺伝子組み換えによる実験は地球にない危険な生物を生み出す危険もあり、ポール・バーグも提唱者となり、1975年にカリフォルニア州のアシロマで国際会議が開催されそのガイドラインが議論された。
核物理学者が科学の進歩を無秩序に是認したために原子爆弾を作ってしまった世界的な反省があり、分子生物学者をして自己規制をするルールを事前に作るようになった。
ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)はこんな時代背景の中で発見されたので、野生種の保存は、遺伝子工学を活用する点でも、或いは、遺伝子工学を倫理的に使わない場合にはもっと重要性を持つようになる。
Sierra de Manantlan Biosphere Reserve
シエラ・デ・マナントラン生物保護区の設立
野生種のテオシント(ブタモロコシ)は、農地の拡大などで急速に生息地が減少し生存の危機に直面している。イルチスは野生種の保存、生物の多様性を保護する環境の保護に力を入れていて、ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)の発見はメキシコ政府・ハリスコ州政府に環境保護の必要性を感じさせるのに十分だった。
ジーア・ディプロペレンニス(Zea diploperennis)が発見されてから10年後の1987年に、発見された場所であるシエラ・デ・マナントラン(Sierra de Manantlan)に生物保護区を作った。350,000エーカー(1416k㎡)の土地を保護区としグアダラハラ大学が管理することになった。
この保護区熱帯雨林地帯が基本で、斜面にはオーク、パインが広がり、メキシコ原産の植物が多いので知られているところだが、この広さは東京都の半分以上の広さがあるから驚きだ。
(地図)Sierra de Manantlan(メキシコシティの西)
イルチスがポスターの大きさの年賀状に書いた『“荒野で絶滅している(Zea perennis)!”』は、東京都の半分以上の広さの野生種のテオシントなどを保護する保護区となり、そこにはイルチスの夢も、そして、トウモロコシを必要とする人間の夢も育まれる場が出来た。