星空で野営する清貧なプラントハンター
ものめずらしい植物のコレクションが欲しいという
マリー・アントワネットのおねだりが契機で
アンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)はアメリカに行くことになった。
(写真) アンドレ・ミッショ
(出典):wikipedia
ミッショーは、フランス革命の4年前の1785年11月にニューヨークに着いた。
この植物採取旅行には、15歳になった彼の息子のフランシス(Francois André 1770-1855)と、
トーインが鍛えた若い庭師ピエールポールソーニエ(Pierre Paul Saunier)が同行した。
このアメリカ植物探索プロジェクトの仏でのリーダーが、トーイン(Andre Thouin 1746-1824)のようだ。
彼は、ミッショーの先生でもあるジュシュー(Bernard de Jussieu 1699-1777)から植物学をならい、
パリ植物園に植物学校を創設し、世界の植物の合理的な移植技術の研究を行った。
また、人間に破壊された森の自然を回復させる重要性を主張したことで知られる。
このことは、世界の植物を集めるプラントハンターが必要であることを意味する。
また、.第三代の米国大統領になるジェファーソン(Thomas Jefferson 1743 - 1826)と親交があり、
ミッショーの植物探索の米国側でのキーマンでもあった。
ここに登場したミッショー、トーイン、ジェファーソンは同世代でもある。
ベース基地の構築
植物探索の基本は、採取した植物を保管したり、育てて種を採取したりするスペースが必要だ。
これは江戸時代に日本に来たツンベルク、シーボルトなども狭い長崎の出島に庭を確保したり、
お寺の庭を借りたりとか工夫をしている。
ミッショーは、この拠点を短時間に2箇所確保した。
フランス革命前の王室が存在した時に構築できたので結果的に大正解だった。
最初に確保したのは、
ニューヨークの郊外ニュージャージーのハッケンサック近くに30エーカーの農場を確保し、
ニューヨーク近郊の探検から始めた。
このハッケンサックは今では全米でも裕福なところで、日曜日祝日には店が営業禁止となり、
黒装束のユダヤ教徒が礼拝に向かう姿だけが目に付く一種違和感がある光景があったが
あそこがハッケンサックだったかと今になって気づいた。
1786年9月にミッショーは、ハッケンサック庭園を一緒に連れてきた若い庭師ソーニエに任せ、
ニューヨーク到着1年もたたないうちに、サウスカロライナ州のチャールストンに彼の息子と船に乗り移動した。
ここで111エーカーの大きな庭を確保し、次の10年間の基地・拠点として活用した。
この庭は、東京ドーム9.6個分にあたるので、かなり広いスペースを確保した。
チャールストンは、大西洋側のフロリダ半島の付け根部分の上に位置し、
ルイ14世によって迫害が始まった新教徒ユグノーのコミュニティが移住し建設した裕福な都市だ。
ついでだが
フランシス・マッソンが植物探索で行った南アフリカ喜望峰、ケープタウンにも
ユグノー教徒が移住し南アフリカ建国の基盤を創ることになる。
イギリスに逃れたユグノー教徒を含め、
植物を愉しむ価値観を世界に拡散・普及したのがユグノー教徒でもある。
ものめずらしい植物のコレクションが欲しいという
マリー・アントワネットのおねだりが契機で
アンドレ・ミッショー(Michaux, André 1746-1803)はアメリカに行くことになった。
(写真) アンドレ・ミッショ
(出典):wikipedia
ミッショーは、フランス革命の4年前の1785年11月にニューヨークに着いた。
この植物採取旅行には、15歳になった彼の息子のフランシス(Francois André 1770-1855)と、
トーインが鍛えた若い庭師ピエールポールソーニエ(Pierre Paul Saunier)が同行した。
このアメリカ植物探索プロジェクトの仏でのリーダーが、トーイン(Andre Thouin 1746-1824)のようだ。
彼は、ミッショーの先生でもあるジュシュー(Bernard de Jussieu 1699-1777)から植物学をならい、
パリ植物園に植物学校を創設し、世界の植物の合理的な移植技術の研究を行った。
また、人間に破壊された森の自然を回復させる重要性を主張したことで知られる。
このことは、世界の植物を集めるプラントハンターが必要であることを意味する。
また、.第三代の米国大統領になるジェファーソン(Thomas Jefferson 1743 - 1826)と親交があり、
ミッショーの植物探索の米国側でのキーマンでもあった。
ここに登場したミッショー、トーイン、ジェファーソンは同世代でもある。
ベース基地の構築
植物探索の基本は、採取した植物を保管したり、育てて種を採取したりするスペースが必要だ。
これは江戸時代に日本に来たツンベルク、シーボルトなども狭い長崎の出島に庭を確保したり、
お寺の庭を借りたりとか工夫をしている。
ミッショーは、この拠点を短時間に2箇所確保した。
フランス革命前の王室が存在した時に構築できたので結果的に大正解だった。
最初に確保したのは、
ニューヨークの郊外ニュージャージーのハッケンサック近くに30エーカーの農場を確保し、
ニューヨーク近郊の探検から始めた。
このハッケンサックは今では全米でも裕福なところで、日曜日祝日には店が営業禁止となり、
黒装束のユダヤ教徒が礼拝に向かう姿だけが目に付く一種違和感がある光景があったが
あそこがハッケンサックだったかと今になって気づいた。
1786年9月にミッショーは、ハッケンサック庭園を一緒に連れてきた若い庭師ソーニエに任せ、
ニューヨーク到着1年もたたないうちに、サウスカロライナ州のチャールストンに彼の息子と船に乗り移動した。
ここで111エーカーの大きな庭を確保し、次の10年間の基地・拠点として活用した。
この庭は、東京ドーム9.6個分にあたるので、かなり広いスペースを確保した。
チャールストンは、大西洋側のフロリダ半島の付け根部分の上に位置し、
ルイ14世によって迫害が始まった新教徒ユグノーのコミュニティが移住し建設した裕福な都市だ。
ついでだが
フランシス・マッソンが植物探索で行った南アフリカ喜望峰、ケープタウンにも
ユグノー教徒が移住し南アフリカ建国の基盤を創ることになる。
イギリスに逃れたユグノー教徒を含め、
植物を愉しむ価値観を世界に拡散・普及したのがユグノー教徒でもある。
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