モノトーンでのときめき

ときめかなくなって久しいことに気づいた私は、ときめきの探検を始める。

その49:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相③

2008-08-16 18:51:28 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~1770年頃の喜望峰の描写

喜望峰の海岸に一人の男が上陸した。

イギリスのプリマスを出港した船の名前は レゾルーション号で、
船長はキャプテン・クックで知られた海軍少佐で海図製作者のジェイムズ・クック(James Cook,1728 -1779)。

この船は、喜望峰に1772年10月30日金曜日に到着した。
1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックによって建設されてから120年後のことだった。

船から降りたった男の名前は、フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805)
そうです、キュー王立植物園のプラントハンター第一号で、先に来ていたもう一人の著名な人間とともに、
南アフリカの植物相を世界に知らしめた人間だ。

キュー王立植物園が世界の植物情報の総本山を目指すようになったのは、
この時からはじまったといっても過言ではない。

キャプテン・クックの見た喜望峰
この当時の喜望峰の描写をキャプテン・クックの航海日誌から抜粋でひろってみる。

キャプテン・クックは計3回太平洋を探索する探検隊の責任者だったが
第一回の航海は、大西洋を南下し、南アメリカ最南端を回り南太平洋に出、タヒチ、ニュージランド、
オーストラリアを探検し、ジャワから喜望峰に向かいアフリカ西岸を北上しイギリスに帰った。
この時初めて喜望峰を見、物資を補給するために1ヶ月係留した際の観察記録でもある。



(出典)キャプテン・クック第一回の太平洋航海図
(赤:第一回航海) (緑:第二回航海)(青:第三回航海)

クック船長の航海日誌
(注)航海日誌の位置づけが“訓令(命令書)”にあるので記載すると、
船長が船を離れる場合、仕官下士官がつけている航海日誌・日記を提出させ、航海後の海軍省の検査のために封印すること。また、許可があるまで航海地に関して口外しないように命令すること。などがキャプテン・クックに極秘訓令として文書が渡されている。

1771年3月14日 木曜日 (入港の日)
テーブル湾には、オランダ8隻、デンマーク3隻、フランス4隻、イギリスの東インド行き帆船1隻が停泊していた。イギリス船は11発の礼砲をもって挨拶してくれ、この好意に対してわれわれは9発の礼砲をもって答えた。

(省略)

1771年4月15日 月曜日 (出港の日)
喜望峰はいろいろな人々によってあまりにもしばしば記述され、ヨーロッパ人には大変よく知られているので、私が何を書こうとも余計なことと思われるかもしれない。

しかし大部分の著者たち、特にバイロン氏の航海記の著者は、実際以上にこの土地の姿を美化して描いているので、何も知らない人は、実際にここへ来て見ると驚き失望することを私は言わざるを得ないのである。すなわち、今回の航海で見たいかなる土地も、ここほど不毛な様相を呈してはいなかった。

岬の上の土地は北はテーブル湾、南はフォールス湾によってかたちづくられた半島状をなし、高い荒れ果てた山々よりなる。東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。

耕作にたえる土地は1インチも残らず、小さな農園とされ、ぶどう園、果樹園、家庭菜園などが営まれているが、それらは相接してつくられたものはほとんどなく、おたがいにある距離をおいて散らばっている。

もしこの状況から判断するならば、この土地の内陸部はこれより肥沃であるはずがなく、肥えた土地は全体の非常に小さな部分を占めるにすぎない。われわれが聞かされたところによると、内陸に28日行ったところに居留地があるとのことであるが、それはイギリスのマイルでいえば900マイルにあたる。そして、そんなに遠くから陸上輸送の車でもってケープまで食糧を運んでくるのである。
(略)
この土地が多くの難点を抱えているにもかかわらず、オランダ人の勤勉さと、節約と、たくみなものごとの処理によって、生活の必需品だけでなく奢侈品もすべてここで非常に豊かに作られ、ある種のものを除けばヨーロッパのいかなる土地におけるよりもより安くとはいわないまでも同じくらいの値段で売られている。
(略)
ケープタウンの住民たちは一般に育ちがよくあらゆる異邦人に対して親切で礼儀正しい。そうすることが彼らの利益にかなっている。つまりこの町全体が、行き来するあらゆる旅人のうけいれのためにつくられた、大きな旅館の観を呈しているからである。』
(出典)クック太平洋探検記(岩波書店)

クックの目線、マッソンの目線
喜望峰は、120年の時間を経て国際的な港湾都市として成長している様子が伺え、
ポルトガル・スペインから、北海・バルト海に海上覇権が移行している時代背景も浮彫りになっている。
クックは、オランダ人の植民地及び港湾の運営の素晴らしさを評価しているが、
喜望峰の後背地ケープの自然環境及び農業生産性については辛口の点数をつけている。

「東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。」

と観察して書かれた自然環境は、地中海性気候の特色である雨が少なく乾燥した植物相であり、
スコットランド人で父が農場の監督だった生い立ちを考えると、クックにはわからない自然環境だったと思われる。
彼にとって、常緑樹もあり、緑豊かな土地が素晴らしい土地なのだろう。

海図の製作者でもある測量技術を持ったキャプテン・クックは、マクロ的に見る目を持ち合わせており、
前述の航海日誌にその観察眼が反映されている。
レゾルーション号から降りたマッソンは、個の花、個の植物というミクロな目線で見るので、
おのずとキャプテン・クックとは違った見方となるし結果も当然異なる。

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その48:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相②

2008-08-14 08:28:02 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~喜望峰が注目されたのは

喜望峰が発見されてから164年後の1652年に、
オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックがやってきて、喜望峰に補給基地を建設した。

アジア貿易の中継基地として航海上の重要な拠点として注目されただけでなく、
ポルトガルをアジアとの中継貿易から締め出すための重要な布石として
東インド会社はここに要塞を建設し新鮮な食料などをも供給する補給基地とした。

以後、1814年に最終的にイギリスがケープ植民地を600万ポンドで買収するまで、
オランダ移民が増えオランダの植民地となった。

17世紀末には、フランスを追われた新教徒ユグノーが大量に移住した。

言うまでもないが、この子孫達が人種差別のアパルトヘイト政策を実行したが
この点について触れるとわき道に行き過ぎるので触れないこととする。

ポルトガルはどうしたのだろうか? という疑問に答えておくと、
16世紀の100年間は、インドの胡椒・綿、インドネシアの香料・香辛料、中国の絹・磁器などが
リスボンの王立取引所に集まり、巨額の利益が王室国庫を潤した。

これらの利益を守るために、1530年にゴアをインド植民地の首都とし、
1557年に中国のマカオに永久居留権を「明」から取得し、鎖国まで日本との貿易拠点で繁栄した。
1595年には東アフリカ・ケニアのモンバサに巨大な要塞フォート・ジーザスを建設した。

しかし、1581年にスペインに統合されたポルトガルのアジア胡椒帝国は、1640年代以降斜陽化する。
原因は、1580年代にスペインから独立したオランダ
および1602年に設立された世界初の株式会社、オランダ東インド会社で、
旧教徒国家の中でポルトガルを狙い撃ちして攻撃し、その勢力圏を奪っていったためでもある。

ポルトガルが狙い撃ちされたのは、
根底では、ユダヤ人を追い出したつけがポルトガル、スペインに帰ってきたともいえる。

リスボンの海運業者の多くは、ユダヤ教からやむなく改宗した新教徒が多く、
ポルトガルから亡命したアムステルダムのユダヤ人社会と手を結んでいて、ポルトガルという国家の枠を超えていた。

ポルトガルを狙い撃ちしたオランダの流れをまとめておくと
・1630年 ブラジル北東部の砂糖生産地をポルトガルから奪取。
・1637年 西アフリカの金貿易の拠点エルミナ要塞を侵略。
・1641年 アフリカの奴隷貿易の拠点アンゴラの港ルワンダを占領。
・1652年 喜望峰を攻撃し要塞を建設し植民地化する

1650年代までにアフリカにあるポルトガルの主要利権を奪い、
インド、インドネシア、中国、日本などのアジア貿易でオランダ東インド会社帝国が出現した。

17世紀はオランダの黄金時代となり、
ケンペル、ツンベルグ、シーボルトなどは、オランダ人に成りすまして日本に来ているが
ケープタウンの植民地がこれにかかわっている。

このケープタウンのメインストリートには、
喜望峰の発見者ディアス、ケープ植民地を建設したリーベックとその夫人のクエイレーリェの銅像が
呉越同舟的に建っているという。

西洋の歴史に登場させた人たちであることは間違いないが、
地球の歴史では、南アフリカは人類誕生の地でもあり、植物相も独特なものがある。
やっと喜望峰の植物との係わり合いに近づいてきた

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その47:西洋と東洋をつなぐ喜望峰。その認識と植物相①

2008-08-12 08:02:22 | プラントハンターのパイオニア、マッソン
~喜望峰の発見まで

オリンピックはほぼ終わってしまった。
次の関心は、南アフリカで開催されるワールドカップサッカー。
その南アフリカのある時期についての植物をめぐる話をまとめてみようかと思う。


ヨーロッパ人としてはじめてアフリカの最南端、喜望峰に到達したのは、
ポルトガル人のバルトロメウ・ディアス(Bartolomeu Dias, 1450頃 - 1500年)で、
1488年のことであった。

(写真)アフリカの地図by Google


彼らは、アフリカ西岸を南下し、現在の南アフリカ西岸にあるポート・ノロスで嵐にあい漂流した。
陸地に近づくために東進したが陸地がないので、引き戻るために北上していたら
西側に陸地があったという。
アフリカ大陸最南端を回り、アフリカ大陸東岸にたどり着き、
目的のインドにいたる航路の開拓が半分なされた瞬間でもあった。

この時までの世界地図観では、アフリカ大陸は何処までも南に広がっているので回航出来るとは考えられていなかった。

二世紀に作られたプトレマイオス(90年頃 - 168年頃)の世界地図ではそうなっており、
ルネッサンス時代の1406年にこの地図がヤコブス・アンゲルスによってラテン語訳がなされ復権した。

プトレマイオスの地図は、ローマ時代2世紀の頃の世界認識を表しており、世界の1/4が円錐図法により描かれている。
近代地理学の芽を持ってはいたが、2世紀の世界地理観が復権するほど
中世ヨーロッパは、植物学だけでなく地理学でも停滞していた。

南アフリカの喜望峰は、こうして歴史に登場してきたが、
何故、ポルトガルだけがプトレマイオスの地図から離れてインドに至る航路を妄想していたのだろう?

最大の要因は、イベリア半島は、科学先進国のイスラムに8世紀以来支配されており、
科学的な思考と先端技術に触れる機会を持ちえたことがあげられる。

ポルトガルは、イスラム勢力を駆逐し独立国家をいち早く樹立したが、国家としての成長政策を考えるに
アフリカ西海岸あたりから来ているアラブの隊商の動向を観察していて、
この利権を奪うことがヴェネチアやエジプトの商人の既存利権に挑戦するよりも容易であることを理解していた。

その中心人物として、エンリケ航海王子(1394-1460)というリーダーがおり、アフリカ西海岸沿いに利権を拡大していった。

その拡大の手口は非常に論理的で、
アフリカ探検隊を組織化し、探検・略奪は儲かるという実績とビジネスにのせる仕組みを作り、
これを再生産するための航海・天文・地理などの技術開発をする有能な人材をも集めた。

ポルトガル人がギニア湾あたりまで進出するようになると、アフリカ大陸東海岸の様子が入るようになり、
アフリカ大陸を西から東に海路で迂回できるのではないかと考えられるようになった。

妄想ではなく、情報を積み上げていった先にディアスなどの探検航海が計画されており、
偶然の産物とは異なる。

コロンブスの航海のほうがはるかに偶然に恵まれたと思う。

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ローズマリー(rosemary)の花

2008-08-10 10:43:17 | ローズマリー&ラベンダー
8月はセージ類の夏休み時期で、
チェリーセージ,ラベンダーセージが咲いているだけ。

そんな中で、ローズマリーが咲いた。

(写真)横から見たローズマリーの花


昨年は8月末から咲き始めたがチョッと早めに花をつけた。
色合いは、白っぽいブルーで、春先の濃いブルーとは異なる。
正面から見ると、肉眼では同系色のため見にくいが
写真で横顔を見ると、雄しべ・雌しべがしっかりと昆虫を待ち構えている。

ローズマリーは登録されているだけで98品種もあり、名前と実物をマッチングさせることが難しい。

しかし、育てるのは簡単なので、入り口、通路の近くに植え、
毎日側を通ったら葉に触って、手についた香りをかぐとよい。
脳を活性化し記憶を強化するというから、高齢者だけでなく若い時から習慣化するとよさそうだ。

属名の“Rosmarinus(ロスマリヌス)”は、“海の雫(しずく)”という意味で、
地中海沿岸の波の音が届く範囲に生息してことでつけられた。
濃い緑色の葉の間からこぼれる雫に見えるだろうか?

このローズマリーの葉を枝ごとスープやシチューに入れると、肉などの臭みを消し、味を引き締める。
夏場は殺菌効果も期待できるので、利用すると良さそうだ。
乾燥させて入浴剤として使うと気分爽快となり浴室に芳香を放つ。
この二つの使い方が単純だが楽しめる使い方で、効果がよくわからないのが記憶の活性化だ。
ホント~~。
ただ、この行為は、神経を落ち着かせることは期待できるのでこれだけでもいいかも?

(写真)正面からのローズマリーの花


ローズマリー(rosemary)
・シソ科マンネンロウ属の常緑小低木。
・学名は、Rosmarinus officinalis L.。英名がrosemary
・原産地は地中海地方。乾燥したアルカリ性土壌を好む。
・耐寒性は強い。
・草丈は20~200cm。匍匐性(ほふくせい)あり。
・開花期は、秋から春と8月。
・ローズマリーには、様々な品種があるが、名と実物をマッチングさせることが難しい。

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バーベナ・テネラの花 と町おこし

2008-08-08 05:48:38 | その他のハーブ

ブラジルの原野に咲いていたバーベナは、
いまでは、南アフリカ原産のゼラニュウムと並び、世界の窓辺を飾る花として普及している。
特に、花が少なくなる夏場にはうれしい花だ。

バーベナ3つのタイプ
バーベナには、いくつかのタイプかがあり、
種から育てる1年草系は、大柄で色とりどりの花を咲かせる。春先の花として欠かせないが、個人的には葉が好みでなく育てたことがない。
宿根系は、1年草と似たタイプと次のテネラタイプとに分かれる。草丈10cm程度と低く匍匐性がある。
バーベナ・テネラは、草丈15cm程度で匍匐性があり葉に特色がある。葉は羽状化し細かい切れ込みがある。

(写真)バーベナ・テネラの花


Sellowが発見したバーベナ・テネラ
このブラジルで、いくつかあるバーベナの品種の中でバーベナ・テネラを発見したのは、
ドイツ生まれの植物学者セロウ(Friedrich Sellow 1789-1831)であり、
彼は、ブラジルなどの南米で900以上もの新種を発見し、南米の植物相の研究に貢献した。
ただ残念なのは、植物採集中に42歳の若さで水死してしまったことだ。

彼が発見した著名なものは、サルビア・スプレンデンス(Lee's Scarlet Sage)、ベゴニア(Begonia semperflorens)
白い朝顔(Petunia axillaris)などであり、ヨーロッパの夏を飾る花として人気になる。

サルビア・スプレンデンス(Lee's Scarlet Sage)とSellowに関しては
6月末に紹介したので参照していただきたい。

バーベナ・テネラで町おこし
バーベナテネラを調べていたら感動する話に出会った。
ダイジェストで紹介するが興味が湧いた方は、原文をお読みいただきたい。
淡々と理性的に書かれたドキュメントは読んでいてすがすがしい気分になる。

徳島県 阿波町の町おこし
「もし、阿波町に“バーベナ・テネラ”が現われていなかったら、現在のような個性的で楽しいまちにはなっていなかったにちがいないと、はっきり断言できるほど、この花が与えてくれたインパクトは大きい。」
というところからはじまる。

阿波町は阿波踊りでも有名だが、豊かな農村は、快適な部分とそうでないところとの格差が出はじめ、
住みにくい町になって行く危機意識を持っていたという。
今の日本は、食の自給率がままならない中で豊かさを維持しようとする矛盾を抱えているが、
このような危機意識を30年も前に持っていたというからすばらしい。

町づくりの解決策のヒントは、一部の住民のリアルな活動にあったという。
ある地区の住民の花いっぱい運動に町全体が乗り、
花をバーベナ・テネラと特定化し、全戸に1ポットを配ったのが1980年の夏という。

この花は、道端をうめ、公園をうめ、町全体をうめ花街道を形成するまでになったという。
集積するとパワーを発揮し、ヒトが集まり、情報が集まり、話題が発信できるようになる。
誇り、自信を住民参加で手に入れたこの物語はまだまだ続くが、
私たちにもできるのではないかという勇気を与えてくれるのが素晴らしい。

現在では、阿波町から阿波市に規模が拡大したが、これにより志が希薄化していないことを祈りたい。
乞う一読。

(写真)バーベナ・テネラ


バーベナ・テネラ(Verbena tenera)
・クマツツラ科バーベナ属の耐寒性がある多年草。
・学名は、Verbena tenera Spreng.。英名がバーベナ(Verbena)、和名はヒメビジョザクラ(姫美女桜)
・原産地は南アメリカ、ブラジル。
・草丈20cm程度で地を這うように広がり、葉は羽状で細かい切れ込みがあるのが特色。
・開花期は、春から秋まで赤紫の小花を咲かせる。開花期が長く花色は様々あるのがありがたい。
・咲き終わった花柄を摘みとり、最盛期が過ぎたら1/2まで切り戻すと長期開花する。
・日当たりの良いところで育て、乾いたらたっぷりと水をあげる。
・うどん粉病に強く、花が少ない夏場にも咲くのでゼラニュウム同様に重宝される。

学名の命名者 Sprengel, Curt Polycarp Joachim (1766-1833)は、ドイツの植物学者で、
江戸時代後期の蘭学者 宇田川榕菴(うだがわようあん、1798-1846)が書いた『植学啓原』は、
シーボルトからもらったシュプレンゲルの著書を下敷きにしているようだ。

<参考1>(ボタニックガーデン)
http://www.botanic.jp/plants-ha/begsem.htm  (ベゴニア・センパフローレンス)
http://www.botanic.jp/plants-ha/petuni.htm  (ペチュニア(朝顔))
<参考2>
バーベナ・テネラの咲きあうまちづくり 徳島県 阿波町
http://www.ashita.or.jp/publish/furu/f91/21.htm

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キアゲハチョウ と セリ科のハーブ

2008-08-07 07:53:44 | メダカ・昆虫

(写真)ユリにしがみつくチョウ


羽が真新しいチョウがユリの茎にしがみついていた。

羽化したばかりなのだろうか ?
或いは、豪雨で羽が濡れ乾かしているのだろうか ?

逃げることもなく、
(我が家では、クマンバチも花柄を取っている脇で蜜を堂々と吸っている。)
或いは逃げることが出来ない状態かもわからないが
ユリにしがみついている。

チョウの羽越しに陽の光を見ると、赤・ブルー・ブルーブラック・クリームなどの光が
ステンドグラスを通したようでもあり造形の美しさ、優れものに感心する。

こんなに派手であると、宿敵の鳥に目立つのではないかと心配するが
そんなことを気にすることなく
美を放棄しないアゲハチョウ科は素晴らしいと思ったりする。

(写真2)チョウの特色探し








図鑑で調べると、アゲハチョウ科であることは間違いなさそうだが、
『キアゲハ』 『アゲハ』のどちらかでありあまりにも似ているので識別が難しい。
チェックポイントをたどって絞込みをしていくと・・・・『キアゲハ』にたどり着く。

その識別推理の過程だが
1.好きな植物
『アゲハ』はミカン科の植物を、 『キアゲハ』はセリ科の植物をエサとし卵を産み付ける。
ミカン科の植物はわが庭にはない。

2.幼虫の特色
『アゲハ』は、丸々とした黄緑或いは淡い緑の一色だが、『キアゲハ』は、緑と黒の縞模様でありはっきりとちがう。

この『キアゲハ』の幼虫は見たぞ。
大きさは4~5cmで丸々とし、確か、フェンネルにしがみついていたなぁ~。

おっとセリ科だよフェンネルは!
そういえば、ユリにしがみついてはいたが、その横にはセリ科のチャービルを育てていた大鉢がある。

ここで幼虫時代を過ごし、羽化したばかりなのかもわからない。

3.羽の付け根の色がちがう
羽の付け根上部の色が、『アゲハ』では黒『キアゲハ』は白っぽい
このチョウの色は白っぽいので『キアゲハ』に該当する。

以上の3点から推測すると、 『キアゲハ』のようだ。

セリ科の野菜としては、人参、三つ葉、パセリ、セリ、セロリなどがあり、
セリ科のハーブには、
アニス、キャラウエイ、コリアンダー、スープセロリ、チャービル、ディル、フェンネル、パセリなど結構ある。

このセリ科の野菜・ハーブを栽培すると『キアゲハ』に会える
ということがわかった。

蛇足だが、『キアゲハ』の幼虫は、緑と黒の縞模様にオレンジ色の班があるので、相当の“悪”に見える。
そこで、我慢をし
虫かごに取り、セリ科の野菜くずをあげると庭の野菜も守られて良さそうだ。
殺してはダメだよ!!

キアゲハ(黄揚羽)
・アゲハチョウ科のチョウで、ユーラシア大陸と北米大陸に広く分布。
・学名は、Papilio machaon
・セリ科の植物に幼虫を生み、羽化する。

(参考)キアゲハの幼虫(出典:昆虫エクスプローラ)


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その46: 西欧をときめかした日本のユリ②

2008-08-06 09:35:19 | ときめきの植物雑学ノート
シーボルトとカノコユリのストーリー

日本産のユリが欧州に渡ったのは、1830年代の頃で、
シーボルトが持って帰って普及させたカノコユリ、スカシユリがこれにあたる。

花びらが茎に向かって大きく反り返り、紅色の花びらに濃い紅色の斑点がはいっているので、
鹿の子のような斑点が入ったユリ、カノコユリと呼ばれている。

 
(出典)カノコユリ(シーボルト日本植物誌)京都大学

このカノコユリが欧州で初めて紹介されたのは、
江戸時代の1690-1692年に長崎にオランダの医者として来たドイツ人のケンペルスで、
彼の著書「廻国奇観」に日本の植物をたくさん紹介している。
この中にカノコユリが入っていたのだ。

そしてシーボルトは、カノコユリの学名
この花を初めてヨーロッパに紹介したケンペルに敬意を表して献じた。

また、ツンベルグも命名者となっており、江戸時代に日本に来た3名の医者・植物学者がカノコユリでそろった。
(Lilium speciosum Thunb.α.Kaenpferi Sieb.et Zucc.)

属名のスペシオースム(L.speciosum)は、“美しい”という意味で、
シーボルトもテッポウユリとさえ比較しなければ、カノコユリは美しさNo1だとも認めている。

ということは、琉球・奄美原産のテッポウユリをも知っていたことになる。
テッポウユリは、その後欧州でマドンナリリーに取って代わることになる。

さらに面白いのは、シロカノコユリの学名に“タメトモ”を使っている。
その理由は(原訳文から)、

“真っ白な花をつけるユリには、日本の高名な英雄の名前にちなんでタメトモという日本名を我々はそのまま使うことにした。タメトモは、このユリを琉球から初めて持ち帰ったとされている。”
※シロカノコユリが琉球原産という理解はシーボルトの間違いで、カノコユリ同様に日本原産。


1832年には、シーボルトが生きたままで持って帰ったこのカノコユリが咲いたそうだ。
(この時代、植物を生きたままで輸送するのが難しい時代で、大部分は塩水でやられるそうだ。)
このカノコユリは、イギリスで大変な人気を呼んだ。


カノコユリの原産地である鹿児島県川内市の甑島(こしきじま)
この島には、たくさんのカノコユリが自生していた。
この島をカノコユリの生産拠点にしたのは、横浜の貿易商でユリの輸出で活躍した
アイザック・バンティング(1851-193?)。

彼は、神社にお供えとしてあった美しいユリに感動し、そのユリを寄進したヒトを調べ、その人から順に
買った店、仕入れた問屋、産地を逆上がりで調べ甑島にたどり着く。

さらに、社員を派遣し現地調査を行い、生産者からの仕入れルートを作り、イギリスにサンプル出荷をしたところ大評判を得たようだ。
このユリがカノコユリで、日本では「紅コシキ」と呼ばれ、欧州では「横浜の誇り(Yokohama pride)」として販売された。
彼は、カノコユリのプラントハンターだけでなく、マーケティングも行った。


ヤマユリが欧州&世界を感動させる
1862年には、日本のヤマユリがイギリスにもたらされた。

このユリを送ったのは、同時期に日本にいた3人、J・G・ヴィーチ、ロバート・フォーチュン、シーボルトだった。
ロバート・フォーチュンは、 「その43 菊・キク・きくの常識と意外性の歴史」でふれたが、
ヴィーチに関しては、別途どこかで書いてみようと思っている。

スペインの無敵艦隊を破った時から欧州の端にある粗野な国家イギリスが紳士の国家に成長する。
この過程で、貧困な植物相のイギリスが、世界の植物を集め、
“園芸”という自然を愉しむ価値観を創造することになる。

植物を集めることに関しては、キュー植物園が寄与し、 “園芸”の価値観を創造することに貢献したのが
“ヴィーチファミリー、ヴィーチ商会”で避けて通るわけにはいかない。

そして、ヴィーチなどが送ったヤマユリは、
ユリの王者とも評され、ヨーロッパに大ユリブームを創ることになる。

そして日本は、ユリの球根が重要な輸出商品となった。
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その45: 西欧をときめかした日本のユリ①

2008-08-05 07:07:38 | ときめきの植物雑学ノート

本題に入る前に、久しぶりの雷雨のすごさを!

ズドーンとベースが効いた地響きがするほどのものすごいカミナリが
一晩中続く。

朝5時に鉢の被害を見廻り、直そうと外に出てみるとすでに外は一面の水。
15cmほど増水し排出量を上回る雷雨のものすごさ。

メダカの水をかきだし、鉢の下に敷いたトレーをはずし
危ないものを上に上げていると、全身ずぶぬれになってしまった。

いろんなモノが流れてきたが、6時30分には雨が上がり、あっという間に水が引いた。
この1時間30分の雷雨のものすごさを改めて実感した。

写真を撮る余裕もない早朝の出来事でした。

(写真)つぼみをつけたユリ


さて
風で飛んできたユリの種が、小さなつぼみをつけた。開花は昨年の場合8月末。
暑さが過ぎるのを待っており、
夏から秋への兆しを感じた瞬間にガードを緩め開花する。

それまでの間、高校野球、オリンピックがあるが
花を見る前にユリというものを愉しむ調味料を探してみよう・・・・

シーボルトが西欧に驚きを持って帰る
日本の生きたユリを西欧に紹介したのはシーボルトであり、
その著作『FLORA JAPONICA』(日本植物誌、第一巻1835年、第二巻1870年出版)には、
カノコユリ、 シロカノコユリ、 ウバユリ、 ノヒメユリ が取り上げられ細密に描かれている。
下絵は、日本の画家 川原慶賀などが描いていることでも知られ、絵も文章も楽しみな文献となっている。

日本のユリが登場するまでの西欧のユリ事情
西欧、古代ローマ人が愛したユリは、マドンナリリーと呼ばれるユリで
世界で最も古くから栽培されてきたカンディドゥム種(Lilium candidum)のユリになる。
原産地はパレスチナとも言われ、栽培は紀元前3000年頃にさかのぼる記録もある。

ローマ人が征服した地域には、野生化したマドンナリリーが咲いているぐらい
ローマ軍とともにヨーロッパに広がったが、
ヨーロッパには、これ以外めぼしいユリがなく、
19世紀に中国・日本から東洋のユリが入ってくるまでユリへの関心は低かった。

しかし、マドンナリリーは、宗教的に聖母マリアを象徴していることに留意しておく必要がある。

西欧の目覚め第一波は中国から
1804年、オニユリが中国からイギリスに送られてきた。

送ったのは、ウィリアム・カー(Kerr William ?-1814)で、
イギリスキュー植物園から1803年に中国に送り込まれたプラントハンターだ。
彼は、オニユリ以外では、ササユリ、アセビ、白色のモッコウバラ、八重のヤマブキ、ナンテン、
シュウカイドウ、イブキなどをキュー植物園に送った。

ササユリ、アセビは日本原産であり、いつしか中国にわたり栽培されていたことになるが、
橙色の花弁に黒褐色の斑点が入ったオニユリは、その姿からタイガー・リリーと呼ばれ、
西欧の人々のユリ観にショックを与えた。

でもこの後、ユリへの関心はまた停滞してしまう。
(雷雨の後始末もあり明日に続く)

<参 考>
シーボルト『FLORA JAPONICA』( Kyoto University Library )
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0208.html  (カノコユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0209.html  (シロカノコユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0210.html  (ウバユリ)
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/b01/image/01/b01s0237.html  (ノヒメユリ)




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絶滅から脱出した我が家の“めだか”

2008-08-04 08:43:26 | メダカ・昆虫

(写真)今年生まれた子供のメダカも仲良く泳いでいる


やれやれ~~
今年生まれたメダカも親に食べられずに成長しているようで、
3世代のメダカがそろった。

第一世代は、庭で越冬したメダカ(2~3歳のメダカ)
第二世代は、今年5月に購入した新しいメダカ(1歳)
第三世代は、彼らから生まれた子供(0歳)

この黒メダカの瓶は順調にメダカが増えているので安心したが
緋メダカの瓶は、水草などを整理したりしたがまだ見ることが出来ないのでダメそうだ。

(写真)メダカの瓶二つ


この6~7年庭でメダカを飼っているが、振り返ってみると

冬は氷が張り、夏は沸騰するほど水温が高くなるなどの悪環境だが、
月に一度ぐらい水を替える大掃除をする程度で生存しており
掃除の後は、気持ちよく泳いでいるメダカを見ているとあまりののどかさにうっとりしてしまう。

どうも生存のコツは、
年一回5月頃に新しいメダカを買ってきて、越冬した先輩達と一緒にしてきたことだと思う。
メダカの生存年数は3年程度といわれているが、もう少し長生きしているようだ。
だが、新しい仲間を投入し、世代交代を進めないと冬を乗り越えられそうもない。

我が家のメダカも絶滅の危機にあった。
3瓶あるが、春先には黒メダカと緋メダカの瓶に少数のメダカしか生存していなかった。
そこで、5月の頭に、黒メダカ、緋メダカ10匹づつを購入し追加投入した。

だが、緋メダカはどうも難しい。
黒メダカを3瓶に再配置してみよう。



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ツユクサ(Asiatic dayflower)の花。一日だけの鮮やかな青。

2008-08-03 10:14:55 | その他のハーブ

万葉集には、 “ツユクサ”をうたった詩がある。

『朝咲き 夕べは消ぬる 鴨頭草の 消ぬべき恋も 我はするかも』
あしたさき、ゆうべはけぬる つきくさの けぬべきこいも われはするかも。

ツユクサには、朝に咲き夕方には消える一日花なので、
儚い恋を題材とした詩が多く、
万葉の頃から日本人の情緒を刺激して来た。

こんな情緒を刺激するツユクサも、存在する場所が減りつつあり、
栽培しないと危険な状態にある。

路傍、道端、空き地、草地、・・・・・
コンクリートで固められていない所有権があいまいな場所が間違いなく減っている。
これとともに、儚い恋という情緒も減っていったようだ。
(因果関係はなさそうだが・・・・)

(写真)はかないツユクサの花


確かに、
ぬけるような鮮やかな青の2枚の花弁と、下の花弁の白、おしべの黄色の花粉、
鮮やかなこの組み合わせが一日で消える“もったいなさ”、“惜しさ”、“残念さ”
これらの感情が“はかなさ”になったのだろう。

或いは、
消えた花はあきらめ、次ぎの花に向かう“うつろいやすさ”が“はかない”のだろうか?

(写真)横から見たツユクサ


ツユクサ(Asiatic dayflower)
・ツユクサ科ツユクサ属の一年草。
・学名は Commelina communis。英名は Day flower, Asiatic dayflower。
・和名別名は、月草、鴨頭草(つきくさ)、着き草、蛍草などで呼ばれ俳句では秋の季語となる。
・古語の着き草には染料として使っていた由来があり、今は水に溶けやすい性質を利用した友禅染の下絵として使われている。
・また、乾燥させ下痢止めとして使われていたようだ。(日本のハーブ)
・原産地は、日本、朝鮮半島、中国南部
・草地にある普通の野草で、地面を這って茎が分岐し節から根を出して殖える。
・開花期は6~9月で、鮮やかな青い花を咲かせる。一日花。

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