~1770年頃の喜望峰の描写
喜望峰の海岸に一人の男が上陸した。
イギリスのプリマスを出港した船の名前は レゾルーション号で、
船長はキャプテン・クックで知られた海軍少佐で海図製作者のジェイムズ・クック(James Cook,1728 -1779)。
この船は、喜望峰に1772年10月30日金曜日に到着した。
1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックによって建設されてから120年後のことだった。
船から降りたった男の名前は、フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805) 。
そうです、キュー王立植物園のプラントハンター第一号で、先に来ていたもう一人の著名な人間とともに、
南アフリカの植物相を世界に知らしめた人間だ。
キュー王立植物園が世界の植物情報の総本山を目指すようになったのは、
この時からはじまったといっても過言ではない。
キャプテン・クックの見た喜望峰
この当時の喜望峰の描写をキャプテン・クックの航海日誌から抜粋でひろってみる。
キャプテン・クックは計3回太平洋を探索する探検隊の責任者だったが
第一回の航海は、大西洋を南下し、南アメリカ最南端を回り南太平洋に出、タヒチ、ニュージランド、
オーストラリアを探検し、ジャワから喜望峰に向かいアフリカ西岸を北上しイギリスに帰った。
この時初めて喜望峰を見、物資を補給するために1ヶ月係留した際の観察記録でもある。
(出典)キャプテン・クック第一回の太平洋航海図
(赤:第一回航海) (緑:第二回航海)(青:第三回航海)
クック船長の航海日誌
(注)航海日誌の位置づけが“訓令(命令書)”にあるので記載すると、
船長が船を離れる場合、仕官下士官がつけている航海日誌・日記を提出させ、航海後の海軍省の検査のために封印すること。また、許可があるまで航海地に関して口外しないように命令すること。などがキャプテン・クックに極秘訓令として文書が渡されている。
『1771年3月14日 木曜日 (入港の日)
テーブル湾には、オランダ8隻、デンマーク3隻、フランス4隻、イギリスの東インド行き帆船1隻が停泊していた。イギリス船は11発の礼砲をもって挨拶してくれ、この好意に対してわれわれは9発の礼砲をもって答えた。
(省略)
1771年4月15日 月曜日 (出港の日)
喜望峰はいろいろな人々によってあまりにもしばしば記述され、ヨーロッパ人には大変よく知られているので、私が何を書こうとも余計なことと思われるかもしれない。
しかし大部分の著者たち、特にバイロン氏の航海記の著者は、実際以上にこの土地の姿を美化して描いているので、何も知らない人は、実際にここへ来て見ると驚き失望することを私は言わざるを得ないのである。すなわち、今回の航海で見たいかなる土地も、ここほど不毛な様相を呈してはいなかった。
岬の上の土地は北はテーブル湾、南はフォールス湾によってかたちづくられた半島状をなし、高い荒れ果てた山々よりなる。東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。
耕作にたえる土地は1インチも残らず、小さな農園とされ、ぶどう園、果樹園、家庭菜園などが営まれているが、それらは相接してつくられたものはほとんどなく、おたがいにある距離をおいて散らばっている。
もしこの状況から判断するならば、この土地の内陸部はこれより肥沃であるはずがなく、肥えた土地は全体の非常に小さな部分を占めるにすぎない。われわれが聞かされたところによると、内陸に28日行ったところに居留地があるとのことであるが、それはイギリスのマイルでいえば900マイルにあたる。そして、そんなに遠くから陸上輸送の車でもってケープまで食糧を運んでくるのである。
(略)
この土地が多くの難点を抱えているにもかかわらず、オランダ人の勤勉さと、節約と、たくみなものごとの処理によって、生活の必需品だけでなく奢侈品もすべてここで非常に豊かに作られ、ある種のものを除けばヨーロッパのいかなる土地におけるよりもより安くとはいわないまでも同じくらいの値段で売られている。
(略)
ケープタウンの住民たちは一般に育ちがよくあらゆる異邦人に対して親切で礼儀正しい。そうすることが彼らの利益にかなっている。つまりこの町全体が、行き来するあらゆる旅人のうけいれのためにつくられた、大きな旅館の観を呈しているからである。』
(出典)クック太平洋探検記(岩波書店)
クックの目線、マッソンの目線
喜望峰は、120年の時間を経て国際的な港湾都市として成長している様子が伺え、
ポルトガル・スペインから、北海・バルト海に海上覇権が移行している時代背景も浮彫りになっている。
クックは、オランダ人の植民地及び港湾の運営の素晴らしさを評価しているが、
喜望峰の後背地ケープの自然環境及び農業生産性については辛口の点数をつけている。
「東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。」
と観察して書かれた自然環境は、地中海性気候の特色である雨が少なく乾燥した植物相であり、
スコットランド人で父が農場の監督だった生い立ちを考えると、クックにはわからない自然環境だったと思われる。
彼にとって、常緑樹もあり、緑豊かな土地が素晴らしい土地なのだろう。
海図の製作者でもある測量技術を持ったキャプテン・クックは、マクロ的に見る目を持ち合わせており、
前述の航海日誌にその観察眼が反映されている。
レゾルーション号から降りたマッソンは、個の花、個の植物というミクロな目線で見るので、
おのずとキャプテン・クックとは違った見方となるし結果も当然異なる。
喜望峰の海岸に一人の男が上陸した。
イギリスのプリマスを出港した船の名前は レゾルーション号で、
船長はキャプテン・クックで知られた海軍少佐で海図製作者のジェイムズ・クック(James Cook,1728 -1779)。
この船は、喜望峰に1772年10月30日金曜日に到着した。
1652年にオランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックによって建設されてから120年後のことだった。
船から降りたった男の名前は、フランシス・マッソン(Francis Masson 1741-1805) 。
そうです、キュー王立植物園のプラントハンター第一号で、先に来ていたもう一人の著名な人間とともに、
南アフリカの植物相を世界に知らしめた人間だ。
キュー王立植物園が世界の植物情報の総本山を目指すようになったのは、
この時からはじまったといっても過言ではない。
キャプテン・クックの見た喜望峰
この当時の喜望峰の描写をキャプテン・クックの航海日誌から抜粋でひろってみる。
キャプテン・クックは計3回太平洋を探索する探検隊の責任者だったが
第一回の航海は、大西洋を南下し、南アメリカ最南端を回り南太平洋に出、タヒチ、ニュージランド、
オーストラリアを探検し、ジャワから喜望峰に向かいアフリカ西岸を北上しイギリスに帰った。
この時初めて喜望峰を見、物資を補給するために1ヶ月係留した際の観察記録でもある。
(出典)キャプテン・クック第一回の太平洋航海図
(赤:第一回航海) (緑:第二回航海)(青:第三回航海)
クック船長の航海日誌
(注)航海日誌の位置づけが“訓令(命令書)”にあるので記載すると、
船長が船を離れる場合、仕官下士官がつけている航海日誌・日記を提出させ、航海後の海軍省の検査のために封印すること。また、許可があるまで航海地に関して口外しないように命令すること。などがキャプテン・クックに極秘訓令として文書が渡されている。
『1771年3月14日 木曜日 (入港の日)
テーブル湾には、オランダ8隻、デンマーク3隻、フランス4隻、イギリスの東インド行き帆船1隻が停泊していた。イギリス船は11発の礼砲をもって挨拶してくれ、この好意に対してわれわれは9発の礼砲をもって答えた。
(省略)
1771年4月15日 月曜日 (出港の日)
喜望峰はいろいろな人々によってあまりにもしばしば記述され、ヨーロッパ人には大変よく知られているので、私が何を書こうとも余計なことと思われるかもしれない。
しかし大部分の著者たち、特にバイロン氏の航海記の著者は、実際以上にこの土地の姿を美化して描いているので、何も知らない人は、実際にここへ来て見ると驚き失望することを私は言わざるを得ないのである。すなわち、今回の航海で見たいかなる土地も、ここほど不毛な様相を呈してはいなかった。
岬の上の土地は北はテーブル湾、南はフォールス湾によってかたちづくられた半島状をなし、高い荒れ果てた山々よりなる。東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。
耕作にたえる土地は1インチも残らず、小さな農園とされ、ぶどう園、果樹園、家庭菜園などが営まれているが、それらは相接してつくられたものはほとんどなく、おたがいにある距離をおいて散らばっている。
もしこの状況から判断するならば、この土地の内陸部はこれより肥沃であるはずがなく、肥えた土地は全体の非常に小さな部分を占めるにすぎない。われわれが聞かされたところによると、内陸に28日行ったところに居留地があるとのことであるが、それはイギリスのマイルでいえば900マイルにあたる。そして、そんなに遠くから陸上輸送の車でもってケープまで食糧を運んでくるのである。
(略)
この土地が多くの難点を抱えているにもかかわらず、オランダ人の勤勉さと、節約と、たくみなものごとの処理によって、生活の必需品だけでなく奢侈品もすべてここで非常に豊かに作られ、ある種のものを除けばヨーロッパのいかなる土地におけるよりもより安くとはいわないまでも同じくらいの値段で売られている。
(略)
ケープタウンの住民たちは一般に育ちがよくあらゆる異邦人に対して親切で礼儀正しい。そうすることが彼らの利益にかなっている。つまりこの町全体が、行き来するあらゆる旅人のうけいれのためにつくられた、大きな旅館の観を呈しているからである。』
(出典)クック太平洋探検記(岩波書店)
クックの目線、マッソンの目線
喜望峰は、120年の時間を経て国際的な港湾都市として成長している様子が伺え、
ポルトガル・スペインから、北海・バルト海に海上覇権が移行している時代背景も浮彫りになっている。
クックは、オランダ人の植民地及び港湾の運営の素晴らしさを評価しているが、
喜望峰の後背地ケープの自然環境及び農業生産性については辛口の点数をつけている。
「東側の後背地、ないしは地峡とよべる土地であるが、ここは一面の広い平原であり、その千分の一も耕作されていないし、まだ耕作は可能でない。土壌は、大部分軽い種類の海岸の砂よりなり低い潅木以外のなにものもほとんど育たない。」
と観察して書かれた自然環境は、地中海性気候の特色である雨が少なく乾燥した植物相であり、
スコットランド人で父が農場の監督だった生い立ちを考えると、クックにはわからない自然環境だったと思われる。
彼にとって、常緑樹もあり、緑豊かな土地が素晴らしい土地なのだろう。
海図の製作者でもある測量技術を持ったキャプテン・クックは、マクロ的に見る目を持ち合わせており、
前述の航海日誌にその観察眼が反映されている。
レゾルーション号から降りたマッソンは、個の花、個の植物というミクロな目線で見るので、
おのずとキャプテン・クックとは違った見方となるし結果も当然異なる。