天津ドーナツ

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塚越恒爾さんとのQA その1

2011-06-23 08:53:17 | 日本語学習法
①  「顎を五ミリでいいから上下に動かすこと」について
Q 日本語の発音の基礎は、母音であり、顎を上下に動かすことが必要なのでしょうか。

A その通りです。口を開けるというよりも、顎を動かす発声が日本語の基本なのです。
  自然な母音ウから柔らかい母音オ、そして全開のアにいたる、ウ→オ→ア と次第に顎を開けてゆく、これが日本語のバックボーンだと考えています。アウンの呼吸の逆順ですね。

② 「ありがとうございました」について
Q ある男性歌手(紅白にも出ました)が、歌い終わった後に発した「ありがとうございました」が、何度聞いても、「あり…」にしか聞こえませんでした。 

A 凡そ「9音節」もある、感謝の言葉などは、世界中でも珍しいとは思います。
 サンキュウ シェシェ コウマルソウ スパシーバ グラッチェ ダンケ メルシイ オブリガード・・・どれをとっても短い音節で感謝の挨拶は終わるものです。日本語も“アリガトウ”で済めばよいのですが、なぜか丁寧語の“ゴザイマス”をつけないと、スタンダードとはいえません。

 これについては、若い頃、自分で3年間社会実験をしてみました。「ごさいます」を抜かしてみる実験です。
結果、相手に不愉快な顔をされた確率は、50%を超えました。現在は80才の年齢ですから、あまりいやな顔をされることがすくなくなりましたが、ゆったりしたニュアンスで声を掛ける必要を感じています。 おかしな国です。

③ 「テキストの文章を誰が一番早く読めるか」という練習法について
Q テキストの文章を流暢に読む練習のひとつとして、どれだけ早く読めるかという練習をしているのですが、これは日本語の発音の向上に役立つのでしょうか。

A 避けた方がいいでしょう。文の意味が伝わるスピードでの練習を繰り返して、少しずつ速さを獲得して行くべきです。

一つ一つの音(母音を抜かない)を出すことと同時に、意味の切れ目、切れ目の間合いが最も大切です。“聞き手”は、一つの意味のまとまりを受け取って、次の音を待ち、全体の文の意味を整理しながら理解をして行くモノです。
別の言い方をしますと、聞き手が、ショートターム  メモリー システム(Sms)で意味をまとめ、それをロングターム メモリーシステム(Lms) に送り込んで、相手の“ことば”を理解してゆきます。(Sms)で、一度に聞き取れるのはせいぜい
10単位程度です。例えば「おととい、ある男性歌手のステージのビデオを見たのですが、」という言葉を理解し記憶して
行くには、「おととい/ ある男性歌手の/ ステージのビデオを/ 見たのですが/ 」というように、Smsで理解し記憶したものを、リハーサルしながら、順次Lmsに送り込んで行くのです。
 ですから、電話番号を聞いて記憶するときも、0337713772と10単位くらいなら、Sms で記憶し、繰り返していれば覚えることが出来るでしょう。それ以上単位が増えると、繰り返す(リハーサル)が出来なくなるのです。
 こうした意味の切れ目の間合いが 相手の言葉を理解する為に極めて重要な役割を果たすのです。
この間をつなげてしまうと、聞きにくい、理解しにくい表現になるのです。逆に、この「間」が、しっかりとれている限りにおいては、全体のスピードが、あるていど速くても理解出来るものです。これは、何度もNHK技研と一緒に実験をした結果です。ともかく、“ことば”は、相手に届かなくては意味がありませんね。だから、昔徳川無声さんは「話術とは間術なり」と言ったのです。間の抜けた話は、のんびりした傾向だけではないようです。

④優しさについて
Q 教えるときには、優しさが根底にあるほうがいいのでしょうか。厳しさを根底にしたほうがいいのでしょうか。
A 教える立場での優しさもそうですが、言葉というもの自体が、相手に「届いて初めて“ことば”になる」代物ですから、ここでも優しさが基本になると思っています。

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定期テストや能力試験を鞭として勉強させている日本語教師の私が言ってはいけないのかもしれませんが、

「“ことば”は、相手に届かなくては意味がありません」。



「ことばを届けたい」「ことばをキャッチしたい(受け取りたい)」という気持ちが、

ことばによるコミュニケーションの出発点だと思うのですが、日本語教育の現状はどうなのでしょうか。



8月中旬、ここ天津で世界日本語教育研究大会が行われます。

予定されているテーマを見る限り、コミュニケーションは後回し、という傾向はこれからも続きそうです。

あくまでも現時点での推測ですが、日本語教育関係者のための研究大会であり、

日本語学習者のための研究大会ではないように感じます。



それが全く無意味だとは思いませんし、

私も各地の先生方と休講を暖めるかもしれません、

→旧交を温めるかもしれません。(授業を休みたいのかな…)



ただ、「学校で習った日本語が社会では役に立たない」

と言われるのは、単に専門用語などの語彙や文法の問題では

ないように、私は感じています。



それは、日本語学習のあらゆる場面で「伝えるべき相手」が存在していない

ということに原因があるのではないでしょうか。