自転車のパンク修理も終わりデジカメも修理から戻り天気も良いとなれば、家の中でジッとしているわけにはいきません。
本日は旧東海道の神奈川宿をデジカメ片手に自転車でぶらりと散歩にお出掛け。
国道16号から1本内側に入った所にある(浅間町1丁目)浅間神社は源平の時代1080年に創建。二階建て木造建築の社殿は日本に2つしかない浅間造りで、とても貴重。
祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。この女神は火難消除・航海・漁業・農業・機織の守護神として信仰されている。
昔は富士山の穴に通じる、富士の人穴があったと伝えられていたが戦後の発掘で横穴古墳であることが判明。
神奈川宿の西の外れにある上台橋。
かってこの上台橋のあたりは潮騒の聞こえる海辺の道であったそうで、切り通しの道路ができるとともに昭和5年ここに陸橋が架けられたそうです。
ここから神奈川東通り公園に至るおよそ4キロの道のりが神奈川宿歴史の道だそうで、本日は行けるだけ、寄れるだけ写真を撮ってみようと思います。
上台橋陸橋を渡り坂道を上って行くと坂の途中にあるのが、この神奈関門跡の碑です。
実際は石碑の建っている場所よりやや西寄りにあったそうですが、開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事達が幕府を激しく非難した事から安政6(1859)年横浜の主要地点に関門や番所を設け警備体制を強化したそうで、神奈川宿の東西にも関門を作り西側の関門がこの神奈川台の関門だそうです。
台町あたりはかっては神奈川の台と呼ばれており、神奈川湊を見下ろす景勝の地であったそうです。
写真の料亭田中屋は当時の神奈川の台と茶屋の絵に描かれている桜屋のあたりといわれているそうです。
東海道中膝栗毛にも『ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造。欄干付きの廊下桟敷などをわたして、浪うちぎわの景色いたってよし』とあるそうです。
坂を下り、第二京浜に出る手間に大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)があります。
大綱金刀比羅神社は源頼朝により創建された神社だそうで、江戸時代には街道をはさんだ両側に日本橋から七つ目の一里塚が建てられていたそうです。また、袖ヶ浦・神奈川湊に沿って街道が通っていたため、東海道を行き交う人々は旅の安全を、また湊に出入りする船乗りたちは海上安全を祈願したそうです。
第二京浜の青木橋付近を左に登ったところにあるのが本覚寺です。
幕末の横浜開港の際はアメリカ総領事ハリスによって米領事館に指定され、松の木には星条旗が掲げられ、山門をペンキで白く塗ったそうで、日本で初めてペンキが使用されたのはこの寺だそうです。
本覚寺から左に更に坂道を登ると途中にあるのが、三寳寺です。
慶長2(1597)年に寂した嘆誉和尚の草創。弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は東京芝の大本山増上寺より遷座したもの。
更に坂道を上り切ると右手にあるのがこの高島台公園。
ハマの恩人と言われる高島嘉右衛門(ガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及などの事業を行ないこれらの事業の中でも横浜の発展に大きく貢献した鉄道用地の埋立事業である。神奈川区高島台と西区高島町は高島嘉右衛門の名前から名付けられています。)の別宅があり、用地の埋立を高台から指示したと言われています。嘉右衛門を顕彰する『望欣台の碑』が建てれています。
登って来た坂道を下り、青木橋を渡り、宮前商店街を進んですぐに左手奥にあるのが、甚行寺です。
通商条約締結後、フランス公使館として使用されていたそうです。
甚行寺のすぐ近くにある普門寺です。
開港当時はイギリス士官の宿舎になっていたそうです。
州崎大神は1191年(建久2年)、源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝わるそうです。。1祭神は天太玉命と天比理刀売命で、江戸期には牛頭天王を合祀。
神社前から海に向かって伸びる参道が、第一京浜に突き当たるあたりがかっての船着場であり、開港当時は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり付近には宮の下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られたそうです。
洲崎神社の裏手にある幸ヶ谷(こうがや)公園です。かつては「権現山」と呼ばれる急峻な山だったそうで、本覚寺の建つ高島台の丘とこの幸ヶ谷公園の丘とは尾根続きだったのらしいです。
幕末から明治にかけてお台場や鉄道用地の埋立、開削などのために山は削られ、現在のように低くなったそうです。
幸ヶ谷公園から第一京浜の方に下ると宗興寺があります。
こちらのお寺に入ってすぐの正面にはヘボン施療所の碑があり、入口を出て右裏手には神奈川大井戸があります。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開き、コレを記念する石碑が境内に建てられました。
ヘボン博士は『ヘボン式ローマ字』でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行なった。
神奈川大井戸。
この井戸は江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を『大井戸寺』と呼ぶほどであったといわれる。
この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知る事ができるといわれ、お天気井戸とも呼ばれたそうです。
第一京浜を渡って滝の川に平行に海の方に進んで行き、突き当たりを左に曲がると神奈川台場跡の碑があります。
安政6(1859)年5月幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。現在では石垣の一部を残すのみとなっています。
来た道を戻り、第一京浜を渡り、再び旧東海道に戻り進むと左手に成仏寺があります。
開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだそうです。
かって神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にあり、その規模は間口約5メートル、高さ3.5メートル、奥行き1.5メートルと大きい物でこの高札場は資料をもとに復元したものです。
神奈川町の鎮守、熊野神社。
熊野神社は、平安時代の創建といわれています。鳥居の両側にはかなり大きな狛犬が建っています。境内には火消しの神奈川一番組の記念碑があり、神奈川宿の大火、関東大震災、太平洋戦争の戦災と三度の大火を生き抜いてきた「火伏せのいちょう」があります。
京浜急行線に沿って横浜方面に戻ったところにあります。
慶雲寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれました。
開港当初はフランス領事館に使われ、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっており、浦島寺とも呼ばれています。
正直、久しぶりの自転車走行は疲れました。
第一京浜から海側の土地や現在の横浜駅周辺が海だったのは改めて驚きましたが。
次回は保土ヶ谷宿を走行予定。(権太坂はどうしようか?)
本日は旧東海道の神奈川宿をデジカメ片手に自転車でぶらりと散歩にお出掛け。
国道16号から1本内側に入った所にある(浅間町1丁目)浅間神社は源平の時代1080年に創建。二階建て木造建築の社殿は日本に2つしかない浅間造りで、とても貴重。
祭神は木花佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。この女神は火難消除・航海・漁業・農業・機織の守護神として信仰されている。
昔は富士山の穴に通じる、富士の人穴があったと伝えられていたが戦後の発掘で横穴古墳であることが判明。
神奈川宿の西の外れにある上台橋。
かってこの上台橋のあたりは潮騒の聞こえる海辺の道であったそうで、切り通しの道路ができるとともに昭和5年ここに陸橋が架けられたそうです。
ここから神奈川東通り公園に至るおよそ4キロの道のりが神奈川宿歴史の道だそうで、本日は行けるだけ、寄れるだけ写真を撮ってみようと思います。
上台橋陸橋を渡り坂道を上って行くと坂の途中にあるのが、この神奈関門跡の碑です。
実際は石碑の建っている場所よりやや西寄りにあったそうですが、開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事達が幕府を激しく非難した事から安政6(1859)年横浜の主要地点に関門や番所を設け警備体制を強化したそうで、神奈川宿の東西にも関門を作り西側の関門がこの神奈川台の関門だそうです。
台町あたりはかっては神奈川の台と呼ばれており、神奈川湊を見下ろす景勝の地であったそうです。
写真の料亭田中屋は当時の神奈川の台と茶屋の絵に描かれている桜屋のあたりといわれているそうです。
東海道中膝栗毛にも『ここは片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造。欄干付きの廊下桟敷などをわたして、浪うちぎわの景色いたってよし』とあるそうです。
坂を下り、第二京浜に出る手間に大綱金刀比羅神社(おおつなことひらじんじゃ)があります。
大綱金刀比羅神社は源頼朝により創建された神社だそうで、江戸時代には街道をはさんだ両側に日本橋から七つ目の一里塚が建てられていたそうです。また、袖ヶ浦・神奈川湊に沿って街道が通っていたため、東海道を行き交う人々は旅の安全を、また湊に出入りする船乗りたちは海上安全を祈願したそうです。
第二京浜の青木橋付近を左に登ったところにあるのが本覚寺です。
幕末の横浜開港の際はアメリカ総領事ハリスによって米領事館に指定され、松の木には星条旗が掲げられ、山門をペンキで白く塗ったそうで、日本で初めてペンキが使用されたのはこの寺だそうです。
本覚寺から左に更に坂道を登ると途中にあるのが、三寳寺です。
慶長2(1597)年に寂した嘆誉和尚の草創。弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大震災で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は東京芝の大本山増上寺より遷座したもの。
更に坂道を上り切ると右手にあるのがこの高島台公園。
ハマの恩人と言われる高島嘉右衛門(ガス・水道・電気事業のほか高島学校の設立・易学の普及などの事業を行ないこれらの事業の中でも横浜の発展に大きく貢献した鉄道用地の埋立事業である。神奈川区高島台と西区高島町は高島嘉右衛門の名前から名付けられています。)の別宅があり、用地の埋立を高台から指示したと言われています。嘉右衛門を顕彰する『望欣台の碑』が建てれています。
登って来た坂道を下り、青木橋を渡り、宮前商店街を進んですぐに左手奥にあるのが、甚行寺です。
通商条約締結後、フランス公使館として使用されていたそうです。
甚行寺のすぐ近くにある普門寺です。
開港当時はイギリス士官の宿舎になっていたそうです。
州崎大神は1191年(建久2年)、源頼朝が安房国一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝わるそうです。。1祭神は天太玉命と天比理刀売命で、江戸期には牛頭天王を合祀。
神社前から海に向かって伸びる参道が、第一京浜に突き当たるあたりがかっての船着場であり、開港当時は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり付近には宮の下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られたそうです。
洲崎神社の裏手にある幸ヶ谷(こうがや)公園です。かつては「権現山」と呼ばれる急峻な山だったそうで、本覚寺の建つ高島台の丘とこの幸ヶ谷公園の丘とは尾根続きだったのらしいです。
幕末から明治にかけてお台場や鉄道用地の埋立、開削などのために山は削られ、現在のように低くなったそうです。
幸ヶ谷公園から第一京浜の方に下ると宗興寺があります。
こちらのお寺に入ってすぐの正面にはヘボン施療所の碑があり、入口を出て右裏手には神奈川大井戸があります。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開き、コレを記念する石碑が境内に建てられました。
ヘボン博士は『ヘボン式ローマ字』でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行なった。
神奈川大井戸。
この井戸は江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を『大井戸寺』と呼ぶほどであったといわれる。
この井戸の水量の増減によって翌日の天気を知る事ができるといわれ、お天気井戸とも呼ばれたそうです。
第一京浜を渡って滝の川に平行に海の方に進んで行き、突き当たりを左に曲がると神奈川台場跡の碑があります。
安政6(1859)年5月幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。現在では石垣の一部を残すのみとなっています。
来た道を戻り、第一京浜を渡り、再び旧東海道に戻り進むと左手に成仏寺があります。
開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだそうです。
かって神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にあり、その規模は間口約5メートル、高さ3.5メートル、奥行き1.5メートルと大きい物でこの高札場は資料をもとに復元したものです。
神奈川町の鎮守、熊野神社。
熊野神社は、平安時代の創建といわれています。鳥居の両側にはかなり大きな狛犬が建っています。境内には火消しの神奈川一番組の記念碑があり、神奈川宿の大火、関東大震災、太平洋戦争の戦災と三度の大火を生き抜いてきた「火伏せのいちょう」があります。
京浜急行線に沿って横浜方面に戻ったところにあります。
慶雲寺は、室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観によって開かれました。
開港当初はフランス領事館に使われ、浦島太郎が竜宮城から持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっており、浦島寺とも呼ばれています。
正直、久しぶりの自転車走行は疲れました。
第一京浜から海側の土地や現在の横浜駅周辺が海だったのは改めて驚きましたが。
次回は保土ヶ谷宿を走行予定。(権太坂はどうしようか?)