皆さん、こんにちは。
今日は前回の続きで牛の殺処分を止めた後のことを書きます。
国の指示で殺処分を行っている人の邪魔をしたということで大問題になり、この時、松ちゃんの強制避難区域での動物の保護活動に必要な入行許可証が取り上げられてしまったのです。
県や国の機関にまで話が行ってしまい、それはそれは本当に大きな問題に発展してしまった。
許可証がなければ強制避難区域に入れず、保護している動物たちの世話ができず死なせてしまう。なので、僕はブログで全国の皆さんに助けてくださいとSOSを発信した。
松ちゃんが保護した2羽(2頭)のダチョウ 2012年 アントニオさん撮影
あの頃、松ちゃんはまだ町に残っていた犬や猫たち、その他イノシシやダチョウも保護していたから、許可証がなければ間違いなくみんな死んでいたと思う。
前年度より全国の皆さんから支援金をいただいての活動だったから、許可証の取り上げだけは何としてもやめてもらいたかった。
これが本だった音です。
2012年 アントニオさん撮影
背の高いほうがモモコ。呼び名はモモ。とても人懐こくて誰にでも羽を広げて歓迎のあいさつをしてくれる本当に可愛いダチョウでした。突っついたり絶対しないので応援に駆けつけてくれたボランティアのみんなにも愛されたダチョウです。小さいほうはサクラ。少し神経質で気が弱い。それでもおとなしくて、この子も人間に危害を与えるような子じゃなかった。
話しを元に戻して殺処分を止めたことで国の省庁、環境省と農水省、県の官庁まで話が行ってしまったから大問題になって焦った。
あの時、横須賀のY先生を始め、SNSで拡散をしてくださった動物ボランティアのみなさん、そして全国の皆さんと海外から応援してくれたみなさんの協力で、各省庁、官庁、富岡町役場に電話とメールとFAXが入り続け、富岡町役場では3日間業務ができずにパンク。
この事態を重く見たのか、収拾を図るためなのか?松ちゃんの許可証が無事に戻され活動を再開することができた。
あの時に電話とメールとFAXで応援してくれた数万人の全国のみなさんと海外のみなさまに改めて感謝申し上げます。
本当にありがとうございました。
後に当時の遠藤町長が松ちゃんに、山のように積まれたFAX用紙を見せて「これ、みんな松村君のだ」と笑って言われたと言ってました。
あの時は役場の皆さんには本当に迷惑をかけたと思っています。あの時の役場職員のみなさま、本当に申し訳ありませんでした。
それからいくつかの段階を踏んで本格的に柵を作り、離れ牛を餌で誘導し簡易であるけれども牧場を作って牛たちの飼養を始めた。
帰還困難区域の牧場 アントニオさん撮影
ここの牧場の牛たちは脱走したり、喧嘩して相手を傷つけたりと問題児が多かったと思う。
病気になった牛や怪我をした牛、それに子牛もいた。
元気のない子牛。 アントニオさん撮影
松ちゃんは、医者に診てもらうために子牛を軽トラで自宅に運び、僕の義父から譲ってもらった軽バンに乗せ換え獣医の元へ
雨が降って来たこの日、ぐったりとした子牛を毛布に包んで搬送 (アントニオさん撮影)
子牛は眠ったままの状態
獣医師さんの所で注射と点滴で少し元気になった子牛
帰還困難区域の中では、こんなことが日常茶飯事にあった。
だから本当に大変だったと思います。
牛を保護する松ちゃんには、何が起こっても受け止めることしかなかった。
もちろん牛たちにだって、震災が起こったことでのいきなりの環境変化だったから、体の大きな牛にだっていろいろとダメージがあったと思う。
餌だって自分で探さなきゃならなくなったわけだから。
病気の牛や怪我した牛ために治療を施すために、この牧場に来てくださった獣医さんにも感謝です。
放射線量の高い危険なこの牧場に来てくださったことに感謝いたします。
獣医さん、本当にありがとうございました。
2012年アントニオさん撮影
後に強制避難区域から名称が帰還困難区域になった牧場の空間線量7.34μシーベルと高い線量でした。
柵作りのための支援金を出してくださった横須賀の社長さん、ありがとうございました。
柵作りの応援に全国から駆けつけてくれたボランティアのみなさん、本当にありがとうございました。
おかげで帰還困難区域と松ちゃんちの家の下にある田んぼの2つの牧場を作れたことに感謝申し上げます。
松ちゃんの家の下の牧場 2012年 アントニオさん撮影
家の下の牧場の牛は老齢の牛が多く、畜主さんに「俺も歳で動けねぇ。頼むから俺の代わりに助けてやってくれ」と依頼された牛の半分以上が15歳を超えていたと、松ちゃんは言いました。
この牛の畜主さんは僕の義父の友達で、普通の畜主さんは10歳過ぎる前に廃牛として処分してしまうのだけど、彼は「牛にこれまでおまんま(ご飯の意)食べさせてもらったんだから死ぬまで面倒をみるのが当たり前だべ」と、絶対に牛たちを見捨てなかった畜主さんだった。
この話を聞いて僕は、さすが義父の友達だなぁって思いました。
廃牛としてハムやソーセージの材料や動物園の肉食獣の餌にされることを絶対にしなかったから、畜主仲間からは変人って思われていたことだろう。
でも僕はこんなじっちゃんが好きだ。
栄養のある配合飼料を与える松ちゃん 2012年 アントニオさん撮影
2012年から2013年は特に牛を助けるということで、松ちゃんは怒涛の日々を過ごしていたと思います。
頭数も多かったし餌の供給も苦労していたから、希望の牧場の方々やウィズキャトルの皆さんの協力を得てやってこれたことに本当に感謝です。
松ちゃんちの入り口に山積みされたロールわら餌。凄い数の餌でした。2013年 アントニオさん撮影
餌の手配に力を貸していただいたウィズキャトルの皆様には本当に感謝しています。
本当にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
そして全国の皆様のご支援で、今も餌を買うことができています。
支援してくださいました皆様、本当にありがとうございました。
畜主の経験もなく牛の飼養をする松ちゃんのでかさにいつも度肝を抜かされていた僕だけど、この頃の僕は不安ばっかりで心の中はいつもアップアップしていました。
犬や猫の保護と全く別世界でしたから。
それでも牛の目を見るときれいな目で牛に癒されている自分を素直に喜んでいましたね。
こうして松ちゃんは町に残された犬や猫、その他の動物たちの保護と牛の飼養をやることになった。
体力的にも牛の飼養は結構、重労働な時があったけど、何食わぬ顔してやっていた。
それだけでなく、この頃は反原発運動というか世界各国のメディアの取材がやたらと多く、1日で5件も取材を受けたりとか毎日取材詰めで大忙しの松ちゃんだった。
本当にタフな男です。
動物の保護以外に彼がやってきたことを次回、書きたいと思います。
みなさん、本日もお付き合いありがとうございました。