だえもん 田中通のブログです.三重県鈴鹿市周辺「私たちの地域を考える」関連記事等が入ります.鈴鹿市議会議員「田中とおる」
blog daemon - Toru Tanaka / 鈴鹿市議会議員 田中とおる(通)



私の悪い習慣だが,人に質問する時に,向こうが「一番そうあって欲しくない」と思っているだろうところからシミュレーションをかける.

相手は動揺したり,怒ったりしながらだが,深いところから意見を聞けるし,何よりも真剣に話す.

ちょっとずるいかな.

改善しないと,周囲の人がパニックになってしまう.

どうも,私は心臓に悪い人らしい.




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今日は2008年度鈴鹿市児童詩コンクールの最終審査会だった.

内容は極秘(というわけでもないのだが)なので,審査後の雑談をちょっと拾ってみた.

詩の「落ち」についての議論があった.

最初読んでいい感じで,最後に意外性のある落ちがあって,....

「で,先生!落ちがあるのは良いことなの?悪いことなの?!どっち?」

私の心の叫びが別の先生に届いたのか,同じようなことを聞いていた.

そして,結論は―――わからない.

まぁ,断定はできないのだろう.

「落ち」に関してはいくつも作品があった.

でも読み終えた後の感じが違うのだ.

余韻というべきものだろうか.

「落ち」があっても,その「余韻」があるのとないのとがある.

その余韻の質が評価の判断材料になるのかな.

見えないけれども,確かにそういうものはある.

途中のわくわくを台無しにするのも,最終行直前までの退屈を時間をさかのぼって心地よい緊張だったと評価を逆転させるのも.

「落ち」のある詩には運命の瞬間があるのだと思う.




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せめぎ合う作品の数々.

溢れ出た才能.

量は質に及ばないが,量は質を高める.

その典型とも言えるのが鈴鹿市で行われている児童詩コンクール.

一見,稚拙と思えそうな詩から,誰も使っていない手法が現れたりする.

仕事がら,成長と革新を切り分ける癖がついているが,その両方を認めざるを得ない.


児童が書くのが児童詩.

子どものような作風にするのが少年詩.

しかし今年は児童が書いている少年詩のような作品もある.

どう評価されるのか―――事務局の手伝いをしている加減でちょっとわかってはいるが,審査員の方々がどう感じていたのかを聞けるといいな.


完全に自然体の詩,子どもらしくないおマセな詩,喜びから心の傷まで鉛筆の先まで出てきた感情は実に様々.

それに触れることがうれしい.

子どもたちに敬服.この機会に感謝.




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