今日は2008年度鈴鹿市児童詩コンクールの最終審査会だった.
内容は極秘(というわけでもないのだが)なので,審査後の雑談をちょっと拾ってみた.
詩の「落ち」についての議論があった.
最初読んでいい感じで,最後に意外性のある落ちがあって,....
「で,先生!落ちがあるのは良いことなの?悪いことなの?!どっち?」
私の心の叫びが別の先生に届いたのか,同じようなことを聞いていた.
そして,結論は―――わからない.
まぁ,断定はできないのだろう.
「落ち」に関してはいくつも作品があった.
でも読み終えた後の感じが違うのだ.
余韻というべきものだろうか.
「落ち」があっても,その「余韻」があるのとないのとがある.
その余韻の質が評価の判断材料になるのかな.
見えないけれども,確かにそういうものはある.
途中のわくわくを台無しにするのも,最終行直前までの退屈を時間をさかのぼって心地よい緊張だったと評価を逆転させるのも.
「落ち」のある詩には運命の瞬間があるのだと思う.
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