2/27に白寿ホールで行われた漆原啓子のリサイタルに行って来ました。代々木公園のそばにある300席の室内楽用のホールで、電位治療器などを造ってる白寿生科学研究所の本社ビルの7階にあります。新しくていいデザインだと思いますが、私の席が最前列の左の方だったのでホールとしての音響のほどはわかりませんでした。舞台も低いので最前列でも目線はピアノの椅子の座面くらいの高さです。
今回の目的は野平一郎の実演を見聞きすることで、漆原のヴァイオリンは二の次ですが、実際にはそうもいきません。プログラムの冒頭はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調です。彼女のデビュー25周年記念の6回シリーズのリサイタルの2回目で、たぶん無伴奏ソナタとパルティータを全部弾くのでしょう。ちなみに女性演奏者の場合はプログラムにも生まれた年は書いてありませんが、17歳でデビューしたとの記載があるのでバレバレですw。……いえ、まだまだお若くて、性格もかわいい人とお見受けしましたけど。
で、ふつうの言い方だと区切りの年にヴァイオリニストの聖典に取り組むってことなんでしょうけど、ありていに言うと出来は悪かったです。この曲は第2楽章の長大なフーガが何よりポイントですが、それが音がしばしばはずれてしまって、結局この曲の内容、例えば深い悲しみが表現されていないという結果になりました。おそらく彼女自身が不調に気づいていて、気持ちを落ち着かせようとしたのか、フーガが終わった後にかなり長い調弦を行っていました。最終楽章のアレグロは少しよくなっていたと思います。……最高の演奏者が最高の状態で弾かないと味も素っ気もない曲になるんだなっていうのが実感です。
次はブラームスの第2番イ長調のソナタでした。ピアノの伴奏を得て、最初のアタックから同じ演奏者と思えない音が出てきたので驚きました。まるで陸に揚げられてぱくぱくしてた魚が川に帰ったような。あ、こういうのを水を得た魚って言うんですねw。しかし、私は野平のピアノを聴いているので、あまり特別なことをしないで伴奏に徹しているような弾き方が少し不満です。このリサイタルは漆原のもので、その彼女が不安定になっているのを立て直すのが先決なのはわかるんですが。
そうやってヴァイオリンのソナタとしてはなかなかいい感じで、でもデュオのソナタとしてはやや物足りない感じで進んでいくうちに「あ、勝負は後半ってことか」って思いました。バッハとブラームスはコマーシャル上の理由があったでしょう。実際、野平目当ての私ですらブラームスが入っていたのがチケットを買う決め手になりました。でも、プログラムとして組み立てた側(それが漆原単独の考えか、二人の相談の上なのかはともかく)としてはプーランクとミヨーになんらかの意味合いを持たせたんだろうと思います。……そう思い当たって、私の妄想が始まりましたw。
「この曲はさらっと客観的に行きましょう。ブラームスのセンチメンタリズムにずぶずぶになっちゃうと後に響きますから」いや、野平が本当にそんなことを考えたどうかなんて、もちろん知りませんよ。知りませんけど、彼の能力からすればもっと情緒纏綿たる感じでヴァイオリンと懇ろな音楽を作り上げることは容易でしょう。それにどんな妄想をもって演奏を聴いても何か人に害を及ぼすわけじゃないしね。妄想なんかしてないで、彼自身に訊いたらいいんじゃないのですって?あはは。全然わかってませんね。インタヴューすればなんでも教えてもらえるって思う人は詐欺師のカモになりますよ。芸術家も興行師も詐欺師と縁戚関係があると思いませんか?……
この調子で次に浮かんだのが彼はピアノを弾きながら指揮をしているという妄想です。律儀そうに伴奏をしながら彼女をコントロールしている別の野平がいるということですね。なんかますます妄想らしくなってきましたw。聴いた音に反応してピアノを弾いているというのでなく、漆原がやるだろうことを完全に予測してピアノを弾いている自分に指令を出している、そんな感じです。これは後半が楽しみです。残念なのはピアノの指使いがいちばんよく見える席なのにヴァイオリニストが邪魔になって見えにくいということだけですw。
さて、休憩後のサティのフォロワーたち、ちょっと癖のあるチーズみたいな二人ですが、最初はプーランクのヴァイオリン・ソナタで、ジネット・ヌヴーの依嘱によるものだそうです。初めて聴く曲でしたが、私の印象としては耳になじみやすいパッセージをパッチワークのようにつないだ作品ってところです。反アカデミズム的な志向を持ちながらも、大衆音楽にはならないような知的操作が加わっていると言ってもいいでしょう。羽目をはずしてもやっぱり優等生って感じもするんですけどね。
で、肝心の演奏ですが、第1楽章のアレグロ・コン・フォーコ(火のように)にぴったりの目が覚めるようにキレが良くて運動量の多いヴァイオリンで、音の意味とか内容とか面倒なこと抜きで「あー、快感!」って感じです。そういうのってライヴならではですね。技巧的な難所の方がよりクールに演奏できているようでした。野平のピアノも同様で、彼女が振りかぶって弓を弦に向かって叩き下ろす動作までイメージして演奏しているように思えます。ピアノの音は炊き立てのコシヒカリwのようにつやつやと輝いています。粒立ちがいいんですが、強い音でも決して硬くない。フォルテで連打するマリンバのマレット(ばち)に毛糸で編んだカヴァーがついているってところです。次のミヨーで1音だけそのカヴァーがはずれた音が出ちゃったのでわかりました。
途中からピアノの音だけ聴くようにしました。そのために来たんですから。第2楽章はインテルメッツォ(間奏曲)と言いながらけっこう長いものです。スペインのフランコ政権によって銃殺されたロルカの「ギターが夢に涙を流させる」という詩句が引用されているそうで、作品全体も亡き彼に捧げられているとのことです。お約束の涙のポロンポロン・ピッチカートがあったりしますが、そんなに悲しげな音楽ではないように思いました。この夜の漆原はどうも緩徐楽章においてたっぷりと歌い上げていくことができなかったようです。最前列の席だったんでそう感じたのかもしれませんが。……妄想している私の言い方だと、野平が濃厚なシーンに引きずり込むことよりも、はじけて踊り回る方に引っ張ったということになります。ただそれもずっとではなく、時々。強くなく、ゆるめに。第3楽章はプレスト・トラジコ(悲劇的な)ですが、ほぼ第1楽章と同じような印象で、気持ちよく終わりました。この曲がいちばんよかったですね。
最後はミヨーの「屋根の上の牡牛」でした。プーランクの作品以上に俗っぽいと言うか、ラテンっぽいキャバレーの音楽って感じで、楽しいものです。多調性とかいう解説もありますが、モーツァルトの「音楽の冗談」と同様で、調子っぱずれのミュージシャンや踊り子が次々出ては「引っ込め!」って言われるのをユーモラスに描いたってところじゃないでしょうか。
ところが、なまじ音楽的素養がある作曲家が工夫を凝らして作ったものをこれまた作曲もやるピアニストが演奏するものだから、ハチャメチャなおもしろさはなくて、わりとすぐに飽きてきます。そこをカデンツァとかで手を変え品を変えもたせようとしますが、元がバレエ音楽で、しかもテーマ・ミュージック(これ自体は魅力的ですが)に常に戻って来るので、一定の枠に収まっている印象はぬぐえません。
まあ、そんなむずかしいことを言わずに名手漆原がピタッとズレた音wを出しているのや正確無比に野平が調律の狂ったピアノを弾いているのを楽しめばいいんでしょう。先日、浮世の義理でヴァイオリンの発表会に行ったんですが、そのときの気色悪い音のはずれ方やか笑いをこらえるのに苦労するこけ方とは違う、気持ちのいい、楽しいズレ方です。……調律の狂ったピアノを模しているのか、ミスタッチを模しているのか自信はないんですが、ある幅の音だけズレていたような気がするのでそう書きました。違ってたらご指摘ください。ズレは直しますw。
この曲の野平のやっていたこともプーランクと同じようでした。キャバレーの無口なピアニストのような渋さ。時々挑発するけれど、「何をしてるんだ?」って言われる前にすっと身を引く。……だから、よけいに気になって集中して聴こうとしていたら、突然えへん虫がやってきちゃったんです。演奏の途中に、しかも最前列で。こんなんで咳込んでしまうなんて最悪です。必死にこらえます。楽章間で咳払いするのだって、前々からわざとらしいと思ってる私ですから。ううっ苦しい。これからはコンサートに行くときはのど飴は必携だあ。後ろで何度もくしゃみするお気楽な人間がいます。周囲の殺気を感じないんでしょうか。それにしてもこんな強力なえへん虫は初めてです。だ、だめぇ。唾を飲み込んでやりすごすのが精一杯でとても演奏を聴いてられません。……
まあ、最後の5分くらいはそうやって悶えていたので、野平がライヴで何をする人なのかは次回以降に持ち越しです。アンコールはフォーレのロマンスとプーランクの歌曲でした。彼が伴奏以外の何もしてなかったので、何も言うことはありません。
今回の目的は野平一郎の実演を見聞きすることで、漆原のヴァイオリンは二の次ですが、実際にはそうもいきません。プログラムの冒頭はバッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調です。彼女のデビュー25周年記念の6回シリーズのリサイタルの2回目で、たぶん無伴奏ソナタとパルティータを全部弾くのでしょう。ちなみに女性演奏者の場合はプログラムにも生まれた年は書いてありませんが、17歳でデビューしたとの記載があるのでバレバレですw。……いえ、まだまだお若くて、性格もかわいい人とお見受けしましたけど。
で、ふつうの言い方だと区切りの年にヴァイオリニストの聖典に取り組むってことなんでしょうけど、ありていに言うと出来は悪かったです。この曲は第2楽章の長大なフーガが何よりポイントですが、それが音がしばしばはずれてしまって、結局この曲の内容、例えば深い悲しみが表現されていないという結果になりました。おそらく彼女自身が不調に気づいていて、気持ちを落ち着かせようとしたのか、フーガが終わった後にかなり長い調弦を行っていました。最終楽章のアレグロは少しよくなっていたと思います。……最高の演奏者が最高の状態で弾かないと味も素っ気もない曲になるんだなっていうのが実感です。
次はブラームスの第2番イ長調のソナタでした。ピアノの伴奏を得て、最初のアタックから同じ演奏者と思えない音が出てきたので驚きました。まるで陸に揚げられてぱくぱくしてた魚が川に帰ったような。あ、こういうのを水を得た魚って言うんですねw。しかし、私は野平のピアノを聴いているので、あまり特別なことをしないで伴奏に徹しているような弾き方が少し不満です。このリサイタルは漆原のもので、その彼女が不安定になっているのを立て直すのが先決なのはわかるんですが。
そうやってヴァイオリンのソナタとしてはなかなかいい感じで、でもデュオのソナタとしてはやや物足りない感じで進んでいくうちに「あ、勝負は後半ってことか」って思いました。バッハとブラームスはコマーシャル上の理由があったでしょう。実際、野平目当ての私ですらブラームスが入っていたのがチケットを買う決め手になりました。でも、プログラムとして組み立てた側(それが漆原単独の考えか、二人の相談の上なのかはともかく)としてはプーランクとミヨーになんらかの意味合いを持たせたんだろうと思います。……そう思い当たって、私の妄想が始まりましたw。
「この曲はさらっと客観的に行きましょう。ブラームスのセンチメンタリズムにずぶずぶになっちゃうと後に響きますから」いや、野平が本当にそんなことを考えたどうかなんて、もちろん知りませんよ。知りませんけど、彼の能力からすればもっと情緒纏綿たる感じでヴァイオリンと懇ろな音楽を作り上げることは容易でしょう。それにどんな妄想をもって演奏を聴いても何か人に害を及ぼすわけじゃないしね。妄想なんかしてないで、彼自身に訊いたらいいんじゃないのですって?あはは。全然わかってませんね。インタヴューすればなんでも教えてもらえるって思う人は詐欺師のカモになりますよ。芸術家も興行師も詐欺師と縁戚関係があると思いませんか?……
この調子で次に浮かんだのが彼はピアノを弾きながら指揮をしているという妄想です。律儀そうに伴奏をしながら彼女をコントロールしている別の野平がいるということですね。なんかますます妄想らしくなってきましたw。聴いた音に反応してピアノを弾いているというのでなく、漆原がやるだろうことを完全に予測してピアノを弾いている自分に指令を出している、そんな感じです。これは後半が楽しみです。残念なのはピアノの指使いがいちばんよく見える席なのにヴァイオリニストが邪魔になって見えにくいということだけですw。
さて、休憩後のサティのフォロワーたち、ちょっと癖のあるチーズみたいな二人ですが、最初はプーランクのヴァイオリン・ソナタで、ジネット・ヌヴーの依嘱によるものだそうです。初めて聴く曲でしたが、私の印象としては耳になじみやすいパッセージをパッチワークのようにつないだ作品ってところです。反アカデミズム的な志向を持ちながらも、大衆音楽にはならないような知的操作が加わっていると言ってもいいでしょう。羽目をはずしてもやっぱり優等生って感じもするんですけどね。
で、肝心の演奏ですが、第1楽章のアレグロ・コン・フォーコ(火のように)にぴったりの目が覚めるようにキレが良くて運動量の多いヴァイオリンで、音の意味とか内容とか面倒なこと抜きで「あー、快感!」って感じです。そういうのってライヴならではですね。技巧的な難所の方がよりクールに演奏できているようでした。野平のピアノも同様で、彼女が振りかぶって弓を弦に向かって叩き下ろす動作までイメージして演奏しているように思えます。ピアノの音は炊き立てのコシヒカリwのようにつやつやと輝いています。粒立ちがいいんですが、強い音でも決して硬くない。フォルテで連打するマリンバのマレット(ばち)に毛糸で編んだカヴァーがついているってところです。次のミヨーで1音だけそのカヴァーがはずれた音が出ちゃったのでわかりました。
途中からピアノの音だけ聴くようにしました。そのために来たんですから。第2楽章はインテルメッツォ(間奏曲)と言いながらけっこう長いものです。スペインのフランコ政権によって銃殺されたロルカの「ギターが夢に涙を流させる」という詩句が引用されているそうで、作品全体も亡き彼に捧げられているとのことです。お約束の涙のポロンポロン・ピッチカートがあったりしますが、そんなに悲しげな音楽ではないように思いました。この夜の漆原はどうも緩徐楽章においてたっぷりと歌い上げていくことができなかったようです。最前列の席だったんでそう感じたのかもしれませんが。……妄想している私の言い方だと、野平が濃厚なシーンに引きずり込むことよりも、はじけて踊り回る方に引っ張ったということになります。ただそれもずっとではなく、時々。強くなく、ゆるめに。第3楽章はプレスト・トラジコ(悲劇的な)ですが、ほぼ第1楽章と同じような印象で、気持ちよく終わりました。この曲がいちばんよかったですね。
最後はミヨーの「屋根の上の牡牛」でした。プーランクの作品以上に俗っぽいと言うか、ラテンっぽいキャバレーの音楽って感じで、楽しいものです。多調性とかいう解説もありますが、モーツァルトの「音楽の冗談」と同様で、調子っぱずれのミュージシャンや踊り子が次々出ては「引っ込め!」って言われるのをユーモラスに描いたってところじゃないでしょうか。
ところが、なまじ音楽的素養がある作曲家が工夫を凝らして作ったものをこれまた作曲もやるピアニストが演奏するものだから、ハチャメチャなおもしろさはなくて、わりとすぐに飽きてきます。そこをカデンツァとかで手を変え品を変えもたせようとしますが、元がバレエ音楽で、しかもテーマ・ミュージック(これ自体は魅力的ですが)に常に戻って来るので、一定の枠に収まっている印象はぬぐえません。
まあ、そんなむずかしいことを言わずに名手漆原がピタッとズレた音wを出しているのや正確無比に野平が調律の狂ったピアノを弾いているのを楽しめばいいんでしょう。先日、浮世の義理でヴァイオリンの発表会に行ったんですが、そのときの気色悪い音のはずれ方やか笑いをこらえるのに苦労するこけ方とは違う、気持ちのいい、楽しいズレ方です。……調律の狂ったピアノを模しているのか、ミスタッチを模しているのか自信はないんですが、ある幅の音だけズレていたような気がするのでそう書きました。違ってたらご指摘ください。ズレは直しますw。
この曲の野平のやっていたこともプーランクと同じようでした。キャバレーの無口なピアニストのような渋さ。時々挑発するけれど、「何をしてるんだ?」って言われる前にすっと身を引く。……だから、よけいに気になって集中して聴こうとしていたら、突然えへん虫がやってきちゃったんです。演奏の途中に、しかも最前列で。こんなんで咳込んでしまうなんて最悪です。必死にこらえます。楽章間で咳払いするのだって、前々からわざとらしいと思ってる私ですから。ううっ苦しい。これからはコンサートに行くときはのど飴は必携だあ。後ろで何度もくしゃみするお気楽な人間がいます。周囲の殺気を感じないんでしょうか。それにしてもこんな強力なえへん虫は初めてです。だ、だめぇ。唾を飲み込んでやりすごすのが精一杯でとても演奏を聴いてられません。……
まあ、最後の5分くらいはそうやって悶えていたので、野平がライヴで何をする人なのかは次回以降に持ち越しです。アンコールはフォーレのロマンスとプーランクの歌曲でした。彼が伴奏以外の何もしてなかったので、何も言うことはありません。
プーランクの「反アカデミズムの…」というくだりは、そうそう、それそれ!と激しくうなずきました。
なんか明るい人ぶってるけど、ほんとはネクラなんじゃ、と思うこともあります。
管楽器の曲はどれも生き生きしてるんですが。
野平さん、おとなしかったですか、伴奏以外の何もしていないというのも、実はよく聴くとくせものだったりするんですけどね。
リベンジ計画必須ですね。
えへん虫はとてもお気の毒でした。
あれはツライよね。
でも、そういうこと全部ひっくるめて室内楽のおもしろさだと思いますね
プーランクの曲ってけっこう聴いてるんですが、どううもよくわからなかったのがぽけっとさんの賛同を得て、わかっちゃった気になりました