今、放映中の『citrus』というアニメはいきなり女の子同士がキスしたりして、百合的要素が満載で、異性同士だとこうはいかないだろうという意味でもおもしろい。例えば右の黒髪の芽衣は生徒会長で校則にうるさいくせにイケメン教師と校舎裏でべろちゅーをしたり、母親の再婚で義理の姉になった左の金髪の柚に何も言わずにキスをした挙句、「あなたがしてほしそうな顔をしてたから」と言い放つ。
仮に芽衣を男の子だったらと考えてみよう。美人教師とキスしながら、義妹にも無理やりキスし、「おまえがしてほしそうだったから」なんてうそぶいたら、エロゲーの主人公かよ!と突っ込まれるだろう。柚は柚で、祖父となった理事長宅に行った芽衣にまたもやベッドに押し倒され、乱暴に制服のブラウスを肩脱ぎにされながら、そんなに気にしていないようだ。ふつうのラブコメでそんなことをする男子は、ヒロインにこてんぱんに殴られることになっていると思うのだが。
つまり百合だから許される、ラブコメの面倒なお約束を平然と破ってみせているというのがこの作品の新味であり、強みなのだろう。個人的には男って不自由だなぁ、#MeTooとか囃し立てられているけど、実際の少女たちはおカネや人間関係に聡くて、したたかなんじゃないのって思うけど。ちなみに#MeTooについて、ぼくはこのアトウッドという作家の発言に深く共感している。敷衍すれば多くの政治運動が彼女の指摘するような問題を内在しているだろう。
「もし司法制度が効果的でないからと、司法制度を迂回するなら、何がその代わりになるのか。誰が新しい権力ブローカーになるのか。私のような『悪いフェミニスト』ではない。私のような者は、右派にも左派にも受け入れられない」
「極端で過激な時代には過激派が勝つ。過激派のイデオロギーは宗教となり、自分たちの考えをそっくりそのまま真似しない者は誰だろうと、背教徒や異端や裏切り者とみられる。中間にいる穏健派は、抹殺されるのだ」
「女性に対する戦争とは異なり、女性同士の戦争は常に、女性のためを思わない連中を喜ばせる。今はとても大事な時だ。無駄遣いされないよう願っている」
「極端で過激な時代には過激派が勝つ。過激派のイデオロギーは宗教となり、自分たちの考えをそっくりそのまま真似しない者は誰だろうと、背教徒や異端や裏切り者とみられる。中間にいる穏健派は、抹殺されるのだ」
「女性に対する戦争とは異なり、女性同士の戦争は常に、女性のためを思わない連中を喜ばせる。今はとても大事な時だ。無駄遣いされないよう願っている」
さて、本題に戻って『citrus』の問題は百合無双だということじゃない。古臭い言い方をすると人間が描けていないのだ。KFCのおじさんのような理事長は柚に芽衣がのしかかっているのを目撃するのだが、それで柚だけを責めて退学だと宣告する。朝礼で柚がイケメン教師と芽衣のべろちゅーの件を公表し、その教師をクビにしたが、当然行われたはずの事情聴取で相手が芽衣であることは知っているはずで、けしからん孫なのに不問にしている。…
いちいちそんなことを気にしてたら楽しめないよ。このアニメでは理事長始め学校側の人間はNPC(non player character)かモブに過ぎず、ストーリーを進めるためだけの人形なんだ。そんなふうに批判されるだろうか。しかし、肝心の柚と芽衣も時折そういった行動を取る。細かい話になるので実際に見て確認してほしいが、人格に統一感がなく、感情移入できないだけでなく、(ある行動が感情を産み、それが新たな行動につながっていくという意味での)プロットがあちこちで危ういのは間違いない。…(原作が)マンガだから、アニメだからそんなもんだよ、今の若い子はおもしろい刺激的な場面をパッチワークしておけばとりあえず1クール見てくれるんだよ、量産型の欠陥に目くじらを立てるなと言う人はいるだろう。でも、ぼくは大昔からマンガやアニメが大好きで、小説やその他の本と同等かそれ以上に自分を育ててくれたと思っているので、ムキにならざるをえない。
7年前の東日本大震災の年に放映された『魔法少女まどか☆マギカ』が今も根強い人気を持つ理由の一つは、上に書いたような問題がほとんどないことだろう。上条恭介や志筑仁美といった脇役に至るまで、しっかりと人物が造形され、プロットは意外性に満ちていながら人間の感情や行動の自然な展開に沿っていて、ストーリーに説得力を持たせ、ドラマとしての共感を呼ぶ。一言で言ってしまえば「まどマギというもう一つの世界があり、そこで好きなだけ遊ぶことができる」ということであり、二次創作の根源もこれだろう。
ただこの名作にも欠陥がある。それが物語の世界観とつながるエントロピーについてだから、困るのだ。比較的きちんとした説明をしている物理少女まどか☆マギカというサイトから(メフィストフェレスを想起させる)キュウべえの発言を引用しよう。
「まどか、君はエントロピーっていう言葉を知ってるかい?」
「簡単に例えると、焚き火で得られる熱エネルギーは、木を育てる労力と釣り合わないってことさ」
「エネルギーは形を変換する毎にロスが生じる」
「宇宙全体のエネルギーは、目減りしていく一方なんだ」
「だから僕たちは、熱力学の法則に縛られないエネルギーを探し求めて来た」
「そうして見つけたのが、魔法少女の魔力だよ」
「簡単に例えると、焚き火で得られる熱エネルギーは、木を育てる労力と釣り合わないってことさ」
「エネルギーは形を変換する毎にロスが生じる」
「宇宙全体のエネルギーは、目減りしていく一方なんだ」
「だから僕たちは、熱力学の法則に縛られないエネルギーを探し求めて来た」
「そうして見つけたのが、魔法少女の魔力だよ」
最初にまどマギを見た時に「ああ、これはまずいな。シナリオを書いた人はエントロピーについて理解できてない」と思った。簡単に言えば太陽エネルギーは光合成によって幹や枝といった可燃物という化学エネルギーに変換され、燃やされ熱エネルギーに変化したことによって散らばっただけで、その散らばりの増大をエントロピーの増大と言う。エネルギー自体は形を変えてもロスもないし、宇宙全体のエネルギーは減ることはない(これが古典物理学の基本中の基本であるエネルギー保存則で、核融合によって質量がエネルギーに変化することはあって、相対性理論によって説明される)。ついでに言うと光合成はエントロピーを減少させているように見えるが、このサイトにあるように全体としてはエントロピーは増大している。
物理少女まどか☆マギカを書いた人は宇宙の終焉としての熱的死についても触れているから、まどマギでの説明がミスリーディングなのは気づいているのかもしれない。しかし、はっきり間違っていると言わないのは、エントロピーや熱力学の第2法則についてわからずにおかしな説明をしている他のサイトと同じ罪を犯していると思う。それは科学的知識について最初に間違った説明をされると、それを修正するのが大変で、特に子どもの頃にマンガやアニメで植え付けられるとトラウマとさえ言えるようなものになる、そういう経験がぼくにはあるからだ。
まどマギのシナリオライターはエネルギー保存則すら知らないくせに、聞きかじりの知識でエントロピーをマジックワードとして弄んでいるだけなのだ。そうした例は他の作品にも枚挙に暇がなく、特にシュレディンガーの猫を始めとする量子力学がらみのネタはほぼすべていい加減な知識が透けて見える。波動関数について理解できないで量子力学をネタにするなというのがぼくの本音で、それは専門家である科学者が喩え話ではなく、数式の意味をわかりやすく丁寧に伝える努力を怠っているのも一因だろう。いや、前から言っているように日本語版のウィキの科学に関する、ぶっきらぼうな説明を見ていると、専門家は数式を扱うことはできても「わかっている」わけではないと思えてくる。
さて、今日の主題はアニメではなく、去年からぽつぽつ書いている小説が書けない話である。あるいは書こうとすると「人間が描けてないぞ!」、「プロットが変だ!」、「そもそもこの小説のエントロピーが増大する一方じゃないか!」といった内なる声が筆を鈍らせ、書く気を著しく削ぐという話である。
ご愛読ありがとうございます!