3/16に読売日響の定期演奏会でベートーヴェンのミサ・ソレムニスを聴いた。指揮:スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ、ソプラノ:インドラ・トーマス、アルト:シャルロット・ヘルカント、テノール:グレゴリー・トゥレイ、バス:ジェームズ・ラザフォード、合唱:新国立劇場合唱団という演奏だった。
私事都合がいろいろあって記事を書くのが大幅に遅れてしまったが、メモを取りながら聴いていても「はてどうやって記事にしたものやら」という気がしていた。さらに、そのメモ書きした手帳も手元からなくなってしまっているので、ますます困惑してほったらかしにしてしまった。
しかし、コンサートに行けば何かしらは書くというのは自分で決めたことだから、ほんの少しだけ書いてみよう。まずぼくの先入見から言うとこの作品はベートーヴェンが自分に向いていないジャンルに無理して挑戦した曲だと思っているし、彼自身もそう思っていただろう。理由は簡単で彼は宗教的観念がない人だったからだ。こんなことを言うと第9交響曲の結尾や第15弦楽四重奏曲の第3楽章を挙げて反論する人がいるだろうけど、ああいう人間(下)から高い存在とか神(上)を希求することだけを宗教的だと考えていては宗教曲はわからない。一瞬でも天上の高みを垣間見させてこそ本物なのだ。その辺の事情は「フィデリオ」も同じで、彼はお芝居の虚構性・遊戯性がわからない人だったのだろう。
だから、個々の箇所がいくらよくできていても「交響曲で書けばよかったのに」という気がして仕方がないし、ベートーヴェンの真骨頂であるドライヴ感というか、ダイナミズムがミサ典礼文のせいで分断されているようなもどかしさを感じる。第9交響曲のような無骨さや無理な構成がなく、洗練された作曲技法が使われていても訴える力としては到底及ばない。
さて、演奏中ぼくが考えていたことはこれでだいたい尽きているような気がする。あと引っかかりを感じたのはベネディクトゥスの長い独奏ヴァイオリンである。なぜあれが必要だったのか?メゾソプラノの独唱でよさそうなものなのになぜ器楽に長々と歌わせるのか?直観的には典礼文から離れて、歌いたいことがあったように思うのだが。
私事都合がいろいろあって記事を書くのが大幅に遅れてしまったが、メモを取りながら聴いていても「はてどうやって記事にしたものやら」という気がしていた。さらに、そのメモ書きした手帳も手元からなくなってしまっているので、ますます困惑してほったらかしにしてしまった。
しかし、コンサートに行けば何かしらは書くというのは自分で決めたことだから、ほんの少しだけ書いてみよう。まずぼくの先入見から言うとこの作品はベートーヴェンが自分に向いていないジャンルに無理して挑戦した曲だと思っているし、彼自身もそう思っていただろう。理由は簡単で彼は宗教的観念がない人だったからだ。こんなことを言うと第9交響曲の結尾や第15弦楽四重奏曲の第3楽章を挙げて反論する人がいるだろうけど、ああいう人間(下)から高い存在とか神(上)を希求することだけを宗教的だと考えていては宗教曲はわからない。一瞬でも天上の高みを垣間見させてこそ本物なのだ。その辺の事情は「フィデリオ」も同じで、彼はお芝居の虚構性・遊戯性がわからない人だったのだろう。
だから、個々の箇所がいくらよくできていても「交響曲で書けばよかったのに」という気がして仕方がないし、ベートーヴェンの真骨頂であるドライヴ感というか、ダイナミズムがミサ典礼文のせいで分断されているようなもどかしさを感じる。第9交響曲のような無骨さや無理な構成がなく、洗練された作曲技法が使われていても訴える力としては到底及ばない。
さて、演奏中ぼくが考えていたことはこれでだいたい尽きているような気がする。あと引っかかりを感じたのはベネディクトゥスの長い独奏ヴァイオリンである。なぜあれが必要だったのか?メゾソプラノの独唱でよさそうなものなのになぜ器楽に長々と歌わせるのか?直観的には典礼文から離れて、歌いたいことがあったように思うのだが。
ダイレクトに魂に届くのに満足していて、そこに宗教的な媒介があるかないか、て気にするヒマがなかったですねw