夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

豊饒の……

2005-03-20 | literature


 いわゆる三夕の歌の一つ、藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり 浦のとま屋の秋の夕暮」について、三島由紀夫は「なかりけり」でこの歌がもっている、つまり要の字句だと主張しています。花も紅葉もと言いかけて、それを言葉の上で否定していても、花や紅葉という言葉が出てきた以上、そのイメージは残る。なかりけりと言うことによって、かえって寂しげな海岸風景にうっすらと華やかなヴェールがかかったようになると。……

 この文章は定家の歌の珍解などと冗談めかしていますが、それは謙遜か韜晦であって、本当は大真面目なもので、彼の最後の小説、「豊饒の海」の末尾と明白な関係があると私は思っています。

 「豊饒の海」四部作は、ほとんどが本多繁邦の視点で語られ、第三作の「暁の寺」からは次第に彼がドラマ自体の主人公になっていくのですが、その最後に至って彼のかつての親友(松枝清顕)の恋人(綾倉聡子)と――第一作「春の雪」は清顕と聡子の許されない恋を描いたものです――六十年の時を隔てて再会します。しかし、落飾して月修寺の門跡となった聡子はあろうことかこう言います。

「松枝清顕さんという方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」

 自分が仏門に入った契機でもある、恋人を知らないと言う門跡に対し、本多は彼女が白を切っているとしか思えないものの、次第に不安に駆られます。

「しかしもし、清顕君がはじめからいなかったとすれば……それなら、勲もいなかったことになる。ジン・ジャンもいなかったことになる。……その上、ひょっとしたら、この私ですらも……」

 第一作のみならず、第二作、第三作の主人公、すなわち自分の人生と深く関わった人々がいなかったとすれば自分も存在していなかったことになる。うろたえる本多に、門跡ははじめてやや強く彼を見据えて――ということはあたかも審判を下すようにと言っていいでしょう――こう言います。

「それも心々ですさかい」

 心ごころ――あると思えばある、ないと思えばない、すべては相対的なものでしかない。ということだけなら、相対主義か独我論みたいなもので、ある意味ありふれた言明だとも思えます。実際、全編の通奏低音をなしている唯識論は、「暁の寺」で正面から取り上げられていますが、その煩瑣な議論自体が「それでも世界は存在しなければならない」から行われていると何度も繰り返されています。その執拗さは、逆に言えばこの世界の存在基盤の危うさを示しているようにも感じられます。三島は、現実世界の空虚さを実感していたのでしょうか。

 しかしながら、そういう見方は小説の中のことと外の生の世界での哲学的な議論をごっちゃにしていると言わなければならないでしょう。世界が存在するかどうかなんてことは、小説家である三島にはどうでもいいことだったはずです。小説が書ければ世界が存在しなくても別に問題はないよと。

 「豊饒の海」というタイトルは、月の「海」の名前で、当然水もなく、魚などが住めるところではありません。それを豊饒というところに皮肉というか、逆説があるわけですが、要は初めから「この小説はカラカラの砂漠みたいに何もないんですよ」と言っているわけです。「でも、言葉で、言葉だけで何もないところに豊饒なイメージを醸しだしてあげましょう」と。

 もうおわかりでしょう。主要登場人物と何より物語の全体を見渡していた、本多がいなければ……もちろんこの小説全体は存在しえなくなります。しかしながら、小説は元々愚にもつかないことを言葉だけで成り立たせ、読者にうかうかと読ませ、納得させることが本義だと、三島は考えていました。この作品自体が輪廻転生という現代人にとっては、およそ真面目には信じられないことを主題にしています。その延長線上に、言葉によってできた大伽藍を最後になっていったん否定することによって、読者にこの小説の存在をかえって強く印象づけているのです。まさに定家の歌のように。

 「豊饒の海」の後には、藤原定家についての小説の構想を三島は持っていたと言われていますが、私はこうしたことからもう既に成されていたのだと思っています。海の上に横雲がたなびくように、見えるとも、見えないとも定かならずとも。……

 蛇足を付け加えることになりますが、「豊饒の海」の本当の最後に注目してみましょう。

「そのほかには何一つ音とてなく、寂寞を極めている。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。
 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
                     「豊饒の海」完。
            昭和四十五年十一月二十五日」

 先ほど述べた小説全体の否定が心象と情景の描写となって締めくくられているわけですが、問題は最後の日付です。これは言うまでもなく、彼が市ヶ谷で決起し、自決した日です。実際にはかなり前に原稿は完成していたそうですが、そんなことはどうでもいいことです。この日付の記載は、この小説が作者の死の日に終わっていることを告げているわけですし、それ以外の理解は困難でしょう。例えばその朝に原稿用紙に書き終えて、軍服のような楯の会の制服に着替えて出発する、そういったイメージを喚起するものです。

 しかしながら、そんなことを他ならぬ三島が、他ならぬこの小説で言う必要があるのでしょうか。作者の事情(たとえそれが生死に関わることであっても)などとは無関係に純粋に言葉だけで小説を作り上げてきた彼の姿勢から言って、幕切れで作者がひょいと顔を出しているような一行は、蛇足であると言わざるをえません。



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15 コメント

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藤原定家新鮮でした (1125)
2005-03-21 23:19:12
同感しながら読ませてもらいました。藤原定家の歌、新鮮です。いいessayだと思いました。
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ありがとうございます (夢のもつれ)
2005-03-22 12:37:07
お褒めいただき、ありがとうございます。三島については、あと1、2回書いてみたいと思っていますので、また見てください。
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同感です (小太郎)
2005-05-21 18:01:00
「豊穣の海」に対するすばらしい洞察ですね。私は竹内結子さんのデビュー以来のファンですが、「豊穣の海」、しかも「春の雪」だけを取り上げて、映像化することには疑問を抱かざるをえません。やはり、「豊穣の海」は本多が主人公であり、輪廻転生が主題のはずです。「春の雪」のみを取り上げ”儚くも、悲しい恋”として映像にすることには、竹内結子さんのファンとしても、片手落ちの感は否めなく、非常に抵抗感があります。個人的には「春の雪」は”儚く、悲しい恋”ではなく、”激情の恋”だと考えています。竹内ファンとしては「春の雪」のサイトから受ける印象と三島の「豊穣の海」、「春の雪」とはあまりにもかけ離れているように思います。貴HPを拝見させていただきうやっと「豊穣の海」に対する同じような感情を受けたものでコメントしました。乱文で、貴サイトを汚してしまったかも知れませんすみません。
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小太郎さん、コメントありがとうございます (夢のもつれ)
2005-05-22 23:38:16
私も竹内結子さんが朝ドラに出た時以来のファンです(今、BSで再放送してますね)。なので、今回のできちゃった婚はショックでした。



映画はP.K.ディックのところにも書きましたが、原作のファンから好かれるものはまずできないと思ってますので、どうでもいいんですけど、なんで今頃、春の雪?って感じの方が強いですね。



汚すだなんてことはないです。これからもよろしくお願いします。
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ありがとうございます (maki)
2005-11-03 02:15:45
トラックバックの仕方を間違えてすみませんでした。とてもすばらしい文章をリンクできて嬉しいです。
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ありがとうございます (夢のもつれ)
2005-11-03 23:18:02
私も最初はTBをなんだか逆なように考えていました。これからもよろしくお願いします。
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はじめまして (さくさく)
2005-12-06 02:11:19
ゆらゆらながれてこのサイトに着きました。

初めましてですが、TBさせていただきました。

m(__)m

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Unknown (藤原不定家)
2006-05-05 05:22:36
この小説のテーマは転生輪廻ですが、もっとも大事な主題は「あったと思っていた事実が、じつはなかった事。」というこの点にあるのですね。然し現実には万物はあるし記憶というものもある。われわれはそこをくぐりぬけなければこの傑作の意義というものについて、本当の意味での評論は永久に只のおしゃべりになってしまう。それほど大きなメッセージをこの大作にこめているように思われる。実はそれから先は哲学、宗教の問題だと思われるのですが、文学としてみれば構成、文体等様々な研究対象としてあるいは芸術的価値から見ても多少美文と取れるところもあるが、優れている作品である事はいうまでもない。世に優れた作品は星の数ほどある中歴史的な視野を持つ文学作品の意義という意味において私はこれほどの傑作を他には知らない。
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Unknown (Unknown)
2006-05-05 17:59:04
初めてお邪魔致します。ご縁があったようで、流れに導かれたどり着きました。 実は私はまだこの作品を読んでおりません。先ほど購入し、これから読むところです。そんな私が感想を拝見しただけでこのようなことを申し上げるのは大変恐縮なのですが、なぜか心に引っかかってしまい、なんとなく感じたことを、見当違いを承知でコメントさせていただきます。失礼をどうぞお許しください。



「あったと思っていたことが実はなかった」ということは逆に「ないこと(あると認識していなかったこと)が実はあったことに気がついた」のかな?と思いました。絶望ではなく、ない世界に希望を込めているように感じました。



そして聡子の言葉。いかにも女性らしい、女性ならではの言葉のように感じました。その真意は残念ながら、男性には決して伝わることのない言葉のような気がするのです。



発せられた言葉の裏に、全く逆の真意が(確信)が潜んでいて、執着や我を超えてすべてを許容し、何かわからないけれど、大きな大きな存在と一体となって、姿としては存在しないけれど、今も共にあると言っているような、そんな気が致しました。



おかしなことをツラツラと申し上げてすみません・・・





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藤原不定家さんへ (夢のもつれ)
2006-05-06 15:34:58
私はこの作品について、とても単純に「ないはずの小説があるはずの現実を侵食し、優位に立つ」という三島の美学を具現化したものなんだろうと思っています。こういう彼の切実な主張はまともに扱われずに、外側から見られていることが多いようです。
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