すべてがデータになる前に(5)
ここのところ始終眠くて仕方がない。電車の中で座れば眠り込んで乗り過ごす、立ったまま眠ってしまい吊革を持ってがくりとなる。仕事中の待ち時間でも、どうかすると打ち合わせのときでも意識が途切れてしまう。
「お疲れだね」とからかわれてしまうが、ちょっと変に思われ始めているような気もする。夜は眠れない。昼間ぼおっとしていてできないことをやり始めると、目も頭も冴えてやめられない。短夜はあっという間に明けて、ようやくベッドにもぐり込む。どうしたのだろう。たけるの見舞いに行って以来、自分が折り返りかけているような気がする。
例えばこういうことだ。六本木をふらふら歩いていると、「今、時間ある?」ってナンパされる。
「時間はモノじゃないから、あるとか、ないとか言うのは変じゃない?」
「それは認識論的に感覚への寄りかかりがあるからさ。感覚的に強固な基盤を持つモノのイメージを時間に投射して、あるっていう言い方になるんだよ。つまりさ、ぼくとお茶する気持ちがあるとか、ないとかと言うのと同じだよ」
「うん、そうかもね。でも、気持ちの方はお茶してもいいなっていう心的状態だという言い換えはできても、でも残念ね、時間がないのっていう言明は、君の論理に従うとどういう言い換えになるの?」
「その言い換えを検討するのには、時間がないと無理だから、心的状態を優先しようよ」
……もちろん目の前でコーヒーを飲んでいるナンパ君がこんなことを言うはずはない。『ねね、彼氏いるのー?』とか、『今日は何しに来たのー?』とか、たぶんそんなところをあたしが適当に変換して、哲学論争ちっくに聞いているだけ。それだけ意識の清明は衰えているのかもしれない。
向こうにしたって、ぼんやりした女の子がぶつぶつ変なことを言っても、名うてのナンパ術は委細かまわず、まっしぐらに突き進む。かくしてコミュニケーションの不在は、悲劇でも解決すべき問題でもなく、今日の青空のようなすがすがしさを遍くもたらすものなのだ。
オープンカフェで、ああっと大きく伸びをする。ちょっと血流の良くなった頭は、嫌なことを思い出す。仕事に行かなくちゃ。いじわる。
「Time is up! 浮いた時間がなくなったの。……ごちそうさま。じゃあ、またね」
さっさと歩いて行く。何事か喚いているけれど、だめよ。二千円でも三千円でもテーブルに放り出して、追いかけてくれなきゃ。いい加減な考えで、ありきたりにしか行動できない連中は、使い捨てられるだけ。
地の底の底みたいな大江戸線のホームまで行くと、線路の向こうの「六本木」の文字がシンメトリーだった。あたしもあんなふうに折り返せばぴったり重なるのかな、ずれてしまう部分は何なのかな、芋虫みたいな電車を待ちながら考える。……