夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

雪舟はどう語られてきたか~橋本治、小林秀雄、フェノロサほか

2005-11-06 | art

 「雪舟はどう語られてきたか」という本は、1996年の橋本治から時代を遡って1908年没のフェノロサ(書物としての刊行年1921年のみを掲げ、文章の初出を示していないのはこの本の性格から言って極めて問題です)まで、雪舟について書かれたものを集めています。すごく簡単にまとめようとすれば表題に掲げた3人の文章を軸に考えればいいと思います。

 まずフェノロサは何を言ったか。雪舟をレンブラントなどと比較して誉め上げた。これがその後の雪舟の見方を決定したわけです。ヨーロッパの偉い先生が泰西名画の巨匠と比較できる存在として、親戚の蔵にもある骨董品を芸術だと言ったということです。外国人に誉められて評価が高まるという浮世絵から現存の画家に至るパターンですね。親戚の蔵にある云々は意外かもしれませんが、雪舟の偽物はすごくいっぱいあってしかも真偽不確定なものも多く、例えば「慧可断膂図」のような教科書に載っている作品ですら贋物の疑いがかけられていたと知ってびっくりしました。いずれにしてもこの本に多く載せられている雪舟を語る場合のメインストリームはこの行き方で、レンブラントがセザンヌに変わったくらいのものです。私には雪舟はよくわかりませんが、レンブラントやセザンヌと比較する理由はそれ以上にわかんない話で、要は正面から分析できないから権威や流行の画家を持ってきただけ、絵画を言葉で表現しようと悪戦苦闘していない知的怠慢なんだろうなっていう専門家の文章がずらっと並んでいます。

 小林秀雄はいつもどおりの芸術家や作品をダシに自分を語るというやり口です。この本の編者の山下裕二が小林の文章の仕掛けを綿密に分析してくれているので、わかりやすいのですが、真偽判定に明け暮れて作品を作品として正面から見ないアカデミズムをからかいながら、複製芸術によっても芸術的感動は得られると主張し、返す刀で実見した「山水長巻」の印象をレトリックで大したもののように見せています。つまりレコードでモーツァルトを聴き、画集でゴッホを鑑賞するしかなかった(今も多くの人はそうです)時代に「それでいいんだよ」と慰めと励ましを与えるという大衆迎合と、雪舟の大作をつてを頼れば容易に、しかも心ゆくまで見せてもらえる「ぼくは本物もちゃんと見てるんだよ」という貴族趣味みたいなものをうまく両立させているわけです。しかしながら、小林がいちばん大事にしたはずの(というよりは実は繰り返しそれだけを語った)芸術的感動についての描写を見ると「これ以上やったら、絵の限界を突破して了う」とか「見詰めていれば形が崩れて来る様なもの一切を黙殺する精神、私は、そういう精神が語りかけて来るのを感じて感動した」といった、昔はこういう文章がたくさんあったなぁと懐かしくもあり、気恥ずかしくもあるような代物です。ただ、他の人たちのも専門家を含め、いざ作品そのものになると素朴な印象だけを恥ずかしげもなく垂れ流すものが多く、悪達者なレトリックという芸を持っている小林の足元にも及びません。それに彼は、一応は雪舟の作品について語っているという枠は守っていますが、水上勉などは臆面もなく自分を語るばかりですし、岡本太朗も「雪舟は芸術ではない」といつもどおり過激なことを言いますが、要は自分の芸術とは行き方が違うと言っているだけです。

 さて、こんなふうに言うと、「おまえは明治以降、雪舟について書かれたものは、権威を借り、素朴な印象を並べて、自分を語るのがほとんどだと言うのか? 客観的に雪舟について教えてくれるものはないというのか?」という詰問があるかもしれませんが、まあそうですね。芸術について語ったものを最近はあんまり読んでなかったせいもあるかも知れませんが。そういう中で、橋本治は「わかりやすいもの」と題して「山水長巻」を、「わかりにくいもの」と題して「破墨山水図」(画像はこれです)を採り上げていて、それなり教えてくれるものを持っています。これまたあっさりまとめてしまうと、「山水長巻」は「やれやれほっとした」という雪舟の実感が描かれているのでわかりやすい、「破墨山水図」は弟子に「少しは考えなさい」と教えるため、わざわざわかりにくく描いたということです。小林から多くを学んでいることは読んでみるとすぐにわかりますが、それが橋本流の親切と言うか、ぺたっとくっついてくると言うか彼特有の書き方なので、アンチテーゼといったことになるでしょう。そういう意味で言えば、古くから禅僧らから多くの賛を寄せられた「破墨山水図」の方が禅っぽさがあってわかりやすく、16mもある絵巻物である「山水長巻」の方がストーリーを読み解かないといけないのでわかりにくいっていうのが伝統的考え方で、橋本の用いた枠組みはそれに対するパラドックスであり、レトリックだと言えるでしょう。……結論めいたことを言えば、雪舟について何ごとかを知りたいなら、これと「慧可断膂図」についての赤瀬川原平の実感で押し通した文章を読めば十分でしょう。それ以上、他人の感想を読んでも仕方がありません。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
失礼いたします。 (tenjin95)
2005-12-09 06:36:32
> 管理人様



久方ぶりに来訪いたしましたが、今日12月9日はこの雪舟が描いた慧可断臂の日であるとされています。それに因みまして、TBいたします。
返信する
そうでしたか。。 (夢のもつれ)
2005-12-11 12:50:23
達磨と慧可の話は無門関にも見えますね。。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。