さて、上川一族全体に視野を広げてみると、79年から80年にかけて結婚ラッシュに見舞われていた。本家の上川裕美子と片山暁子が昨年、79年の秋、片山葉子と鳥海菫が今年の春と秋といった具合であった。ことのついでに触れておくと、本家の長男、晃は昔で言えば保が興した上川家の三代目のはずだが、ご多分にもれず、身代をつぶしかねないような人物だった。祖父の保に憧れていて、おれも親や家に頼らずにでかいことをやってやるという意気込みは立派だが、手堅い一方で、小心者の父、正一をバカにしているものだから、かえって無謀なことに手を出して、借金を抱え、自分では払いきれず、これっきりだという約束で(これっきりにならないのは世の常だが)、尻拭いしてもらう始末。そんなことが何回かあり、今は勘当同然になっていて、結婚したらしいが、いつ、どこで、誰というのは、栄子ら三姉妹とも詳らかではなかった。
いずれにしても伯父、伯母、場合によっては従兄妹も結婚式に呼んだり、呼ばれたりしていると、出費はかさむは、誰々のと比べて今日の衣装はどう、料理はこうとろくでもない話が出る。一回のお祝いに10万円の出費では足りない、毎年春と秋に一人ずつにしてもらいたい、いやうちは毎月少しずつ積み立てをしている、あと何人いるんだ、まだ半分もいないんじゃないか、こりゃえらいこったと労働組合の団体交渉のような会話。
しかし、甥、姪たちも大きくなったもんだ。うん、ほんのちょっと前はあんたの小さな車の荷台にみんな乗せて、川遊びに連れて行ったのに、今じゃおれたちよりよっぽど大きくなっちまった。昔は良かったな、じいさんが生きてる頃はにぎやかで。お互い年を取ったってことか。いちばん年下は誰だ、保伸か? ああ輪子だ。あの子だってもう16よ。そうか、そうか……。いつもの繰り言めいた会話。
そんな中、たぶん葉子の結婚式の際に、大学生の鳥海童が宇八に話し掛けてきた。
「伯父さん、できた? レクイエム」
「いや、まだだ。もう少しだが」
「そう。……あれさ、バッハはなんでないの?」
「レクイエム書いてないだろ。バッハは」
「でも5曲書いたとかいう受難曲は、レクイエムじゃないの?キリストへの」
この甥はこれまでに述べてきたところでも明らかなように、訊きたがり屋であるが、この伯父に対しては特別にそうなのだ。それに訊いていることが本当の意味で、彼の頭の中で大きな気がかりとなっているものかどうかは疑問であって、気がかりがあるときにこの伯父に会うと、こんなふうに一見関係のない質問になるといった方が正確だろう。それでこの伯父には十分通じるという甘えもある。
「そうかもな。だがそういうふうに店を広げてもな」
「ショスタコだって入れちゃってるのにさ。……嫌いなの?」
「嫌いとか、好きとかのレベルじゃないだろ、バッハは。入れると終わっちゃうじゃないか。……まあいいや、座れや。悪いな、輪子」
輪子を立たせ、童を自分の隣に座らせた。背もたれに手を掛けた姿勢で、話を続けた。
「……一流の作曲家、まあおれが取り込んだようなのがそうだが、ああいう連中の音楽は、ある意味同じようなことを問いかけていると思わないか? 人はなぜ生まれてきたのか。なぜ死ぬのか。どんなふうに生きて、どんなふうに死ねばいいのか。そういうことを、音だけで問いかけているんじゃないか? それぞれの声でさ。……だが、バッハだけは違うんだ。あれは解答、正解って奴なんだ。そういう答えのないような問いにいきなり解答を出しているんだ。そう、他のどんな天才だって、問いを出すのさえ血を吐くような思いで作曲しているのに」
童は伯父の顔をじっと見ているが、宇八は甥の顔を見ない。グラスを見つめていたり、先ほど新郎新婦がお色直しで出て行った出入口辺りを凝視していたりする。
「……バッハは、だってこれが答えじゃないかって、すっと言ってしまうんだ。だから他人の曲を持ってきても自分の音になってしまうし、正解はそんなに色々あるわけないから、自分の曲の使い回しも平気なんだ。『うん、これで十分だ』って呟きながら書いてたんだろうな。……でも音楽っていいよな。言葉なんかより、本なんかよりずっといいな。パルティータとか。わかんなくても気持ちいいし、わかると胸が締めつけられて」
伯父はますます甥から目をそむけ、最後は多弁なのを恥じるように反対側を向いてしまった。童はそっと立ち上がって自分の席に戻った。
しばらくして、正一がふらふらとやって来た。ほろ酔いと泥酔の間くらいといった正一のいつもの領域である。
「宇八さんよ、あんたも栄子とおんなじヤソ教徒になったんかね?」
「いや、おれはカトリック教徒なんかじゃないぜ」
「じゃあ、仏教か?神道か?」
「まあ、やおよろずだな」
「それにしちゃあ、こむずかしい讃美歌かなんか作ってるじゃないか。おれたちも引き込もうとしてさ」
「別にあんたに歌わせたりしていないだろ? いやがる奴に無理強いなんかしないぜ」
「うん。それならいいんだが……」
宇八が少し怒気を込めて言うと、ひるんだようにぶつぶつ言いながらまた別のテーブルの方へ行った。