あなたの内なる子供を恐れないで――フィナンシャル・タイムズ(フィナンシャル・タイムズ) - goo ニュース
ルーシー・ケラウェイのコラムを読むといつも何か言いたくなる。感覚やものの見方が近いのかもしれない。リンクが切れるといけないので、コラムの全文を掲げる。
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「あなたの内なる子供を恐れないで」(フィナンシャル・タイムズ 2009年1月25日初出 gooニュース翻訳) ルーシー・ケラウェイ
オバマ米大統領は先週、世界を前に、「子供っぽいことはもうやめるべき時です」と演説した。しかし、本当にそうだろうか? もしそうなのだと言うなら、どうして? 子供っぽくて素敵なものは色々あるし、それを全て片付けてしまいなさいというのは、いささか無意味に厳しすぎないだろうか?
オバマ氏は聖書の「コリント人への手紙」を引用していたのだが、もしも「聖書から好き勝手につまみ食いしよう」ゲームに参戦するとしたら、子供っぽいあれこれには必死になってしがみつくべきだという論拠だって、いくらでも見つけられる。たとえばマタイによる福音書の18章3節には「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とあるではないか。
現代に生きる不信心者として私は、子供っぽいものを止めて片付けてしまうことは、大きな過ちだと知っている。自分の洗礼式のお祝いにもらったパンダのぬいぐるみを片付けてしまわなくて、良かったと思っているし、大人になった今でも私はチョコ菓子「モルティーザーズ」が大好きだ。私はオバマ氏よりもさらに50歳に近い年齢だが、それでもモルティーザーズはとても私を心地よく満足させてくれる。とはいえ一方で、「リコリス・ファウンテン(英国のラムネ菓子)」はもうやめたし、「エンジェル・ディライト(ミルクに溶かす粉末菓子)」にもお人形の「シンディー(英国版リカちゃん人形)」にも、もう用はない。いずれにしても、何を手元に残して何を手放すかは、個人個人が決めることで、自分にとって何が正解なのかはひとりひとりが承知しているはずだ。
自分が演説でいわんとしたのは、おもちゃ箱やお菓子の戸棚の中身のことだけではないのだが……と、オバマ氏はおそらく思うだろう。けれどもそうだとしても、「子供っぽいことはもうやめろ、片付けろ」というアドバイスは、説得力に欠けていた。弱虫みたいに、まぬけな道化みたいに、あるいはおバカさんみたいに振る舞うのはもう止めよう——そういう意味ならば、私はオバマ氏に大賛成だ。とはいえ、そんなに非主流な考え方を全国民と共有しようとした、そんな考えが共有するに値すると新大統領は考えたのだろうか。首を傾げてしまう。
そうではなくて、それ以外の子供っぽい行動を全部止めてしまえという意味だったなら(たとえばどんな悪い結果が待っていても真実を語ろうという思いも、子供っぽいから止めてしまえという意味なら)、なかなか同意しがたい。なんといっても「王様は裸だ」と言明できたのは子供だったのだし。目の前の仕事を片付けるにあたっても、子供っぽく夢中になる心を決して片付けたりしてはならない。ヘラクレイトスが言ったように「遊びに夢中な幼子のごとく真剣になった時、人は最も自分らしくいられるものだ」。
ここ数週間ほどの間に私は、片付けてしまっていた子供っぽいことを4つほど見つけた。そのうち2つは、不要な子供っぽさ。けれども後の2つは、とても貴重で、脇に追いやってしまったのはとてももったいなかった、そういう子供っぽさだった。
ひとつ目は、自分の頭の中でのこと。私は先週ついに、経済のことを何も知らない赤ん坊のように振る舞うのを止めた。つまり、周りの人たちの真似を止めることにしたのだ。去年の9月からこちら、周りがみんなお財布の紐をきっちり締めているからというただそれだけの理由で、私も財布をきつく閉じていたものだ。けれどもようやくそういう自主性のないだらしない行動は止めて、経済周期の逆を行くいわゆる逆ばり行動をとって、大きな出費に打って出ることにしたのだ。なかでもとりわけ決断したのは、ウチのボロ屋の内装をすっかりやり直すこと。この判断は見事にあたった。何軒もの工務店がウチの前に門前市をなして整然と並んで、それぞれにまともな見積もりをして、今すぐただちに仕事にとりかかりますと申し出てくれたのだから。大工さんを雇うのに、これほど何のストレスもなかったことはかつてなかった。私のように、まだ働いている人にとって、今この時期にお金をたくさん使うことは、大人にふさわしい行動だというのにとどまらない。ケインズ乗数の威力からすると、今のこの時期にお金をたくさん使うことは、合理的だし、満足感が高いし、かつ道徳的にも正しい振る舞いなのだ。
私が次にやめることにした子供っぽい行動とは、幼稚な研修コースだ。受講を止めたのは正しい選択だった。先日目にした広報文によると、英国の全企業の半数が、経営幹部の研修をどんどん削減しているのだという。ということはつまり、英国内の企業関係者の多くはもう「チーム力形成」を大義名分に、赤ちゃん人形を抱っこしたり、素足でジャムを踏みしめたりしなくてもいいということだ。これはありがたい変化だが、この分野ではほかにも止めてしまえることがもっとたくさんある。たとえば私はちょうど今「イギリス初のカリスマ・マスター教室」に招かれたばかりだ。こんな馬鹿げた経営研修コース、オバマ氏には決して必要なかった。
その一方で、その必要もないのに消されてしまう子供らしさもたくさんある。
この景気後退のせいで、転職コンサルタントたちが実に不愉快な「大人らしい」態度をとっているのに気づく。ここ数日の間、FT.comは金融部門の転職情報をいくつか掲載している。就職先はどれもドバイ。この転職コンサルタントの広告はまるで、反抗的な子供たちを校庭で叱りつける教師みたいに強圧的だ。採用に必要なスキルを並べている箇所で、こういう説教じみた段落があるのだ。
「下記の応募条件は交渉不可。条件にあてはまらない場合は、応募しないでください。WHマークス・サッティンのドバイ・チームは、私たちの時間を無駄にする応募者を今後一切の選考から排除します」
ダボスでも、過剰な子供らしさは駆逐されてしまった。今週の会議では大人のもっともいやな部分が、あのスイスのリゾート地にはびこることだろう。やたらと偉そうで、ダラダラと冗長で、企業の社会的責任(CSR)に関する政治的に正しい(ポリティカリー・コレクト)な会議にジッと静かにモゾモゾせず座っていられるという、そういう大人らしさだ。
何より悲惨なことに、ダボスを訪れる人たちは、簡単なことを簡単に分かりやすく言うという子供らしさを、不要なものとおいやってしまった。
ダボスでの議題について話し合うロンドン・アクセンチュアでの会議では(会議について会議するなど、まともな子供なら絶対に我慢しないはずなのに)、ビジネス用語の新語がふたつ生まれた。「Optics(オプティクス、視覚、光学などの意)」という言葉は、「ものごとの外見」を意味する新しい名詞となった。また「to synchronise (シンクロナイズ、同期させる)」は新たに、「人と会う」という意味をもつことになった。
ダボスでは、オバマ氏がコリント人への手紙から引用した一節のバリエーションが、改めて有効だろうと思う。「子供だったとき、私は子供のように話した。大人になった今、私は辞書などもう手放し、好き勝手に言葉を作って話している」と。
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次にオバマ新大統領の演説の該当部分の前後を掲げる。
「私たちが今日のこの日、ここに集まったのは、恐怖よりも希望を選び、対立と不和よりも、目的を一つにして団結することを選んだからです。
今日のこの日に私たちは、つまらないいさかいや偽りの約束はもう終わりだと、そう宣言するためにやってきました。この国の政治をあまりにも長い間、身動きできなくしてきた非難中傷合戦や使い古されたドグマはもう終わりだと。
私たちはまだ若い国です。けれども聖書の言葉を借りるなら、子供っぽいことはもうやめるべき時です。今こそ、私たちの不屈の精神を再確認する時です。自分たちのより良い歴史を選びとり、世代から世代へと受け継がれてきたあの貴重な財産、あの崇高な理想を、さらに前へ掲げて推進すべき時です。私たちの貴重な財産、崇高な理想とは、あらゆる者は平等で、全ての人が自由で、誰もが最大限の幸福を追求する機会を与えられる権利をもっているのだという、あの神から与えられた約束のことです。」
*********
さらに、新約聖書から関係部分を抜粋しておこう。
「コリントの信徒への手紙第一第14章第19節~第20節
しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」
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さて、前置きというかコピペが長くなってしまったけれど、自他ともに子どもっぽいと認めるぼくに言わせればオバマも(コリントに手紙を書いた)パウロも説教臭くてイヤだ。パウロは子どもみたいにわいわいがやがや言わないで、理性を働かせろと言っているようだけど、それじゃあ常識論に過ぎない。真意は「俺が作る教会と教義に従え」といったところかもしれない。…ここで自白しておくと新約聖書もパウロの手紙はあまり読む気がしない。「転び伴天連」(逆だけど)って必要以上にファナティックなんじゃないかな。パウロもオバマも政治家だからって言ってしまえばそのとおりだけど、子どもっぽさはそういうのを拒否する。
「弱虫みたいに、まぬけな道化みたいに、あるいはおバカさんみたいに振る舞うのはもう止めよう——そういう意味ならば、私はオバマ氏に大賛成だ。とはいえ、そんなに非主流な考え方を全国民と共有しようとした、そんな考えが共有するに値すると新大統領は考えたのだろうか。首を傾げてしまう」ここは痛烈だ。アメリカ人は決して賢明にはなれないし、賢明になるつもりだって毛頭ないと言ってるわけだから。だから、彼らは偉大だし、厄介だということなんだろう。弱虫や道化やおバカな子どもは(大人と同様に)もちろんいるけれど、それは子どもっぽさとは違うと彼女は言いたいんだろう。悪事に対して反発し、ふくれっ面をするのが子どもなんだ。
「遊びに夢中な幼子のごとく真剣になった時、人は最も自分らしくいられるものだ」このヘラクレイトスの言葉はすばらしい。いくら子どもっぽいぼくでも夢中になって真剣になれることは少ない。遊び・趣味の世界、ブログの記事ならともかく、実生活で生活のかかった仕事においてはやっぱり打算や思惑が先行してしまって、幼子のようになるなんてできたためしがない。でも、それはほんのちょっぴりでもいいから必要なんだろう。ビジネスの場において、打算や思惑だけの人は掃いて捨てるほどいるけど、実際、そういう人は組織にとって有害無益だから掃いて捨てた方がいい。今のような経済危機においてこそそうじゃないかなって思う。
最後にケラウェイは言葉の問題を取り上げ、造語することで現実を直視することから逃避しようとしている人たちを皮肉っている。子どもは言葉遊びが好きだけど、それは現実逃避ではなく、別の現実の創生のようなことだと思う。「簡単なことを簡単に分かりやすく言う」それができない人が今の日本には多すぎる。だから、それがちょっとできるお笑いタレントがもてはやされるんだろう。
ただ彼女の文章に不満がないわけでもない。それは子どもっぽさの危険性であり、その創造性と破壊性が裏腹になっていることだろう。しかし、それを「子どもっぽさ」という概念で扱うのは主観的すぎて無理があるような気がするので、それについては別の観点からまたアプローチしてみよう。
ルーシー・ケラウェイのコラムを読むといつも何か言いたくなる。感覚やものの見方が近いのかもしれない。リンクが切れるといけないので、コラムの全文を掲げる。
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「あなたの内なる子供を恐れないで」(フィナンシャル・タイムズ 2009年1月25日初出 gooニュース翻訳) ルーシー・ケラウェイ
オバマ米大統領は先週、世界を前に、「子供っぽいことはもうやめるべき時です」と演説した。しかし、本当にそうだろうか? もしそうなのだと言うなら、どうして? 子供っぽくて素敵なものは色々あるし、それを全て片付けてしまいなさいというのは、いささか無意味に厳しすぎないだろうか?
オバマ氏は聖書の「コリント人への手紙」を引用していたのだが、もしも「聖書から好き勝手につまみ食いしよう」ゲームに参戦するとしたら、子供っぽいあれこれには必死になってしがみつくべきだという論拠だって、いくらでも見つけられる。たとえばマタイによる福音書の18章3節には「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」とあるではないか。
現代に生きる不信心者として私は、子供っぽいものを止めて片付けてしまうことは、大きな過ちだと知っている。自分の洗礼式のお祝いにもらったパンダのぬいぐるみを片付けてしまわなくて、良かったと思っているし、大人になった今でも私はチョコ菓子「モルティーザーズ」が大好きだ。私はオバマ氏よりもさらに50歳に近い年齢だが、それでもモルティーザーズはとても私を心地よく満足させてくれる。とはいえ一方で、「リコリス・ファウンテン(英国のラムネ菓子)」はもうやめたし、「エンジェル・ディライト(ミルクに溶かす粉末菓子)」にもお人形の「シンディー(英国版リカちゃん人形)」にも、もう用はない。いずれにしても、何を手元に残して何を手放すかは、個人個人が決めることで、自分にとって何が正解なのかはひとりひとりが承知しているはずだ。
自分が演説でいわんとしたのは、おもちゃ箱やお菓子の戸棚の中身のことだけではないのだが……と、オバマ氏はおそらく思うだろう。けれどもそうだとしても、「子供っぽいことはもうやめろ、片付けろ」というアドバイスは、説得力に欠けていた。弱虫みたいに、まぬけな道化みたいに、あるいはおバカさんみたいに振る舞うのはもう止めよう——そういう意味ならば、私はオバマ氏に大賛成だ。とはいえ、そんなに非主流な考え方を全国民と共有しようとした、そんな考えが共有するに値すると新大統領は考えたのだろうか。首を傾げてしまう。
そうではなくて、それ以外の子供っぽい行動を全部止めてしまえという意味だったなら(たとえばどんな悪い結果が待っていても真実を語ろうという思いも、子供っぽいから止めてしまえという意味なら)、なかなか同意しがたい。なんといっても「王様は裸だ」と言明できたのは子供だったのだし。目の前の仕事を片付けるにあたっても、子供っぽく夢中になる心を決して片付けたりしてはならない。ヘラクレイトスが言ったように「遊びに夢中な幼子のごとく真剣になった時、人は最も自分らしくいられるものだ」。
ここ数週間ほどの間に私は、片付けてしまっていた子供っぽいことを4つほど見つけた。そのうち2つは、不要な子供っぽさ。けれども後の2つは、とても貴重で、脇に追いやってしまったのはとてももったいなかった、そういう子供っぽさだった。
ひとつ目は、自分の頭の中でのこと。私は先週ついに、経済のことを何も知らない赤ん坊のように振る舞うのを止めた。つまり、周りの人たちの真似を止めることにしたのだ。去年の9月からこちら、周りがみんなお財布の紐をきっちり締めているからというただそれだけの理由で、私も財布をきつく閉じていたものだ。けれどもようやくそういう自主性のないだらしない行動は止めて、経済周期の逆を行くいわゆる逆ばり行動をとって、大きな出費に打って出ることにしたのだ。なかでもとりわけ決断したのは、ウチのボロ屋の内装をすっかりやり直すこと。この判断は見事にあたった。何軒もの工務店がウチの前に門前市をなして整然と並んで、それぞれにまともな見積もりをして、今すぐただちに仕事にとりかかりますと申し出てくれたのだから。大工さんを雇うのに、これほど何のストレスもなかったことはかつてなかった。私のように、まだ働いている人にとって、今この時期にお金をたくさん使うことは、大人にふさわしい行動だというのにとどまらない。ケインズ乗数の威力からすると、今のこの時期にお金をたくさん使うことは、合理的だし、満足感が高いし、かつ道徳的にも正しい振る舞いなのだ。
私が次にやめることにした子供っぽい行動とは、幼稚な研修コースだ。受講を止めたのは正しい選択だった。先日目にした広報文によると、英国の全企業の半数が、経営幹部の研修をどんどん削減しているのだという。ということはつまり、英国内の企業関係者の多くはもう「チーム力形成」を大義名分に、赤ちゃん人形を抱っこしたり、素足でジャムを踏みしめたりしなくてもいいということだ。これはありがたい変化だが、この分野ではほかにも止めてしまえることがもっとたくさんある。たとえば私はちょうど今「イギリス初のカリスマ・マスター教室」に招かれたばかりだ。こんな馬鹿げた経営研修コース、オバマ氏には決して必要なかった。
その一方で、その必要もないのに消されてしまう子供らしさもたくさんある。
この景気後退のせいで、転職コンサルタントたちが実に不愉快な「大人らしい」態度をとっているのに気づく。ここ数日の間、FT.comは金融部門の転職情報をいくつか掲載している。就職先はどれもドバイ。この転職コンサルタントの広告はまるで、反抗的な子供たちを校庭で叱りつける教師みたいに強圧的だ。採用に必要なスキルを並べている箇所で、こういう説教じみた段落があるのだ。
「下記の応募条件は交渉不可。条件にあてはまらない場合は、応募しないでください。WHマークス・サッティンのドバイ・チームは、私たちの時間を無駄にする応募者を今後一切の選考から排除します」
ダボスでも、過剰な子供らしさは駆逐されてしまった。今週の会議では大人のもっともいやな部分が、あのスイスのリゾート地にはびこることだろう。やたらと偉そうで、ダラダラと冗長で、企業の社会的責任(CSR)に関する政治的に正しい(ポリティカリー・コレクト)な会議にジッと静かにモゾモゾせず座っていられるという、そういう大人らしさだ。
何より悲惨なことに、ダボスを訪れる人たちは、簡単なことを簡単に分かりやすく言うという子供らしさを、不要なものとおいやってしまった。
ダボスでの議題について話し合うロンドン・アクセンチュアでの会議では(会議について会議するなど、まともな子供なら絶対に我慢しないはずなのに)、ビジネス用語の新語がふたつ生まれた。「Optics(オプティクス、視覚、光学などの意)」という言葉は、「ものごとの外見」を意味する新しい名詞となった。また「to synchronise (シンクロナイズ、同期させる)」は新たに、「人と会う」という意味をもつことになった。
ダボスでは、オバマ氏がコリント人への手紙から引用した一節のバリエーションが、改めて有効だろうと思う。「子供だったとき、私は子供のように話した。大人になった今、私は辞書などもう手放し、好き勝手に言葉を作って話している」と。
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次にオバマ新大統領の演説の該当部分の前後を掲げる。
「私たちが今日のこの日、ここに集まったのは、恐怖よりも希望を選び、対立と不和よりも、目的を一つにして団結することを選んだからです。
今日のこの日に私たちは、つまらないいさかいや偽りの約束はもう終わりだと、そう宣言するためにやってきました。この国の政治をあまりにも長い間、身動きできなくしてきた非難中傷合戦や使い古されたドグマはもう終わりだと。
私たちはまだ若い国です。けれども聖書の言葉を借りるなら、子供っぽいことはもうやめるべき時です。今こそ、私たちの不屈の精神を再確認する時です。自分たちのより良い歴史を選びとり、世代から世代へと受け継がれてきたあの貴重な財産、あの崇高な理想を、さらに前へ掲げて推進すべき時です。私たちの貴重な財産、崇高な理想とは、あらゆる者は平等で、全ての人が自由で、誰もが最大限の幸福を追求する機会を与えられる権利をもっているのだという、あの神から与えられた約束のことです。」
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さらに、新約聖書から関係部分を抜粋しておこう。
「コリントの信徒への手紙第一第14章第19節~第20節
しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。
兄弟たち、物の判断については子供となってはいけません。悪事については幼子となり、物の判断については大人になってください。」
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さて、前置きというかコピペが長くなってしまったけれど、自他ともに子どもっぽいと認めるぼくに言わせればオバマも(コリントに手紙を書いた)パウロも説教臭くてイヤだ。パウロは子どもみたいにわいわいがやがや言わないで、理性を働かせろと言っているようだけど、それじゃあ常識論に過ぎない。真意は「俺が作る教会と教義に従え」といったところかもしれない。…ここで自白しておくと新約聖書もパウロの手紙はあまり読む気がしない。「転び伴天連」(逆だけど)って必要以上にファナティックなんじゃないかな。パウロもオバマも政治家だからって言ってしまえばそのとおりだけど、子どもっぽさはそういうのを拒否する。
「弱虫みたいに、まぬけな道化みたいに、あるいはおバカさんみたいに振る舞うのはもう止めよう——そういう意味ならば、私はオバマ氏に大賛成だ。とはいえ、そんなに非主流な考え方を全国民と共有しようとした、そんな考えが共有するに値すると新大統領は考えたのだろうか。首を傾げてしまう」ここは痛烈だ。アメリカ人は決して賢明にはなれないし、賢明になるつもりだって毛頭ないと言ってるわけだから。だから、彼らは偉大だし、厄介だということなんだろう。弱虫や道化やおバカな子どもは(大人と同様に)もちろんいるけれど、それは子どもっぽさとは違うと彼女は言いたいんだろう。悪事に対して反発し、ふくれっ面をするのが子どもなんだ。
「遊びに夢中な幼子のごとく真剣になった時、人は最も自分らしくいられるものだ」このヘラクレイトスの言葉はすばらしい。いくら子どもっぽいぼくでも夢中になって真剣になれることは少ない。遊び・趣味の世界、ブログの記事ならともかく、実生活で生活のかかった仕事においてはやっぱり打算や思惑が先行してしまって、幼子のようになるなんてできたためしがない。でも、それはほんのちょっぴりでもいいから必要なんだろう。ビジネスの場において、打算や思惑だけの人は掃いて捨てるほどいるけど、実際、そういう人は組織にとって有害無益だから掃いて捨てた方がいい。今のような経済危機においてこそそうじゃないかなって思う。
最後にケラウェイは言葉の問題を取り上げ、造語することで現実を直視することから逃避しようとしている人たちを皮肉っている。子どもは言葉遊びが好きだけど、それは現実逃避ではなく、別の現実の創生のようなことだと思う。「簡単なことを簡単に分かりやすく言う」それができない人が今の日本には多すぎる。だから、それがちょっとできるお笑いタレントがもてはやされるんだろう。
ただ彼女の文章に不満がないわけでもない。それは子どもっぽさの危険性であり、その創造性と破壊性が裏腹になっていることだろう。しかし、それを「子どもっぽさ」という概念で扱うのは主観的すぎて無理があるような気がするので、それについては別の観点からまたアプローチしてみよう。
だけど子供っぽさとは?の考察としてはおもしろいけど演説の中味とすっきり結びつかないようにどうしても思えてしまうんですが。