区の施設に簡単な舞台をしつらえたお子さんでもわかる狂言入門みたいなものですから、狂言を見てきましたって言うのもおこがましいんですが、野村万禄さんが解説もしてくれたので、内容はわかりやすくておもしろいものでした。
それを逐一紹介することもないんで、なるほどと思ったことだけ書きます。能・狂言の舞台って背景に松の木が描かれていますし、昨日も同じような幕がありました。あれは歴史的には神社に奉納するものだからそういう神聖な空間を作っているのかなって思っていましたが、それだけじゃなく季節を限定しないためだそうです。桜やもみじでは確かに時季が決まってしまいます。狂言は場所も季節や昼夜の時間もあまり限定されません。舞台を一周すれば遠いところにも着きますし、暗転なんてことをしなくても時間を早送りできたりします。
こういう特定しないことによる自由さは舞台装置がない点でも同じです。大道具はないし、小道具もいちいちは用意しない。昨日はとても短い「盆山」と有名な「附子」が演じられたんですが、小道具は扇と附子の入った櫃だけでした。これが通常の演劇であれば「盆山」なら庭らしくした上で、ノコギリと塀、いくつかの盆栽が必要でしょうし、「附子」ならお屋敷のしつらえと掛軸、天目茶碗くらいは最低限必要でしょう。しかし、そういうものはありません。ないからかえって一周回っただけで遠くまで着くといった約束事が不自然に見えない。演劇はいくらリアリズムに徹しようと思っても徹しきれないし、約束事は残ります。例えば舞台で本当に人を殺したりできないし、聞こえないわけがないのに聞こえてないことにする脇台詞(傍白)とかありますね。映画やテレビのドラマなら約束事は少なくてリアリティはいくらでも追求できそうですが、スクリーンや画面に映された複製物という意味でのヴァーチャル性が現れる。
たぶん狂言も最初は大道具や小道具を用意したくてもおカネや時間がないとか、場所がないってことだったんじゃないかなって思いますが、それを後になっても歌舞伎や西洋の演劇のようには発展させなかったんですね。それがかえってよかったような気がします。余白を作っておいて見る側の想像力に委ねるというのは日本のあらゆる分野の芸術・芸能に繰り返し現れるパターンでしょう。なんでもかんでも描写し、表現し尽くすというのは日本には根付かないし、向かないんです。
能だと幻想的とか象徴的とかいうことになりますし、実際そういう傾向も強いですが、狂言の場合は動作やセリフによるギャグがシンプルでキレがいいものになっているような。……狂言にいちばん近いのは落語でしょう。狂言が一人になって座ると落語になるって、あんまりマジメに受け取られると困りますがw。
昨日は万禄さんによるワークショップもあって、観客全員を立たせて狂言の笑いと泣きの所作をさせました。何回もやらされて、照れている大人もだんだんマジメにやらないといけないようになってきたのがこれまたなるほどと思いました。その後、子どもたちを10人ほど舞台に上げて、正座と挨拶の仕方を教えていました。組んだ足首の上に座るとか、挨拶の言葉が終わってから頭を上げるとか、言われてみればわかっても全く忘れていたなって思いました。挙措動作って体で覚えるものだし、立居振舞いの見苦しい芸能って長続きはしないんでしょう。
それを逐一紹介することもないんで、なるほどと思ったことだけ書きます。能・狂言の舞台って背景に松の木が描かれていますし、昨日も同じような幕がありました。あれは歴史的には神社に奉納するものだからそういう神聖な空間を作っているのかなって思っていましたが、それだけじゃなく季節を限定しないためだそうです。桜やもみじでは確かに時季が決まってしまいます。狂言は場所も季節や昼夜の時間もあまり限定されません。舞台を一周すれば遠いところにも着きますし、暗転なんてことをしなくても時間を早送りできたりします。
こういう特定しないことによる自由さは舞台装置がない点でも同じです。大道具はないし、小道具もいちいちは用意しない。昨日はとても短い「盆山」と有名な「附子」が演じられたんですが、小道具は扇と附子の入った櫃だけでした。これが通常の演劇であれば「盆山」なら庭らしくした上で、ノコギリと塀、いくつかの盆栽が必要でしょうし、「附子」ならお屋敷のしつらえと掛軸、天目茶碗くらいは最低限必要でしょう。しかし、そういうものはありません。ないからかえって一周回っただけで遠くまで着くといった約束事が不自然に見えない。演劇はいくらリアリズムに徹しようと思っても徹しきれないし、約束事は残ります。例えば舞台で本当に人を殺したりできないし、聞こえないわけがないのに聞こえてないことにする脇台詞(傍白)とかありますね。映画やテレビのドラマなら約束事は少なくてリアリティはいくらでも追求できそうですが、スクリーンや画面に映された複製物という意味でのヴァーチャル性が現れる。
たぶん狂言も最初は大道具や小道具を用意したくてもおカネや時間がないとか、場所がないってことだったんじゃないかなって思いますが、それを後になっても歌舞伎や西洋の演劇のようには発展させなかったんですね。それがかえってよかったような気がします。余白を作っておいて見る側の想像力に委ねるというのは日本のあらゆる分野の芸術・芸能に繰り返し現れるパターンでしょう。なんでもかんでも描写し、表現し尽くすというのは日本には根付かないし、向かないんです。
能だと幻想的とか象徴的とかいうことになりますし、実際そういう傾向も強いですが、狂言の場合は動作やセリフによるギャグがシンプルでキレがいいものになっているような。……狂言にいちばん近いのは落語でしょう。狂言が一人になって座ると落語になるって、あんまりマジメに受け取られると困りますがw。
昨日は万禄さんによるワークショップもあって、観客全員を立たせて狂言の笑いと泣きの所作をさせました。何回もやらされて、照れている大人もだんだんマジメにやらないといけないようになってきたのがこれまたなるほどと思いました。その後、子どもたちを10人ほど舞台に上げて、正座と挨拶の仕方を教えていました。組んだ足首の上に座るとか、挨拶の言葉が終わってから頭を上げるとか、言われてみればわかっても全く忘れていたなって思いました。挙措動作って体で覚えるものだし、立居振舞いの見苦しい芸能って長続きはしないんでしょう。
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なんかいろんなものがあるサイトです。
「何にもないから何でもできる」
でも何でもするために何かに頼らない芸の力や、仰るとおり、身のこなしやらをさらに磨くわけですよね。
観る方もぼんやりしていられない、こういうものって本当にもっと多くの人、特に子供達にたくさん経験してほしいと思います。
芸術や芸能って制約や不自由さがかえって有利に働いたり、おもしろみにつながったりするんで、伝統もその一つだと思います。
子どもたちに「形」とか「形式」も大事なんだってことを説得力をもって教えてくれるいい機会だと思いました。