夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

外に向かって閉じた街

2005-04-13 | tale

  すべてがデータになる前に(9)

 ぼくは空想の街を造る。それはきっとトレドにどこか似ているはずだ。狂気の雲が狂人の街を覆っている。エル・グレコって人の描く人物は、みんな狂った熱病患者なんだ。ここの人たちも住まわせてあげよう、この橋のそばに、この城壁のそばに。熱病の人たちを冷ましてあげるために、深い淵にいる人たちを狂熱で引き上げてもらうために。ぼくは雲の下を飛んでいるから。

 あの女もそうなんだろうか。ママたちによると夜はあきれるくらいぐっすり眠っているらしくて、朝起きると何だか損をしたような顔をしているそうだ。時々、島々を行き交う船のように先生やナースや他の患者に立て続けに訴えているけれど(なぜケータイが持ち込めないのかとか、カセットならよくてなぜCDはダメなのかとか、そんなことらしい)、今はノートにゆっくりと書いている。舫われたように髪を揺らしながら。グラフ理論って言ってたから(そう、ぼくには聞こえるんだ、聴こうとさえすれば)、折れ線グラフとか帯グラフのことかと思ったけど、浮き輪に網を掛けたような絵だった。楽しそうにしてればそれで誰も言わない。

 でも、まーちゃんをいじめる奴がいる。退院しても家に居場所がない、仕事がない、みんなそうなのに。少ししか開かない窓から指でひらひらしてるのを邪魔する。「目障りなんだよ」それはおまえだ。「朝から晩まで何してやがる」おまえは何をしてる。……まーちゃんが泣き叫ぶ。ナースが来る、だるそうに。まーちゃんを抱えて引き離す。そいつから目を逸らしながら。「こんな奴生かしといても何にもならないだろう」ぼくは笑う、甲高く。ナースがきつく睨む。だいじょうぶだよ、そいつをスケジュールどおり娑婆に出すのを邪魔する気はないから。でも、君はまーちゃんのことをわかっていないみたいだね。そう、ナースはその二つにわかれる。人間はみんな。

 ……ぼくは頭に血がのぼってしまった。廊下を歩いて冷まさないと、よくない。右の方へ行く、さえない蛍光灯の列の向こうに「独房」の入り口が見える。と言ってもただのドアだけど、そこをくるっとまた右に曲がると、蛇口が5つ並んでいる。そこは床が濡れていたりして嫌いだ。港はしんとしている。鱗とにおいだけが残っていて、もう死んだような魚も上がって来ない。

 誰か呼んだ? ブイが音もなくうなずく。波の音も死んでいる。畳の部屋の向こうでは、布団をかぶって、深夜に眠れないとナースにいつも訴える奴が寝ている。突き当たって回れ右をしたら、ぼくの主治医がふらふらと歩いてくる。めったに目を合わせることはないけれど、おじぎをしたらかすかに首を揺らす。白衣を着てなければ患者って感じだけど、でも患者たちは何とか関心を持ってもらおうとする。ぼくはこの人に何回、自分の家族構成を説明したか知れない。単に忘れているだけなのか、ぼくの話振りや態度を見ているのか。そんなことを訊いても仕方がない。話が逸らされるだけだし、鴉の奴が鳴くからね。奴らはQの音をいろいろに使う。厚い窓ガラスを通して伝えてくる。

 デイルームに戻って、左側の方へ(と言っても女子の方じゃないんだけど、昼間なら行ってもいいし、平気な奴もいるけど、ぼくは行かない)行く。給食のにおいってどこか吐き気をもよおさせる。口だけで息をすると、変な顔になってしまう。こっちの部屋にも寝ている奴がいる。仰向けに棒のように体を強張らせて、手を組み合わせて、埋葬を待ってるみたいだ。この病棟では幸せそうに寝てるのはいない。

 介助が要る患者が先に入浴している。服を脱がせるナース、洗うナース、服を着せるナース、てんてこ舞いだけど、自分が相手してる患者しか見えてないのもいれば、流れを俯瞰して脱衣場から「そろそろ湯船から出なさい」と声を掛けるナースもいる。ぼくがそういうふうに見てるとあんまりいい気はしないみたいだけど。……もうすぐ他の患者たちが浴室の前に並ぶだろう。食事のときも10分も前から並ぶのがいる。やることがないから、みんなスケジュールをよく覚えてて、先々並ぶ。忙しすぎてここに来た人も多いのに、暇なのは耐えられないみたい。ぼくは並ばない。垢が浮いた湯船も、狭い席に話もしないような人の隣で飯を食うのも平気だ。そういうことを気にしない。急いでしてもその先には何もないんだから。

 行き止まり、行き止まり。この病棟はぜんぶそうなってる。鉄の扉の向こうは、外階段とかエレヴェータ・ホールとかにつながってたりするけど、閉じられている。散歩は回れ右の連続になる。ふつうの病棟とは違う。すたすたスリッパのまま歩いて出ることはできない。出て行っても困るのは病院よりも自分たちだ。外ではぼくらは何者でもないから。

 デイルームに戻ると、まーちゃん(いつも朝起きるとここに連れて来られて、消灯近くまでいる)とあの女だけがいる。ノートを広げているけど、何も書かずにぼんやり窓の方を見ている。きっとまーちゃんに関心があるんだ。見るともなく、見ているのがわかる。新入りのうち何人かはまーちゃんに興味を持って、やがて失う。さっきの男みたいに口に出して言わなければ何を考えてもいい。だいたいは想像がつく。ぼくが見た夢より向こうには行けないんだから。ずいぶん前のことだけど、キャップを少し傾けてかぶったナースが見習いのナースに説明してるのが聞こえた。「本当はここにいるのは違うのよ。あの子が入る施設は別にあるんだけど、子どものときからいるものだから……」言い訳のような、誰かに向かって抗議するような、でも自分が面倒を見たいという気持ちがこもってた。

 その夜にぼくは夢を見た。その夢は、朝目が覚めたときは断片しか思い出せなかった。ただその夢を見たことで、まーちゃんがこの病棟にとっても、ぼくにとっても大事な人だとわかったんだ。それは「疑問の余地がない」ってやつだった。……まーちゃんはぼくの街に住んでくれるだろうか。まーちゃんはよくご飯とか、トイレットペーパーを捨てる。ぼくの街を使い捨てたりしないだろうか。


最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ギッグス)
2005-04-13 18:00:20
こんにちは。

TBありがとうございます。

不思議な不思議な小説ですね。トレドは古都

ということもあり空想の世界のようで素敵でし

た。エル・グレコの家も素敵でした・・・
返信する
コメントありがとうございます (夢のもつれ)
2005-04-13 18:36:39
トレドはとても好きな街で、おっしゃるように幻想的な、時を超越したようなところですね。2回行ったのですが、また行ってみたいと思っています。

エル・グレコも大好きな画家の一人で、トレドで見るといっそう魅力がありますね。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。