夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

私のバッハ体験~パルティータほか

2005-09-25 | music

 先日の物語「ジャパン・レクイエム」の第34回にバッハについて登場人物にいろいろ語らせていますので、若干コメントしておきたいと思います。

 まずバッハが5曲の受難曲を書いたということですが、これは息子のC.P.E.バッハらによる「個人略伝」によるものです。現存するのはマタイとヨハネの2曲ですが、マルコも作曲されたことは間違いなく、あとで触れる使い回し(パロディ)をたどって行けばかなり復元できるようです。こんなふうに新約聖書の4福音書の3つまでがあるとなるとルカ福音書もバッハは作曲したのではないかと想像したくなります。あるいは偽作ながらBWV246をもった作品を真作とカウントしたのではないかと。ところが、息子のしかもこれも大作曲家と言って差し支えないエマヌエルが稚拙な偽作を父親のものと間違うはずもないということで否定されています。その他いろんな説があるようですが、残りの2曲については憶測の域を出るものではないようです。したがって、全く別のルカ(ドイツ語ではルーカスとなります)受難曲がありえたことは、他の可能性とともに我々の想像としては許されることになります。

 なお、4福音書の関係ですが、現在の新約聖書成立史研究の通説をすごくかいつまんで言うとマルコ福音書あるいはその原資料からマタイとルカが派生し、ヨハネはかなり独立して成立したようです。そうしたこととキリスト教徒が教団を形成していく中で、路線対立があってそれで4つも福音書ができたわけです。つまり4福音書(だけじゃないですが)はキリストを教祖として利用しようとして作られた記録、「歴史」なわけで、イエスが捕まえられるところなど同じ事実をそれぞれどのように記述しているかを比較して読むと、単にありがたい書物以上のおもしろさを感じるでしょう。

 物語の主人公は「バッハは人生の難問の正解をすっと言ってしまう」という意味のことを言っていますが、これは現在の私のバッハの音楽から受ける印象でもあります。彼の音楽はまわりくどさや難解さは何もありません。声楽曲であれば聖書や歌詞に合わせて素直に、かつ大胆に音楽をつけていきます。器楽曲でも音楽的表情を時には常套的に、時には全く新奇な形で展開していきます。「だって、こうなんでしょ?」そういう感じです。だからこそ協奏曲やオルガン曲をカンタータに転用し、カンタータを受難曲に転用するといったことがおびただしく行われているのだろうと思います。通常はバッハは職務が忙しかったので使い回しをしたと言われていますし、同時代の作曲家もそうだったので、そう理解していいんでしょうが、私にはそれが新規に曲を書き下ろす方が優れているという、“創作”優位の発想が根底にあるように思えます。しかし、そんな価値観は近代だけのものです。それ以前は、いかに先人の作品を習得し、使いこなすかがヨーロッパでも我が国(本歌取りとかそういったものです)でも重要な能力だったわけで、“まねび”が優位していたように思います。……いずれにしても、数学において既存の公式や定理を使って新たな証明を行うようにバッハは使い回しをしていたように思えるのです。

 6曲のパルティータは、平均律クラヴィア曲集やゴルドベルク変奏曲よりも身近に感じる曲です。構成や妙技を示すという要素が少ないせいなのか、舞曲集とも言うべき内容がバッハ特有のパセティックな面をより強く示しているせいなのか、それはよくわからないのですが。私が愛聴しているのは、アンドラーシュ・シフのものです。どうしてもチェンバロ曲はピアノのものの方が親しめるようです。


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