えー、ちょっと風邪をひいてましてしばらくブログをさぼっていました。
だるくてやる気が出なかったんですが、まあそれだけではないかもしれません。
前々から思ってはいたんですが、私の場合、ブログを一度やめちゃうと復活できないかなっていう気がしていました。ほぼ毎日書くことを自分の義務みたいにしているところがあって、そうしないとネタを考えたり、発掘したりっていうのが面倒になっちゃう恐れみたいなのがあったんですね。
あっさり言っちゃうとどうしても書きたいことはだいたい書いてしまったような気はかなり前からしていました。十分な時間があれば調べたり、考えたりして書きたいことはないではないですが、今はそういう気分にはあまりなりません。
また、読んでいただいてる人も何でもいいから読みたいっていう人もまずいないでしょう。おもしろければ読む、自分の関心に合うから読む、なんとなく読む、その辺がいいところじゃないかなって思います。
そんなこんなを考え出すとあまり書く気がしません。書く気がしないと書いててもおもしろくありません。書いてておもしろくないものが読んでておもしろいはずがありません。自分が読んでおもしろくないんだから相当おもしろくないはずです。つまりは悪循環です。
で、こういうのがイヤなので休みがちになります。さらに幸か不幸か風邪で家にいる間はほとんど寝ているような状態になったので、ブログをしばらく休んだということです。
こういう状態とは別に今までのブログの形になんだか縛られているなっていう気もずっとしていました。ここのカテゴリーにアートとか音楽とか物語とか詩とかがあるように、書く対象も表現の形もいろいろやってきた、ふつうのブログよりは良かれ悪しかれヴァラエティを持たせてきたように思いますが、それ自体がパターンになっちゃうところもあるし、こういうことは書けるとか、これはちょっとネタにできないとかいうのが書く前に決まってしまうようなところがあります。つまり自縄自縛です。
で、こんなふうに書いていくとなんだか最終回のあいさつになってしまうような感じですが、そう決めたわけではありません。とりあえずそうしようかなって気もないではないんですが。
それよりは自分のブログを書くこともなく、だらだらといろんなブログをさまよってたら廃墟を見つけた話を書くのが今の気分に合っているような気がします。……みなさんもずっと何か月も更新されないまま放置されたブログを見たことがあるでしょう。きちんと別れの言葉が書かれているわけでも、更新中止ってはっきりしているわけでもない、でもたぶんずっとこのままだろうというブログ。
ブログを日記とかメモとかって思えば世の中の日記帳やノートはだいたいこんなものでしょう。1月の中旬に「さあ、明日からはちゃんと日記を書くぞ」っていうのを最後に後は真っ白になった日記。黒板を丸々写した日本史の次になぜか英単語が50ほど書いてあって、その後お年玉の使い道なんかがあって、最後はメモにでも使ったのかビリッと破けたままのノート。そんな感じです。引越しの時にでも苦笑いしながらそんなのを他のゴミと一緒に段ボールの中に捨てたりするわけですが、ブログの場合はそれをいつでも誰でも見れる。廃墟と言いましたが、日付は古くても全然色あせたり古びたりせずにいつまでも。……
プロヴァイダやサーヴァ(私はこの区別もよくわからないんですが)がなくなったり、容量がいっぱいになったりすることはあるんでしょうし、いつかはこうした更新されないままのブログも整理されるのかもしれません。しかし、まだブログが普及してから5年も経ってないように思いますが、廃墟は増える一方のような気がします。1日か2日だけ書いて放り出されたブログはともかく、それなりに続いたブログが突然終わっているのを見るのはおもしろいものです。なぜ終わったんだろうという書かれていない理由を想像して最後から読んでいくのは推理の楽しみがあります。
子どもの時に空き家を探検したことがある人は多いと思いますが、何かいけないものを見てしまいそうなワクワクするような、あの気分に近いものもあります。これが廃墟でなければつまらないブログなのに。ちょっと不謹慎な意味も含まれています。何か漂うものがあるのかもしれません。言霊なんて言葉を思い出して自分で自分を怖がらせても仕方ないですが。
この間、赤瀬川源平の「芸術原論」という本を読みました。彼の芸術のとらえ方には賛成するところもそうでないところもあって、いちばん違うのは彼が印象派以降しか評価していないことですが、例の超芸術トマソン系の話は昔からなじみもあっておもしろいものでした。別に廃墟ブログが何の用もなしていない「純粋階段」になっているなんて「無理矢理時評」(今作った言葉ですが、意味はわかっていただけるでしょう)をするつもりはないんですが、わびさび化するちょっと手前で、意味づけを拒否しているところは、私がうろうろしてると自然と行き当たるものに共通した手触りかなって思います。
この本の中で感心したのがいろんなものを包むという芸術を彼がやっていたときの話でした。絵を包む。彫刻を包む。建物を包む。……そうやってだんだんエスカレートしていくと宇宙を包もうということになります。で、カニ缶のラベルをはがして缶をきれいに洗い、中にラベルを貼って缶をハンダ付けしてふたをする。これでカニ缶の中から見れば宇宙は缶詰になったわけです。ただ宇宙全部が包めたわけじゃなくてこの缶の中だけが外にある。それではってことで、別のシャケ缶とかでも同じようにやれば相互に包み合っているので、まあ宇宙が包めたことになる。
これだけでもかなりおもしろいんですが、彼はこのさかさまにラベルを貼った缶詰は自我だって言うんですね。自分以外をすべて包もうとして、自分が闇に閉じこもったところは確かに鋭いアナロジーになっているように思います。私はカニ缶、あなたはシャケ缶、お互いに包み込もうとしている。……ブログを書くことで、と二度目の「無理矢理時評」をやっておく必要はあるでしょうか。
バカバカしいと思う人が多いでしょうね。でも、近代以降の哲学の議論は私の理解する限りだいたいこんなところです。それ以上に宇宙なんてのがすぐに出てくるところは子どもみたいですね。で、実際この本は、彼が子どもの頃に自分が死んで自分という存在が終わったらってことばかり考えていたって話から始まっています。つまりそれが芸術の始まりだと彼は思っているわけです。そして、私はこれでこの記事の終わりがうまくついたかなと思っています。
だるくてやる気が出なかったんですが、まあそれだけではないかもしれません。
前々から思ってはいたんですが、私の場合、ブログを一度やめちゃうと復活できないかなっていう気がしていました。ほぼ毎日書くことを自分の義務みたいにしているところがあって、そうしないとネタを考えたり、発掘したりっていうのが面倒になっちゃう恐れみたいなのがあったんですね。
あっさり言っちゃうとどうしても書きたいことはだいたい書いてしまったような気はかなり前からしていました。十分な時間があれば調べたり、考えたりして書きたいことはないではないですが、今はそういう気分にはあまりなりません。
また、読んでいただいてる人も何でもいいから読みたいっていう人もまずいないでしょう。おもしろければ読む、自分の関心に合うから読む、なんとなく読む、その辺がいいところじゃないかなって思います。
そんなこんなを考え出すとあまり書く気がしません。書く気がしないと書いててもおもしろくありません。書いてておもしろくないものが読んでておもしろいはずがありません。自分が読んでおもしろくないんだから相当おもしろくないはずです。つまりは悪循環です。
で、こういうのがイヤなので休みがちになります。さらに幸か不幸か風邪で家にいる間はほとんど寝ているような状態になったので、ブログをしばらく休んだということです。
こういう状態とは別に今までのブログの形になんだか縛られているなっていう気もずっとしていました。ここのカテゴリーにアートとか音楽とか物語とか詩とかがあるように、書く対象も表現の形もいろいろやってきた、ふつうのブログよりは良かれ悪しかれヴァラエティを持たせてきたように思いますが、それ自体がパターンになっちゃうところもあるし、こういうことは書けるとか、これはちょっとネタにできないとかいうのが書く前に決まってしまうようなところがあります。つまり自縄自縛です。
で、こんなふうに書いていくとなんだか最終回のあいさつになってしまうような感じですが、そう決めたわけではありません。とりあえずそうしようかなって気もないではないんですが。
それよりは自分のブログを書くこともなく、だらだらといろんなブログをさまよってたら廃墟を見つけた話を書くのが今の気分に合っているような気がします。……みなさんもずっと何か月も更新されないまま放置されたブログを見たことがあるでしょう。きちんと別れの言葉が書かれているわけでも、更新中止ってはっきりしているわけでもない、でもたぶんずっとこのままだろうというブログ。
ブログを日記とかメモとかって思えば世の中の日記帳やノートはだいたいこんなものでしょう。1月の中旬に「さあ、明日からはちゃんと日記を書くぞ」っていうのを最後に後は真っ白になった日記。黒板を丸々写した日本史の次になぜか英単語が50ほど書いてあって、その後お年玉の使い道なんかがあって、最後はメモにでも使ったのかビリッと破けたままのノート。そんな感じです。引越しの時にでも苦笑いしながらそんなのを他のゴミと一緒に段ボールの中に捨てたりするわけですが、ブログの場合はそれをいつでも誰でも見れる。廃墟と言いましたが、日付は古くても全然色あせたり古びたりせずにいつまでも。……
プロヴァイダやサーヴァ(私はこの区別もよくわからないんですが)がなくなったり、容量がいっぱいになったりすることはあるんでしょうし、いつかはこうした更新されないままのブログも整理されるのかもしれません。しかし、まだブログが普及してから5年も経ってないように思いますが、廃墟は増える一方のような気がします。1日か2日だけ書いて放り出されたブログはともかく、それなりに続いたブログが突然終わっているのを見るのはおもしろいものです。なぜ終わったんだろうという書かれていない理由を想像して最後から読んでいくのは推理の楽しみがあります。
子どもの時に空き家を探検したことがある人は多いと思いますが、何かいけないものを見てしまいそうなワクワクするような、あの気分に近いものもあります。これが廃墟でなければつまらないブログなのに。ちょっと不謹慎な意味も含まれています。何か漂うものがあるのかもしれません。言霊なんて言葉を思い出して自分で自分を怖がらせても仕方ないですが。
この間、赤瀬川源平の「芸術原論」という本を読みました。彼の芸術のとらえ方には賛成するところもそうでないところもあって、いちばん違うのは彼が印象派以降しか評価していないことですが、例の超芸術トマソン系の話は昔からなじみもあっておもしろいものでした。別に廃墟ブログが何の用もなしていない「純粋階段」になっているなんて「無理矢理時評」(今作った言葉ですが、意味はわかっていただけるでしょう)をするつもりはないんですが、わびさび化するちょっと手前で、意味づけを拒否しているところは、私がうろうろしてると自然と行き当たるものに共通した手触りかなって思います。
この本の中で感心したのがいろんなものを包むという芸術を彼がやっていたときの話でした。絵を包む。彫刻を包む。建物を包む。……そうやってだんだんエスカレートしていくと宇宙を包もうということになります。で、カニ缶のラベルをはがして缶をきれいに洗い、中にラベルを貼って缶をハンダ付けしてふたをする。これでカニ缶の中から見れば宇宙は缶詰になったわけです。ただ宇宙全部が包めたわけじゃなくてこの缶の中だけが外にある。それではってことで、別のシャケ缶とかでも同じようにやれば相互に包み合っているので、まあ宇宙が包めたことになる。
これだけでもかなりおもしろいんですが、彼はこのさかさまにラベルを貼った缶詰は自我だって言うんですね。自分以外をすべて包もうとして、自分が闇に閉じこもったところは確かに鋭いアナロジーになっているように思います。私はカニ缶、あなたはシャケ缶、お互いに包み込もうとしている。……ブログを書くことで、と二度目の「無理矢理時評」をやっておく必要はあるでしょうか。
バカバカしいと思う人が多いでしょうね。でも、近代以降の哲学の議論は私の理解する限りだいたいこんなところです。それ以上に宇宙なんてのがすぐに出てくるところは子どもみたいですね。で、実際この本は、彼が子どもの頃に自分が死んで自分という存在が終わったらってことばかり考えていたって話から始まっています。つまりそれが芸術の始まりだと彼は思っているわけです。そして、私はこれでこの記事の終わりがうまくついたかなと思っています。
カニ、シャケなどと言うと高級感が漂って哲学に近いような気もして難しそうなので、私あたりはみかん缶でもいいかなと。
いずれにせよ、書く気がしないと言いつつ、ここまで書いちゃうあたり、さすがのブラックホールですね。
とりあえず、お大事にね。
みかん缶は甘くておいしいですが、開けたままにしておくとすぐに重金属が溶けてきそうです。
ほぼ全快しました。昨日は飲みに行きましたし
いちごさんに心配していただいて申し訳ないような、うれしいような感じです^^