昔付き合いのあった女性に「あんたがなぜ小説を書くのか、わからない」とよく言われた。ちゃんとした定職があって忙しくしているのに何を好き好んでということもあるだろうが、彼女は元々画家やマンガ家が作品づくりに苦吟する様子をテレビで放映していても、「もう遊んで暮らせるだけの収入があるのに、なんで無理して働くのかしら」といったようなことを言っていたから、芸術を始めとするクリエイティブ系の人のことがおよそわからないのだろう。前回挙げた庄司薫やサリンジャーはひょっとするとそうなのかもしれないし、興が乗らないのに書くのは読者に対して不誠実だとも言えるだろう。仕事は食べるためにやむを得ずやるもので、やるにしても与えられたものをこなすものと彼女は考えていて、理解できないのかもしれない。あっさり言ってしまえば頑固なのだが、内的衝動を欠いたぼくが創作意欲について説明しても説得力はない。
また別の女性で、ぼくに菊池伶司を教えてくれた子は芸大の大学院生で、正真正銘の画家の卵だったが、絵を描きたくて仕方ないというよりはギフト経済とか吉本隆明とか、ひと昔もふた昔も古い思想に染まっているようで、内向きな脆い自尊心で身を固めている文学少女と似たにおいがした。軽い気持ちでブログを見せたら、急に様子が変わって、「女性はプライドと卑屈の生き物です」と激おこになってしまった。いっぱしのことを言うくせに大したものを創造できないのには、ぼくの方に一日の長があるんだよと自嘲的自慢を独白したものだった。
前回の記事の中で最近の小説を酷評したが、ハインラインの『夏への扉』はすばらしい作品だった。福島正美の翻訳の功績もあるのか、スピード感があって無駄のない文章、タイトルに向かって収斂していくプロット、時間を行き来するストーリーを必然と感じさせる語り口などなど、書き手としても至福の時だったんじゃないかと想像された。人物造形に無理があるとか、ロリータ願望を具現化したご都合主義だといった批判はできるだろうけど、それがなんだろう。美人で性格のひどい女に幻滅し、母性を秘めた幼女を追い求めるのは若紫コンプレックスと言うべきもので、永遠の物語、神話的魅力があるのだ。つまりありがちなテーマを息もつかさず読ませるからこそ傑作なのだが、その秘訣は誰にもわからない。書く側はひらめくとか降りて来るという正に霊感だと思っているようだが、勘違いも多いし、そもそも探して出て来るものでもない。それがさっきの苦吟するアーティストと同様なのだろう。
ここまで書いてきて、ふと女性からは総すかんを食うような気がした。「あんたって、真夏に雪が降らないかなって空を眺めてるようなお子ちゃまじゃないの? 理解できることと創造できることは天と地ほどの違いがあるの! いくらだし巻き卵やエクレアが好きだからって作るのにはトライ・アンド・エラーに耐える気力が不可欠だっての。修業しないでパティシエになれるわけないのはわかるよね? だのに芸術ってなると勘違いするのかなぁ。…ほら、ちょっと現実を突きつけただけで扉の向こうに逃げ出そうとしてるし」とでも雷を落とされそうだ。庄司薫流に「若紫ちゃん慰めて」と泣きつきたくなるけど、脳みそのほかの部分では「小説って芸術なの? なんか薫大将みたいに出自があやしくない?」という年来の疑問が湧いてくるのだった。