夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

フェルメールとオランダ風俗画

2007-11-19 | art
 新国立美術館に「フェルメール『牛乳を注ぐ女』とオランダ風俗画展」を見に行きました。これはアムステルダム国立美術館の所蔵品から17世紀から19世紀にかけてのオランダの風俗画と工芸品を持って来たものです、「牛乳を注ぐ女」と関連する絵画を見るという意味で勉強になりました。展覧会のカタログとアムステルダム国立美術館のサイトを参考にして少し書いてみます。



 フェルメールの作品を見る前にオランダ風俗画について知るために同時代の作品を見ておきましょう。まずヤン・ステーンの「二種類の遊び」(1664)です。バックギャモンで表される賭け事と女将に戯れる老人で表される色事が描かれているのはすぐにわかります。バックギャモンは怠惰と愚行の象徴といったところで、ゲームに熱中して立ち上がった男が座っていた椅子が手前に転がっています。そのそばで下腹部をなめる犬は淫蕩を象徴し、老人を拒んでいる女将が実はその気がないこともないことを表わしています。彼女の赤いストッキングはしばしば娼婦が身に着けたもので、パイプの置かれた火鉢も情熱や性愛的な意味を持っています。


 
 次はハブリエル・メツーの「猫の朝食」(1662-64)です。気だるい表情で猫にエサをやる女性が描かれていますが、この行為自体が当時としては贅沢なものです。その金銭的な余裕の背後には富裕な愛人がいて、花瓶の花は贈り物なんでしょう。前面の雄鶏にはエロティックな意味合いがあるのでそれを裏書します。しかし、結婚や婚約を象徴する撫子が散っていることから彼女の恋愛の先行きも暗示されています。

 こうやって解説すると当時の風俗画が絵解きを促すものであるということがわかるでしょう。絵画のアレゴリー(寓意的)についてはペレダの「虚しさの寓意」やフェルメールの「画家のアトリエ」について書いた時に紹介しましたが、その起源は聖書の場面をモチーフにした宗教画にあるんでしょう(その例としてはノリタンを元にいろいろ書いたものを見てください)。つまり宗教画から宗教色を抜いて(ただ道徳的お説教のにおいはあります)、お話を背後に持ったものが当時の市民階級に好まれたんでしょう。我々は良かれ悪しかれ印象派の美意識に支配されているところがあって、「美しいものは美しい、意味なんかない」と知的アプローチを拒否して主観的に見るのを良しとしがちですが、多くの絵は客観的な意味を持っています。



 そこでフェルメールの「牛乳を注ぐ女」(1658-59)ですが、見た人の多くはこの名作が小さいことに意外な思いを抱いたことでしょう。この展覧会の絵は多くが小さいもので、ルーベンスが王侯貴族のために描いた巨大な作品とは問題になりません。絵の大きさは値段や飾る部屋の広さと関係しますから、買ってくれる人の経済力に比例するはずで、この展覧会にもいくつか小さなエッチングが展示されていたレンブラントの「夜警」が大きいのは組合員の共同出資だからです。

 この女中はパンをちぎって壷に入れ、ミルクを注いで真鍮のポットの中のビールを加えて発酵させるパン粥を作っているという説があるそうです。これはかなり本当らしく思えます。また右の床に置かれたのは火鉢で、その後ろのタイルにはキューピッドが描かれているのでやはり性愛的意味合いを読み取ることができます。ただどうもこの名画の宗教性さえ感じさせる気品のせいなのか、そうした見方は曖昧に否定されることが多いようです。さらに緑のクロスが掛けられたテーブルの形はよく見ると奇妙ですが、これは八角形のものを半分に畳んだのではないか。

 このように個別的には興味深い発見はあるんですが、これらを統合して先に見た絵のようにすっきり解釈することはむずかしい感じです。フェルメールの絵がただ単に美しいだけでなく何らかのアレゴリーを含んでいるのは間違いないと思うんですが、同時に答は隠されているようです。謎めかしてはぐらかすような、誘いながら拒むような。それは容器や籠が質感まで緻密に描かれながら、女中の表情を影に沈め曖昧になっているのと対応するかのようです。



 フェルメールの二重性を明らかにするために19世紀の作品を見ましょう。最初はヤーコブ・マリスの「窓辺の少女」(1865-75)で、パリに暮らし、コローやミレーといったバルビゾン派の影響下に窓辺で女中が休息を取っているところを描いています。素早く荒いデッサンに絵の具を載せたような筆致はドガを思わせるものがあります。



 ニコラス・ヴァーイの「アムステルダムの孤児院の少女」もやはり窓からの光に浮かび上がる少女の絵で、赤、黒、白の制服はアムステルダムの市立孤児院のものです。画面全体の処理は印象派的ですが、少女の胸から顔にかけてはロマンティックな甘い気分が漂っています。どちらの絵もふと目にした光景をそのまま描いたスナップショットのような趣きが見る者との距離を感じさせないもので、謎めいたところはもちろんアレゴリカルなところはありません。例えば孤児院にいる少女がどんな本を読んでいるのか、まあ聖書かなくらいの想像しかできませんし、マリスの少女に至ってはなぜ物思いに耽っているのか想像する術はありません。そうではなく画面から感じ取れる感情というか気分がこれらの絵の魅力であったはずです。こう考えるとフェルメールの絵は同時代の絵とも後の時代の絵とも共通する要素を持ちながら、それらには還元できない独自の特徴を有しているようです。


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なんかいろんなものがあるサイトです。

なんかいろいろしゃべります。



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
「牛乳を注ぐ女」 (ぽけっと)
2007-11-26 21:02:42
昔から大好きな絵なんですが、夢さんの記事を読んでその理由がちょっと分かったような気がしました。
実はトリッキーなことをいろいろやっているのに、普通に聴く限りは実に自然に流れて行く、モーツァルトの音楽のような絵なのかな、と思いました。
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わかりたいですよね (夢のもつれ)
2007-11-26 22:42:16
フェルメールの絵ってなんにもむずかしいことはなさそうなのに理解しようとすると途端にわかんなくなっちゃうみたいです。「そこが魅力だ」と言ってしまうと簡単ですが。

……モーツァルト、うんホントにそうですね。そう言われるとますますわかりたいですね
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