夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(49)

2005-11-14 | tale

 8月の旧盆前から、ついに栄子の最期の時が近づいてきた。塗油の秘跡が例の日本人神父を呼んで行われた。信者として死を迎える以上、好悪を言うわけにもいかないのだ。集中治療室に移され、いよいよ今夜かという夜が何回となくあった。そのたびに医師や看護婦がざわざわと現われ、治療が行われ、持ち直す。

「もう、楽にしてあげて」という光子の声は家族、親族全員の気持ちを代弁していた。栄子の意識は混濁していたが、時々はっきりして枕元の宇八か、輪子に何ごとか呟くように言うことがあった。「痛い、身体中が痛い」とか、口や腕に何本も付けられたチューブを引っ張って、「こんなの取って」とか。

 宇八は看護婦を廊下でつかまえて頼んだ。
「なんとか、痛みだけでも、少しましになりませんか?」
「わたしたちも、一生懸命やっているんです」
 そう言って、すぐにナース・ステーションの方へ行ってしまった。宇八は怒りに震えそうになっていた。『わたしたちも、一生懸命やっているんです』? 当たり前じゃないか。カネをもらって働いているんだろ、ふざけるな。ラーメン屋のおやじ、喫茶店のウェイトレス、ホテルのボーイ、なんでもいい、そういう奴らが客にそんなことを言えば笑われるだけだ。『わたしたちも、一生懸命やっているんです』、ああそうかい、でもあんたのところのラーメンはまずい、コーヒーはぬるい、バスの湯は出ない。悪いな、他へ行くよ。この病院では医者がいちばん偉いんだ、次は看護婦だ。患者や家族は牧場の羊みたいなものなんだろう。さあ7時だ、起きろ。さあ12時だ、飯だ。さあ、次は便だ。……栄子、こんな病院に入れてごめんな。

 以前なら、そうした怒りを誰かにぶつけるところだが、今の彼にはできなかった。彼は以前より無口になっていた。食欲も、栄子が発病してもしばらくは衰えなかったのに、ここのところ落ちていた。その代わり奇妙な行動が目についた。例えば病院の階段の踊り場でメジャーを持って、何か測っている。
「何をしているんだ?」と仲林欽二が声をかける。 
「いや、棺桶があんまり大きいと、ここで引っかかってしまうんじゃないかと思って」
 長い付き合いで、宇八が変なことを言ったり、したりするのは慣れていたが、その妙な生真面目さと少しもつれたようにゆっくりと言う調子に気味悪さを感じた。そこに若い看護婦が来て、言葉を掛けた。
「羽部さん、エレベーターで運ぶから大丈夫って言ったでしょ」
 そう言われると、「そうだった」とぶつぶつ言いながら、欽二を置いて階下へ降りて行った。そのやり取りからここでは少しボケた老人として扱われているらしいことに、欽二は再びショックを受けた。

 しかし、宇八は栄子の治療に関しては、強い意志を終始保っていた。抗ガン剤や放射線治療の使用は、最初から拒否していたが、最期が近づいてからも人工呼吸器などの無理な延命治療は受け容れなかった。彼としては、一つ一つの治療、投薬について目を光らせておきたいくらいだったのだ。蝶ヶ島はその考えをかなりの程度理解し、尊重してくれた。それは単に何をしても、あるいはしなくても同じだからということかもしれなかったが。

 その日、前の晩に「じゃ、寝るわ」と言ってから、意識がなくなっていた栄子は、呼吸も次第に浅くなっていき、集中治療室に置かれた種々のモニターの数値も低下していった。……もう呼吸はしているのか、していないのかわからない。モニターが発する電子音も間隔が空いてくる。……脈を取っていた蝶ヶ島が時計から目を離した。
「16時12分、ご臨終です」
 そう言って、少し頭を下げて出て行った。輪子が栄子にすがって泣き崩れる。宇八は茫然としながら、全体を見ている。看護婦がてきぱきとチューブを外し、機器を片付けていく。

「ご遺体をきれいにしますから」と言われて、部屋の外に出る。
 まるで正月だ。はい午前0時になりました、新年ですよ。正月ですよ。寝て起きて朝になんなきゃ、その気になれない。あれと同じだ。変な連想をしてしまうことで、自分が動揺していることを宇八は自覚した。

 集中治療室の区画の向こうに親戚が何人もいる。そっちへ輪子の肩を抱いて行くと、達子や光子は気配を察して、早くもわあわあ泣き出している。
「16時12分だった。今、きれいにしている」

 それで十分だろう。誰かタバコをくれないか?ズボンのポケットを探るとタバコの空箱と紙が出てきた。なんだ? ああ、あいつに歌ってやろうと思って、コンムニオの歌詞だけ書き写してきたんだ。忘れてしまったな。そんなことを考えながら、なんの意味もなく歌詞を目で追うと、自然と自分が作曲した旋律が頭の中に流れ、3行目まで進んだところで、涙があふれ出すのを止められなくなった。


     COMMUNIO

  Lux aeterna luceat eis, Domine:
  Cum sanctis tuis in aeternum, quia pius es.
  Requiem aeternam dona eis, Domine, et lux perpetua luceat eis.
  Cum sanctis tuis in aeternum, quia pius es.


     コンムニオ

  主よ、彼らを永遠の光で照らしてください、
  永遠に生きるあなたの聖人たちとともに、慈悲深い主よ。
  彼らに永遠の安息を与えてください、主よ、彼らを永遠の光で照らしてください。
  永遠に生きるあなたの聖人たちとともに、慈悲深い主よ。


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