夢のもつれ

なんとなく考えたことを生の全般ともつれさせながら、書いていこうと思います。

ジャパン・レクイエム:Requiem Japonica(45)

2005-10-31 | tale

 昨年入院した時は、達子や光子はすぐに見舞いに来たが、2度目ということもあって(輪子は父親に言われたように言うことができた)、1週間以上経ってから見舞いに来た。ただ前回とは違う姉の様子、特に肉が落ち、顔色が妙に黄色いことに驚き、病室を出るなり、達子は地下の喫茶店に、光子は薬局の前の長いすに、宇八を引っ張って行って詰問した。やはり姉妹というものは、同じような反応をするものだと彼は感心した。その時には、蝶ヶ島からもう少しはっきりとしたこと(膵臓ガンの確定診断と転移の可能性が高く、切除手術は勧めない)を独りで聴いていたが、まだ栄子や輪子にどう対応するかも整理がつけられないでいたので、ふだんと同じような何も気にしていないような態度しか取れなかった。

「医者ははっきりしないと言うばかりで、どうしようもないんだな」
「でも、あの様子はふつうじゃないわ。わかるのよ、絶対おかしいわよ」
「まあ、死ぬ時は死ぬんだから」
「そんなこと言って、お義兄さんは。……いいわ、直接お医者さんに訊くわ」
「おんなじだよ。誰が訊いても」
「……病院変えたら?もっといい病院で、ちゃんと診てもらって」
「あいつは変わりたがらないんだな」

 達子も光子も宇八に憤激しながら帰って行った。その夜、光子の夫の薫から抗議の電話が掛かってきた。うんざりしながらも、初めは昼間のようにのらくら説明していたが、薫の方が怒気を含んで、
「血のつながった妹が心配してるんでしょう? もう少し言い方ってもんがあるでしょうに」と言うので、宇八も腹が立って、こう言って電話を一方的に切った。
「そんなに心配なら、全部引き取って、面倒見てくれ」

 義妹たちは、本当の病名、状況を聴いたら、どれほど動揺し、騒ぎを起こし、不用意なことを言って、あいつの気持ちを乱すことだろう。そのために輪子は倒れてしまいかねない。そうしたことは、彼女たちの両親の死に際の様子で見当がついていた。ああ、この姉妹はこういう時には本当に子どもになってしまうんだ、70を過ぎた親の死を身も世もなく悲しめるのは、一体どうしてなんだろうと思ったものだった。稔や攻治のようなませた、人の死について想像力を欠いた甥たちの嘲笑の的にさえなっていた。だが、宇八の予想は間違っていた。かなり後になって栄子の病状を伝えた時も、栄子が死んだ時も、達子も光子も比較的冷静だった。そう助からないの? 死んじゃったの? でも結婚しちゃえば姉妹と言っても、他人のようなものだから。表向きの反応とは裏腹にそういう気持ちが透けて見えた。……
 彼女たちは、隠し事をされたから、好奇心が満たされなかったから、騒いだのだろう。ただ、彼は彼女たちのことを悪く思ったり、憎んだりしていたわけではなかった。順序が違えば栄子だって同じようなものだったのは明らかだったから。

 宇八と輪子には次第に疲労とストレスが溜まっていった。こうした親戚を始めとする見舞い客への応対、疑心暗鬼にとらわれ始めた栄子への対応、入院費用の工面、病院側とのやり取り等々。輪子はまだ高校生だが、このまま卒業しても進学はおろか、就職もあまりいいところが見込めるわけでもないから、適当な時期に退学してもいいと言い出していた。学費を心配しているのか、栄子の看病やらなんやらで忙しいのでそう言っているのか、宇八にはよくわからないし、何がなんでも卒業しろ、就職しろと言えるような親でもない。……母さんは卒業してほしいだろうなとしか言えなかった。
 栄子にガンだと言った方がいいのか、悪いのか、副作用の強い抗ガン剤や放射線療法を使うのか、使わないのか(効き目はそう期待できないということだ)、そういうむずかしい選択を病院側はこちらに投げかけてくるくせに、面会時間とか、食事とか、入浴とか、衣類の洗濯とか、細々とした、しかし長く入院する患者と家族にとって大きな影響のあることがらは、病院の決まりですから、主治医の指示ですからと言って、向こうの都合を押し付けてくる。肝心の蝶ヶ島は2、3日に一度、少し顔を見せて、お変わりないようですねと言って去って行く。要は病院は、管理する客体としてしか、患者とその家族を見ていないのであった。

 3月の終わり頃、栄子は自分が死の床にいることになんとなく気付いているようだった。肝機能の低下による黄疸がひどくなって、開腹手術をして胆汁を出す前がいちばん苦しそうで、死にたい、死にたいとうめいていた。しかし、それは本心ではないだろうと宇八は思っていた。痛みや苦しみは取り除いてほしい。取り除かれれば自分はもとの自分に戻れる、この生をもっと味わえる。もう輪子も父親に病名を教えてくれとは言わなくなった。我々3人は、死を受け容れる準備が整ってきたということなのか、この先に何があるんだとわずかに怒りを込めて思った。

 開腹手術後、一週間ほど経って少し楽になった頃に、自宅に2泊3日で帰ることができた。タクシーの座席では手術痕が痛むらしく、時折顔をしかめていたが、窓の外を見ながら、「桜、もう終わっちゃったのねえ」と繰り返し言った。
 アパートに戻ると部屋の片付けをしたいと言う栄子をなだめて、取りあえず寝かせた。輪子に「高校は卒業しなきゃダメよ」と言うと、「うん。月子姉さんもそう言ってたから、ちゃんと行ってるよ」と返事があった。父親が知らない間に話をしたのだろう。
 宇八は自宅で言おうと思っていたので、翌日の昼間、調子がいいと起き上がっていた栄子に声を掛けた。努めて冷静に想像を交えずに、医者から聴かされていることをゆっくりした口調で説明した。それを聴き終わると、黙って聴きながら涙ぐんでいる輪子の頭を撫でてから、少しだけ独りにしてほしいと言った。心配そうな顔をしている輪子に、「イエス様にお祈りするだけだから」と言って、このところずっと握りしめているロザリオを示した。めったにしない正座をしていた宇八は足が痺れたのか、立ち上がる際によろめいて、そのまま倒れてしまった。輪子に手を引っ張ってもらって、すぐに立って、一緒に道路まで出た。

 タバコの煙がしたたるような新緑に上っていく。
「お母さん、ダメなの?」
「まあ、そうだろうな」
「あたし……そんなのいやだ」
 そういう返事のできないことを言われても困るんだよなと、彼は思っていた。誰が母親が死ぬのがいやでないものか。ましてや栄子はまだ56、輪子も17だ。しかし、世の中にはもっと若くして母親を亡くす奴もいる。おれみたいに。
 彼の母親は彼が14歳の時に結核で死んだのだった。そのずっと前から療養所を出たり、入ったりしていたので、印象が薄かった。すらっとしたきれいな、でも青白いさみしそうな顔の人という記憶で、みんなが言うおふくろというのとは違うのだろうと思う。幼い頃から祖母が母親代わりだった。よく面倒は見てくれたが、口うるさいばあさんが嫌いだった。紘一はどうだったのだろう。お利口さんだったからなあいつは。……おやじだって、マッカーサーが日本からいなくなるのと同じ頃に死んでしまった。そうだ、あいつと結婚というか、駆け落ちする時も、両親ともいないから気楽ですよとか言って、口説いたんだ。そしたらあいつ、おかしそうにけらけら笑ってた。あいつだって変わってるよ。……

 こういう時にルーカス神父がいてくれたらと我々も思う。あの教会には日本人神父が着任していた。栄子は(宇八もそうなのだが)どうも性が合わなくて、段々に教会に行かなくなっていた。取り澄ましたところとか、押しつぶしたような声とか、人と目を合わせないとか、そういう個々の理由を挙げても仕方がないだろう。相性の問題であり、信仰とはそれで決まるのだ。教会に行かなかったからと栄子の心の負担になっていた。
 20分ほどして部屋に戻った。赤い目をしていたが、泣いてすっきりしたという顔をしていた。やつれた顔は覆い隠しようもないが。
「ごめんなさいね。さあ、もう大丈夫だから。イエス様にお任せしたから。あたしのお葬式の時には、お父さんのレクイエムを演奏させてあげるわ。初演が奥さんのお葬式なんていいじゃないの……」
 そんなふうに陽気に次から次へとしゃべるのを相手しながら、宇八は水がいっぱい入ったコップのようだと感じている。少し振動を与えると感情が崩れ、涙がこぼれ落ちる。
 やがて栄子は疲れたのか、眠りに落ちる。静かになった部屋の中で、輪子の控えめなため息が聞こえる。……

 こうしたことが何回か繰り返されて、栄子は病院に戻って行った。最後の頃はあんなところだが、早く病院に戻った方が気が楽だとお互い密かに思っていたが、夕方病院のベッドで別れた後は、もう一度自宅に帰れる機会があるのだろうかとお互い考えていた。


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