日本聖書学研究所では、研究所の運営に役員として貢献してこられた方々の定年退職を記念して献呈論文集をたびたび発行してきました。今年は、立教大学の佐藤研、同じく月本昭男両教授が2014年3月に、そして東京女子大学の守屋彰夫教授が2015年3月に退職されるということで、研究所の紀要『聖書学論集』46号が献呈論文集として発行されることになりました。定年自体は研究所と直接関わりのない事柄ですが、研究人生における節目ということで、研究所からも謝意を表わすという意味が込められています(お三方とも献呈論文集を固辞されたそうですが)。
この献呈論文集には、旧約関係16本、新約・初期キリスト教関係18本の論文が収められています。私もヤコブ書に関する論文を寄稿しました。
目次を載せておきましょう。旧約関係は以下の通りです。
そして(旧約の残り1本と)新約・初期キリスト教関係。
旧約関係はまだ読んでいないのですが、新約関係には、さすがは日本聖書学研究所の献呈論文集と思わせる、批判的な調子の強い論文もあり、読んでいて緊張感漂う論文集になっています。昨今激しく議論されている、「キリストのピスティス」という表現の意味をめぐる論考が2本も同時に載っているというのも興味深いところです。太田修司氏の「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か」は、田川建三氏の所説を「思い込みに引きずられた誤り」(481頁)として激しく批判しつつ、「目的語的解釈(=キリストを信じる信仰)か主語的解釈(キリストの信仰ないしは信実)かという二者択一はもはや意味をなさない」(493頁)として、これを関係概念とする「全体論的解釈」を提示しています。他方吉田忍氏の「ガラテヤ人への手紙におけるΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ」は、ガラテヤ書におけるピスティスは「『誠実』や『保証』などではなく『信(じること)』『信頼』『信用』である。(中略)即ち、人は『信 pistis」において義とされたキリストと一致することで、キリストと同様にみずからも「信 pistis」によって義とされ、約束された霊を受け取る。このことから、問題の属格は主語的属格と理解される。そして、キリストにおいて現れた「信 pistis」は、十字架において現れたのである」(673-4頁)と結論づけています。
このほかにも色々と、注を読むだけでも楽しい、批判的聖書学のあり方を見せてくれるような力作が並んでいます。全体で725頁もあって重いため、移動中に読むのが不便なのと、定価が8000円+税というのもネックではありますが、少しずつ読んでいくつもりです。旧約関係の論文も、専門外ではありますが面白そうなタイトルが並んでいます。
この献呈論文集には、旧約関係16本、新約・初期キリスト教関係18本の論文が収められています。私もヤコブ書に関する論文を寄稿しました。
目次を載せておきましょう。旧約関係は以下の通りです。
そして(旧約の残り1本と)新約・初期キリスト教関係。
旧約関係はまだ読んでいないのですが、新約関係には、さすがは日本聖書学研究所の献呈論文集と思わせる、批判的な調子の強い論文もあり、読んでいて緊張感漂う論文集になっています。昨今激しく議論されている、「キリストのピスティス」という表現の意味をめぐる論考が2本も同時に載っているというのも興味深いところです。太田修司氏の「『キリストのピスティス』の意味を決めるのは文法か」は、田川建三氏の所説を「思い込みに引きずられた誤り」(481頁)として激しく批判しつつ、「目的語的解釈(=キリストを信じる信仰)か主語的解釈(キリストの信仰ないしは信実)かという二者択一はもはや意味をなさない」(493頁)として、これを関係概念とする「全体論的解釈」を提示しています。他方吉田忍氏の「ガラテヤ人への手紙におけるΠΙΣΤΙΣ ΧΡΙΣΤΟΥ」は、ガラテヤ書におけるピスティスは「『誠実』や『保証』などではなく『信(じること)』『信頼』『信用』である。(中略)即ち、人は『信 pistis」において義とされたキリストと一致することで、キリストと同様にみずからも「信 pistis」によって義とされ、約束された霊を受け取る。このことから、問題の属格は主語的属格と理解される。そして、キリストにおいて現れた「信 pistis」は、十字架において現れたのである」(673-4頁)と結論づけています。
このほかにも色々と、注を読むだけでも楽しい、批判的聖書学のあり方を見せてくれるような力作が並んでいます。全体で725頁もあって重いため、移動中に読むのが不便なのと、定価が8000円+税というのもネックではありますが、少しずつ読んでいくつもりです。旧約関係の論文も、専門外ではありますが面白そうなタイトルが並んでいます。