別に宗教改革の専門家なわけでもなく、フスに特別な思い入れがあるわけでもないのですが、1度目は建物の前を素通りしてしまい、2度目は町のホームページに騙されて閉館時間に行ってしまったとあっては、コンスタンツのフス博物館を見ないで日本に帰るわけにはいかなくなり、ついにリベンジを果たしてきました。
ヤン・フスはボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方)出身のカトリック祭司にして宗教改革者。ボヘミア南部のフシネツ (Hussinetz) が生地であることから、フシネツ(省略形:フス)のヤン (Jan。Johannes とか John と同じ)と呼ばれたそうです。1369年の生まれと言われていますが、実際の生年はもっと遅いという話。
聖職者であり、またカルル大学(プラハ)の総長も務めたヤン・フスは、ローマ・カトリック教会を厳しく批判したために1411年に破門、コンスタンツ公会議(1414~18年)で自身の見解を述べるためコンスタンツへと赴きましたが、捕らえられ、公会議では有罪の宣告を受け、1415年7月6日に焚刑に処せられました。
コンスタンツのフス博物館は、フスがコンスタンツに来て、捕らえられるまでの短い期間に住んでいた家を使っています。1923年以来、プラハのフス博物館協会が所有しているとのこと。普通の家と見間違うような入口を入ると、左側に係の男性が何も言わずじっと座っています。なんとなく気まずい感じで、思わず「見て回ってもいいですか?」と尋ねると(博物館なんだから当たり前だろうとは思いつつ)、「どうぞ」とのこと(入場は無料)。まず1階の部屋を覗くと、暗い中に置かれたショーケースに、フス関係の文献が並べられていました。その中に、日本語の本(プラハの異端者たち: 中世チェコのフス派にみる宗教改革 /薩摩秀登著)もあったのでちょっとびっくり。解説が付されており、「日本ですら(!)フスの研究がなされている」ですって。
2階はいくつかの部屋があり、プラハに焦点を置いた部屋、フス自身に関する部屋、コンスタンツ公会議の部屋、フス派とフス戦争を扱った部屋などに分かれていました。上の写真は、フスに関する部屋に置かれていた胸像です。
子どもたちにはまったく興味が湧かない場所だったようで(そりゃそうでしょうけど)、早々に引き揚げる破目に。宗教改革を子どもに説明するのは結構大変です。
帰り際に、係の男性(チェコ人でした)と少ししゃべったのですが、尋ねれば色々教えてくれるけれど、最初に説明をしてくれるでなし、詳しいガイドブックがあるでもなし(最後に簡単な説明プリントを1枚もらったので、ようやく展示全体が理解できたくらいです)、なんとも愛想のない博物館ではありました。
別に、コンスタンツの町がフスを迫害したわけではないにせよ、このような、コンスタンツにとってはあまりにも気まずいはずの出来事を記念する博物館が堂々とここにあるというのは不思議な気もします(所有しているのはチェコですが)。博物館の前の通りは、結構人通りもある旧市街なのですが、フス通りという名前がついていました。教会の見解に異を唱える人間を火あぶりにしてしまうという、なんともおぞましい出来事の「記念」から、どういう意味を読み取ればいいのか……。考えさせられる博物館です。
ヤン・フスはボヘミア(現在のチェコの西部・中部地方)出身のカトリック祭司にして宗教改革者。ボヘミア南部のフシネツ (Hussinetz) が生地であることから、フシネツ(省略形:フス)のヤン (Jan。Johannes とか John と同じ)と呼ばれたそうです。1369年の生まれと言われていますが、実際の生年はもっと遅いという話。
聖職者であり、またカルル大学(プラハ)の総長も務めたヤン・フスは、ローマ・カトリック教会を厳しく批判したために1411年に破門、コンスタンツ公会議(1414~18年)で自身の見解を述べるためコンスタンツへと赴きましたが、捕らえられ、公会議では有罪の宣告を受け、1415年7月6日に焚刑に処せられました。
コンスタンツのフス博物館は、フスがコンスタンツに来て、捕らえられるまでの短い期間に住んでいた家を使っています。1923年以来、プラハのフス博物館協会が所有しているとのこと。普通の家と見間違うような入口を入ると、左側に係の男性が何も言わずじっと座っています。なんとなく気まずい感じで、思わず「見て回ってもいいですか?」と尋ねると(博物館なんだから当たり前だろうとは思いつつ)、「どうぞ」とのこと(入場は無料)。まず1階の部屋を覗くと、暗い中に置かれたショーケースに、フス関係の文献が並べられていました。その中に、日本語の本(プラハの異端者たち: 中世チェコのフス派にみる宗教改革 /薩摩秀登著)もあったのでちょっとびっくり。解説が付されており、「日本ですら(!)フスの研究がなされている」ですって。
2階はいくつかの部屋があり、プラハに焦点を置いた部屋、フス自身に関する部屋、コンスタンツ公会議の部屋、フス派とフス戦争を扱った部屋などに分かれていました。上の写真は、フスに関する部屋に置かれていた胸像です。
子どもたちにはまったく興味が湧かない場所だったようで(そりゃそうでしょうけど)、早々に引き揚げる破目に。宗教改革を子どもに説明するのは結構大変です。
帰り際に、係の男性(チェコ人でした)と少ししゃべったのですが、尋ねれば色々教えてくれるけれど、最初に説明をしてくれるでなし、詳しいガイドブックがあるでもなし(最後に簡単な説明プリントを1枚もらったので、ようやく展示全体が理解できたくらいです)、なんとも愛想のない博物館ではありました。
別に、コンスタンツの町がフスを迫害したわけではないにせよ、このような、コンスタンツにとってはあまりにも気まずいはずの出来事を記念する博物館が堂々とここにあるというのは不思議な気もします(所有しているのはチェコですが)。博物館の前の通りは、結構人通りもある旧市街なのですが、フス通りという名前がついていました。教会の見解に異を唱える人間を火あぶりにしてしまうという、なんともおぞましい出来事の「記念」から、どういう意味を読み取ればいいのか……。考えさせられる博物館です。