チューリヒ、そして広島

スイス・チューリヒに住んで(た時)の雑感と帰国後のスイス関連話題。2007年4月からは広島移住。タイトルも変えました。

【最終回】 もっとイースター

2005年03月21日 01時13分44秒 | Weblog
リヨンから来た同僚氏夫妻(昨日の記事ご参照)は、テレビや電子レンジ、プリンターなど一切を引き取ってくれた上に、家の掃除まで手伝ってくれました。レンタカーの後部座席いっぱいの荷物と共にリヨンへ帰っていった二人。本当にありがとうございました。

今年はイースターの来るのが早いので、それに応じて街の飾りつけも早くからイースター向けに。バーンホーフ通りにはミグロが大きな広告を出しています(上の写真)――「もっとイースター」。

実際、同じ気持ちです。もっとイースター。イースターに向けたこの明るい、春を満喫する雰囲気をもっと味わっていたい。先週から見事に気温が上がると、町は一気に楽しい空気に包まれました。こんなときに帰らねばならないなんて。日本の春ももちろん好きだけど、長く我慢して待ち続けた春がようやくやって来た!という喜びが本当に感じられるスイスのこの春を、今はもっと楽しんでいたいと心から思います。

昨日、同僚氏夫妻と街を散歩していて見つけた「イースターのうさぎ」。シュプリュングリのショーウィンドウに飾られていたチョコうさぎなのですが、
 お値段なんと720フラン(6万5000円弱)。

どういう人が買うのでしょうか? それともジョーク?

復活祭をなぜドイツ語で Ostern と言うかについては諸説ありますが、一説には、ゲルマン神話における曙光・春・豊穣の女神 Ostara から来ているとのこと。イースターはイエス・キリストの復活を祝う宗教的祭であるわけですが、それ以上にと言ってもよいくらい、暗くて寒い冬からの解放と春の到来を告げる喜びの祝祭であることが、スイスに来るたびに強く感じられます。これは、冬も晴天が続き、気温もそれほどひどく下がらない阪神間に住んでいるとわからない開放感です。

いつかまた、僕たちもスイスの地に「復活」できるときが来るでしょうか。その希望を持ちながら、今は日本に戻ることにしたいと思います。スイスで出会った全ての人、スイスで経験した全てのこと、スイスでの素晴らしい日々を共有できた家族に感謝して。(完)

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昨年9月から続けてきた「チューリヒ日記2004/5」、大学の在外研究期間を終えて帰国するのに伴い、今回をもって終了とさせていただきます。コメントを下さった方々、トラックバックをはって下さった方々、そしてこっそりご愛読くださった方々、どうもありがとうございました。


帰国手続き

2005年03月20日 07時09分56秒 | Weblog
昨年8月からの在外研究もいよいよ終り間近となり、帰国のための手続きをする毎日です。

たった7ヶ月半とはいえ、異国の地に張った根はあちこちに広がっており、その根を抜くには色々と手間がかかります。

まずは役所の手続き。滞在許可を得るには実にいろいろ面倒な書類を作らせ、法外とも思える手数料を2度にわたって取っておきながら(詳しくはこちら)、転出届けは実に簡単で、心なしか窓口のおじさんも親切でした。出て行く人は歓迎(?)という雰囲気だというのは邪推、でもなさそうな。滞在許可申請の役所(住居区域ごとに細かく分かれている)と転出届を出す役所(Stadthaus)が全然違う場所にあるというのも、不親切な気がするのですが。

転出届を出したすぐその後で、ADSL の契約解除手続きをしに、電話会社 Swisscom に出かけました。ADSL の契約は12ヶ月以上しないといけないので、実質7ヶ月しか使っていないにもかかわらず12か月分の料金を払う破目になる覚悟をしていたのですが、中央駅構内にある Swisscom の店舗で相談したら、海外に転出する証明書を添えて解約申し込みをすれば、1年以内でも解約できるという説明。あわてて役所に戻り、証明書を作ってもらいました。この証明書発行に手数料20フラン(約1800円)も取られたのですが(ヒドい話だとは思うけどこの際仕方ない)、とにかくそのおかげで無事解約手続きはできました。

一番手間もお金もかかったのは、やはり引越です。日本から来るときは、全部郵便小包で送りましたが、さすがに本をはじめとする荷物が増えてしまい、帰りは引越屋さんを利用することになりました。

前回も前々回も利用したインターディーンという引越屋さんを今回も使うことに。チューリヒのインターディーンには、Wittlin-高部さんという日本人女性が勤めておられ、彼女を通して日本語で事が運べるので、何かと助かります。高部さんと連絡を取りたい旨、会社にメールを送ったら、すぐにご本人から電話がありました。

インターディーンは、日本語でいけるというほかにも、他社と比べて料金が安めなことも利点の一つです。日本ではヤマト運輸が荷物を引き受けて配送してくれることになっています。高部さんとも常にメールや電話で連絡が取れ、ドイツ語で尋ねるのは面倒臭いような細かい疑問もできるのが安心です。

予め配達してもらっていた段ボール箱はじめ梱包材料であらかたのものを梱包しておけば、実際の運び出しは簡単です。23箱プラスαの荷物でしたが、作業員一人だったにもかかわらず、ものの30分ほどで全部トラックに積み込んで行きました。ダンボール箱のなくなったチューリヒの家は広く感じられるようになりましたが、あの箱全部が日本の狭いアパートに来るのかと思うと、ぞっとします。

大学関係の後始末は非常に簡単でした。借りていた本を返却し、建物の鍵を返却した後、秘書の Ziefle さんに挨拶して終り。学部長にも本当は挨拶すべきだったのですが、うまく会うことができませんでした。メールでお礼を言うことにします。

テレビや電子レンジ、プリンターといった道具は、リヨンからはるばる同僚氏夫妻が引き取りに来てくれました。今日の午後チューリヒに着いた二人と一緒に、チューリヒの町を散歩し、旧市街のレストラン Swiss Chuchi でラクレットやフォンデュといったチーズ料理を、スイスワイン2本と共に腹いっぱい食べました。もちろん妻とガキどもも一緒です。

一つ一つの手続きや作業が済むたびに、安堵の気持ちと寂しさとが交錯します。出来ることならもっとゆっくり滞在して、屋外でビールでも飲みながら、この心地よい春の日を満喫したいというのがやはり正直なところです。しかし、帰国の日はいよいよ目の前に迫ってきました。

(次回、感動の最終回。)

3人の卒業式

2005年03月19日 06時17分28秒 | Weblog
勤務先の大学でも今日は卒業式で、3700人余りが大学を巣立っていったそうですが、僕が今年出席したのは、子どもがお世話になった日本人学校の卒業式でした。

日本人学校は小学部と中学部に分かれているのですが、両方併せた生徒数が30名足らず。今回は、小学部の卒業生はなし。中学部が3名。その3名を、小学部1年生から中学部2年生まで全員で送り出します。自分の子どもが卒業するのでなければ、親が卒業式に参加するなんてことは日本の多くの小学校・中学校ではないと思いますが、ここでは、卒業する3名の両親以外の保護者も出席します。ということで僕も、自分自身が生徒だった時以来、本当に久しぶりで小学校(と中学校)の卒業式に参加しました。

本当に心温まる卒業式でした。学校の小さな体育館で行われた式は、ちょうど1時間の中に、卒業する3人と在校生、そして卒業生のご両親との心の通い合いが一杯に詰まっていました。

校長先生の式辞の中にも、先生と3人との授業を通してのふれあい(校長先生もここでは授業を持っているのです)が語られていましたし、在校生から卒業生一人一人へのメッセージと歌・演奏も、日本の多くの学校では(その規模のゆえに)最早見られない、生徒同士がお互いをよく知っているこの日本人学校ならではの、実感がこもった温かい惜別の辞となっていました。そして卒業する3人がそれぞれに、今の自分の気持ちを語るところでは、この学校で学べたことへの感謝、そして両親への感謝が本当にストレートに言い表され、中学3年生の男子がこれほど素直に両親への感謝の言葉を皆の前で語れるのかと感動するほどで、本人のご両親以外にも、メッセージを聴きながら涙ぐんでいるお母さんがあちこちに。

小学1年生から中学3年生までが、それこそ兄弟姉妹のように親しく付き合っているこのような学校の形態は、景気後退のためにチューリヒから日本企業が多数撤退したせいで生じたものではありますが(かつては小・中学部併せて80名を超えた時期もあったそうです)、このような「超小規模」だからこそ子どもが得られる、年齢や学年を超えた人間関係は本当に貴重だと思います。良いご指導を下さる先生方にも恵まれて、ウチの子どもたちは、チューリヒに来てすぐにこの学校が好きになりました。この「日記」の読者には、日本人学校の先生方もおられるということで、こんな場所ではありますが、改めてお礼を申し上げます。子ども一人一人を大事に思う心や、興味をうまく喚起する授業の工夫など、教える相手の年齢は違えど、同じ学校教員として、僕自身が学ぶことも多くありました。

今日が日本人学校に通う最終日となったウチの子どもたちにも、友だち・先生方からのメッセージ集を頂戴しました。家で子どもたちは、一つ一つのメッセージを嬉しそうに読み返していました。日本の学校に戻って果たして順応できるのかと心配になるくらい、自由にのびのびと過ごした子どもたち。一人一人が大事にされていると実感できるこの学校が、いつまでも続いてほしいと心から願います。

今日、日本人学校を巣立った3人の前途に神さまの祝福を祈りつつ。

紅白歌合戦…今ごろ。

2005年03月18日 02時04分46秒 | Weblog
紅白歌合戦を見ました。はい、今ごろ。

衛星放送の設備がない我が家では、当然ながら昨年末の紅白歌合戦は見ておらず、こんな時期になってから、子どもの友だちの家庭からビデオを借りて、あわてて見ているという次第。

紅白歌合戦は、その1年に流行った歌の総集編みたいなものですが、これを見ると、昨年後半に自分たちが日本にいなかったことが実によくわかります。だって、知らない曲や歌手が続々。

ついに、初めて見ました。「マツケンサンバII」。これが噂の(ネットでその存在は知っていた)マツケンサンバか……。キワモノ指数極まれりって感じですが、会場がみな沸いていた中、審査員席の日野原重明先生(なんでこんなとこに???)だけが無反応なのがかえって笑えました。

ギター侍って、こんな奴だったのか。氣志團ってのはコミックバンド? なんでわざわざ千葉県木更津市出身なんてスーパーが出てるんだ? 「さくらんぼ」は聞いたことあったけど、大塚愛って……誰? といった具合に、自分が完全に乗り遅れていることを実感できるのが、ビデオ紅白なのです。

思えば、スイスに住むたびに同じことを繰り返しています。最初にスイスに住んだ1991~1995年はかなり長期だったので、その間に流行った歌が全然わかりません。SMAP の存在すら知らず、日本から送ってもらったニュースに SMAP とあるのを見ては、いったい何の記号なのかと首をひねったものです。

前回、1999年秋から2000年春にかけて滞在したときも、友人から紅白のビデオを借りました。モーニング娘をまともに見たのも初めてなら(「ニッポンの未来は……」を知らなかった)、浜崎あゆみの歌を知ったのもそのときが最初でした(今回、浜崎あゆみが異常にマドンナっぽくなっていたのでびっくり。キモさの度合いまでよく似てました。あれで筋肉質に変身すれば、まさに日本のマドンナだ)。

なんでスイスまで行って、そんなものを見ているのかと思われるでしょうが、スイスにいるからこそ、食い入るように見てしまうわけです。紅白歌合戦なんかを。日本だったら、ビデオに撮ることもないでしょう。海外にいる人なら、この感覚をきっとわかってもらえると思います。

これで少しでも「遅れ」を取り戻して、日本の生活に備えようという我が家の涙ぐましい努力です。まだビデオを全部見ていない息子は、今夜こそ氣志團を見るのだとはりきって学校に行きました。

春は突然

2005年03月17日 05時53分06秒 | Weblog
最高気温が氷点下だ、また雪だと騒いでいた先週までの生活が嘘のよう。今週に入ってスイスにいきなり春がやって来ました。

最低気温こそ2度前後とはいえ、日中の最高気温が17度まで上がった今日のチューリヒ。場所によってはもっと高かったはずです。もはやコートは不要で、半袖で歩いている奴まで突然現れる始末。もっとも、この急な変化についていけず、いまだに分厚いコートを羽織っている人もよく見られました。信じていいのか、この暖かさ、という気分です。

引越荷物の梱包や家の掃除で動き回っていると、家の中でも汗をかいてしまいます。窓を開けっぱなしにして外気を入れないと、これまた急に止まれない暖房機(ハイツング)のせいで暑くなってくる。空は真っ青、すっきり快晴です(写真をご覧あれ。チューリヒ中央駅と隣の博物館。なぜか空にヘリコプターが)。

カフェやレストランも、ここぞとばかりに外にテーブルを並べています。すると、甘いものにたかる蟻のように(たとえが悪いか)、次々とそのテーブルにお客が集まってくるのです。まさに太陽の光に飢えたスイス人がテーブルにたかっている光景です。

今日の「20 Minuten」紙も、太陽の光を喜ぶ街角のスイス人のインタビューを特集。20歳過ぎのお姉さんから、50をとうに過ぎたおっちゃんまで、外で食事できるのが嬉しい!とのたまっています。そんなに屋外でのご飯が好きなのか、スイス人? きっと、太陽の光を1年中享受している日本人にはわからない感覚なんでしょう。(一人だけ、ミニスカートがたくさん見れるから嬉しいという、正直なんでしょうが謹んでほしい答えをしていた23歳のお兄さんがいました。)

家の中で段ボール箱なんぞと格闘するのでなく、散歩にでも行きたいです。正直言って。

生活水準世界最高

2005年03月16日 05時36分12秒 | Weblog
そうなんですか。実感できるのは、物価が高いってことぐらいだけど……。

ロンドンのコンサルティング会社 Mercer の調査によれば、世界最高の生活水準と認められるのは、世界215の都市のなかでチューリヒとジュネーヴだということです(15日付 20 Minuten 紙の記事)。

何をもって生活水準とするかにもよるわけですが、この調査では、安全や銀行インフラ、医療、そして娯楽やレストランの中身など39の基準で審査が行われたそうです。

ニューヨークを100とした場合、世界1位はスイスのジュネーヴとチューリヒで、ともに106.5ポイント。両者は前年の同じ調査でも共に1位でした。これに続くのがヴァンクーヴァー(カナダ)とウィーンで106ポイント。5位には105.5ポイントでドイツの3都市が並んでいます―フランクフルト、ミュンヘン、デュッセルドルフ。前年5位だったベルンは8位に下がりました(105ポイント。コペンハーゲン、シドニーも同点)。

詳しい順位は 20 Minuten 紙がPDFファイルで提供しています。

で、日本はというと、東京が101ポイントで34位。次が横浜で36位(105.5ポイント)。日本で3番目なのが、我が生まれ故郷神戸です。神戸の生活水準は、ニューヨークと同じ100ポイントだとのこと(全体では39位)。大阪の98.5ポイント(46位)を上回っているというのは、納得できるところです。神戸生まれとしては。

Mercer がチューリヒの問題点として指摘しているのは、交通渋滞、大気汚染、小規模犯罪とのこと。しかし、安全という点では、スイスの3都市(チューリヒ・ベルン・ジュネーヴ)は、ルクセンブルクに次いで第2位にランクされるそうです。行く場所さえ間違えなければ、安全な都市であることは確かでしょう。かつてベルンで、夜中の3時ごろに大学から自宅までよく歩いて帰ったことを思い出しました。

調査を担当した Mercer の従業員のコメント―「スイスには必要なものが揃っています。レストランやキャッシュマシーンもたくさんありますしね。それに、子どもを学校にやるのにボディーガードをつける必要もない」。(!)

ちなみに、調査対象となった町の中で一番危険だとされたのは――わかるような気もしますが――バグダッドでした。ならば、バグダッドを危険な町にしてしまった当事者アメリカはといえば、一番生活水準が高いとされたのは、ホノルルとサンフランシスコ(102ポイント、25位)。安全という点だけの評価が知りたいところです。

(写真はチューリヒの街。急に春めいてきたのでテンプレートを変えました。)

ハイジ最終回

2005年03月15日 02時13分47秒 | Weblog
ドイツのテレビ局 Kinderkanal (KiKa) で「アルプスの少女ハイジ」の再放送をやっていることを前に書きましたが、先週の金曜日でついに最終回に。

歩けるようになったクララを見て驚き、涙を流すクララのお父さんとおばあさん。何度もすでに見ているので、筋書きは十分よく知っているにもかかわらず、それでもついつい涙ぐんでしまうのは、自分が年をとったというせいもあるでしょうが(元気になった娘クララの姿を見たお父さんやおばあさんの感激が実感できるようになった)、やはりこのアニメが秀作だからなのでしょう。

スイスの山と自然への賛歌になっているこの物語、原作者ヨハンナ・シュピリ自身が、チューリヒ郊外の小さな村ヒルツェルからチューリヒの都会に移り住んで辛い日々を過ごした体験が重なっているということです。物語では、チューリヒでなく、ドイツのフランクフルトが、ハイジを病気にまで追いやる場所なわけですが。山も見えず、自然もないフランクフルトで、アルムの山に戻りたいと涙を流すハイジの姿には、シュピリ自身が重ね合わされているのでしょう。


最終回でクララはフランクフルトに戻っていきました。ハイジとペーターは、クララが次の春に再び山に来て、3人で一緒に遊ぶことを夢見ています。

ハイジの終りと共に我々のスイス滞在も終ろうとしています。我々の最終回もすぐ目の前までやって来ました。家の中に散在している段ボール箱を見てはため息をつくここ数日です。



いつの日かまた、ここスイスでハイジの世界を体感できるときが来るでしょうか。

毒蛇とお輿

2005年03月14日 07時19分31秒 | Weblog
毒蛇とお輿、どちらもチューリヒ交通営団(VBZ)有する最新トラムの名称です。

以前にトラム新事情という記事を書きましたが、VBZ も、トラムの低床化をだいぶん気にはしているようです。今回の滞在で気がついたのは、ベルンやバーゼルでもトラムの低床化は進んでおり、主観的な印象では、スイスの大都市の中でチューリヒが一番遅れているようです(ジュネーヴは見ていないのでわかりませんが)。

そんなチューリヒ市が投入した最新型トラムが Cobra (写真)。VBZ のホームページでは Cobra のことを相当ていねいに、導入のいきさつから、その仕組みまで紹介しています。よかったら覗いて下さい。 Cobra という名称は、おそらく(低い床だから)地に這いつくばるような姿で進むことと、前面の印象からついているのでしょう。9番の路線で走っているので(4番でも走っている)、時々乗る機会があるのですが、全車両が低床で確かに乗りやすいものの、扉の開閉が若干遅すぎてイライラします。しつこく開扉ボタンを連打しているスイス人をよく見ますから、僕だけの印象ではなさそう。この Cobra、現在は6台が走っていますが、将来は74台に増やす計画だそうです。

しかし、Cobra だけでは低床化が行き届かないのは目に見えているわけで、VBZ はこれに加えて、Saenfte (ae は a ウムラウト) というタイプの新型車両も導入しました。


この写真はVBZのホームページから拝借。3両編成になっていますが、従来タイプの高床式に挟まれた低床車1両の部分を指すようです。屋根の上に Achtung Keine Stufe (段差なし、ご注意)と書かれているところが、VBZ の意気込みを表している感じがします。

この Saenfte=お輿という名称は、横から見たときに、低床の中央車両が棒にぶらさがったお輿のように見える(白い部分を前後の車両と比較)ことからつけられたのでしょう。前後の高床車両が棒にあたるというわけです。

Cobra のような新型車両の導入にはお金がかかるので、従来型の車両に1両、こうした低床型を挟み込むということで、とりあえずの解決を図ったということのようです。この Saenfte、5番、6番(中央駅から動物園に行く路線)、そして我が家がよく利用する10番で見られます。

高床になっている従来型のトラムは確かに、老人やベビーカー、松葉杖をついている人(スキーやスノーボードのせいなのか、冬によく見かける気がします)にとっては不便なので(とくに降りるときが怖い)、利用者の便宜はもちろんのこと、利用者を増やすという観点からも、低床式の導入が進められているようです。

Cobra も Saenfte もそうですが、新しい車両は、停留所をつげる車内放送も録音されたものを使っていますし、次の停留所を示す表示が車内についています。これは、慣れないうちは非常にありがたかったですし、実に不明瞭な発音で(面倒くさそうに!)行き先を告げる運転手が多いことからも、もっと増やしてほしいものの一つです。

駅教会

2005年03月13日 06時25分56秒 | キリスト教
チューリヒ中央駅の地下1階、コインロッカーや例の有料トイレマックリーンがあるのと同じ階に、教会を表すピクトグラフのついた場所があります(写真)。

ここは、Bahnhofkirche (まさしく「駅教会」)と呼ばれるスペースで、60平方メートルほどのスペースに、チャペルと応接室が一つずつ、そして談話室が二つ設けられているそうです。中に入って確かめようかとも思ったのですが、毎日300人から500人ほどの人が、静寂を求めて、あるいは瞑想のため、祈りのため、あるいはまた、ここで配布されているメッセージ "Weg-Wort" を読むために来るということなので、その邪魔をしてもいけないと思って止めました。("Weg-Wort" はインターネットでも読むことができます。)

Bahnhofkirche には、カトリックの神父とプロテスタントの牧師が各1名、フルタイムで勤務しています。名前も「教会」だし、チャペルもキリスト教式に作られてはいますが、すべての宗教信仰を受け入れているとのことです。チャペルの中で、異なる信仰の持ち主が同時に祈ることも珍しくないとか。ムスリムの人々のためには特に、祈りのための絨毯を敷いた一角を用意しているそうです。

2001年5月から始まったこの「駅教会」、ドイツやフランスにも同様の施設が存在しますが、キリスト教会が、自分たちの教会堂の中で来会者を待つのでなく、自ら積極的に社会の中で役割を担おうとする努力の現われの一つだと言えるでしょう。

オルゴール

2005年03月12日 05時47分55秒 | Weblog
スイス製のオルゴールを買いました。明日が結婚記念日なので、そのプレゼントです。一緒に店に行って選びました。いくつかのオルゴールを聴かせてもらったあと、さんざん考えて選んだのが上の写真のもの。

奏でるのは、魔笛、アイネ・クライネ・ナハトムジークのメヌエット、トルコ行進曲の3曲。クリスタルの箱に納まった、どっしりとした作りで、これまで聴いたことがないくらい低音が綺麗に響くオルゴールです。

オルゴールの歴史は200年少し。1796年に、ジュネーヴの時計職人アントワーヌ・ファーヴル (Antoine Favre) が発明したと言われています。もともとは時計のおもちゃ程度でしかなかったこの「自動演奏機」はしかし、サント・クロワ (Sainte-Croix) の町を国際的に有名にし、この町で作られるオルゴールは、19世紀半ばのスイス総輸出高の10%を占めるまでに至りました。

しかしその後、エジソンが発明したフォノグラフ(蝋管再生機)、さらにグラモフォン(蓄音機)に市場を奪われたことや、第1次世界大戦、そして1929年の世界恐慌によってオルゴール産業は大きな打撃を受けました。オルゴールが復活したのは、第2次世界大戦後にヨーロッパに駐屯したアメリカ兵に人気を博したおかげだそうです。

ところが、日本製品との競争にさらされたせいで、ほとんどの製造業者が作るのを止めざるを得なくなり、今日スイスで残っているのは Reuge 社と Gueissaz-Jaccard 社くらいです。その日本人がスイスに来て、スイス製オルゴールを買うというのも、どことなくバツが悪い気がしないでもないですが。

奨学金で食いつないだベルンの貧乏留学生時代、息子の誕生、再度のベルン滞在、そして今回のチューリヒと、我々夫婦の歩みにとってはスイスで暮らした日々が大きな意味を持っています。この、とても大変だった、しかし楽しかった日々を、オルゴールを聴くたびに思い出せるでしょう。