何が善で何が悪か?と言う議論を持ち出すモノは何かの意図がある。
宇宙に存在するのは神のみである。神とは法則である。一例を挙げれば万有引力の法則である。
万有引力の法則はその地上での作用、重力の法則を慮れば極めて分かりやすい。その法則を無視すれば痛い目に逢う。地場、電場も分かりやすい・・モーターが回るのを見れば見えないけれどもそういう物が存在することを知る。
しかし人間の心の法則、人類の集団に働く法則、歴史の法則などは極めて分かりにくいし数式化も言語化も出来ない。ここに旧約聖書の存在理由がある。【的の周辺】を射ることによって的が如何なるものかを体得させる。
これに拘って【射る方法】の議論を始めたのが所謂パリサイ人・・学者・・で【的外れ】に陥った。卑近な例で言えば女子高でスカート丈を云々するのに似ている。
これを修正すべく現われたのがイエス・キリストであって愚か者どもには解るはずもない【的そのもの】を教えた。案の定これを悪用するものが現われてキリスト教なる【美辞麗句に毒を沁み込ませた教え】を吹聴して人類を騙し、今日の混乱を招いている。
そこでは教えの教義に沿えば善であり、反すれば悪とされる。何故なら反する者を放置すれば教えそのものが破壊されて教会がもたなくなる。
同様に国家でもまたその国家の統合を保つべく法がある。その法に反すれば懲罰される。ここで便宜上法を遵守するものを善、反する者を悪と呼ぶだろう。
旧約聖書も同じである。【このような行為は宇宙の法則に抵触するのだ】と教えているわけである。繰り返すが、宇宙の法則とは神である。
やがて人智・・・人間の法・・の時代が終わって神治の時代・・神の法、宇宙の法則の時代が来る。そこに生き残る事が出来るか否かはまさにその宇宙の法則を遵守するか否かにかかっている。、