『泰平ヨンの恒星日記〔改訳版〕』

2010-07-20 23:29:32 | 書籍
『泰平ヨンの恒星日記〔改訳版〕』スタニスワフ・レム、読了。レムはポーランドの作家。映画『惑星ソラリス』(タルコフスキー監督)の原作者として有名ですが、筆者は国書刊行会の文学の冒険シリーズ『完全な真空』を読んで以来のファンです。本作も一見ユーモア・スペースオペラに科学技術、哲学、宗教、歴史などの主題がふんだんに盛り込まれ、知的にもとても楽しい小説でした。特にメタフィクショナルな仕掛けはレムならではです。
「スタニスワフ・レム・コレクション」国書刊行会さんに予約注文していて、しかしここ数年届いていないことに気づきました。HPを確認したところ"近刊"表示が。気長に待ちましょうか。
http://www.kokusho.co.jp/series/lemcol.html

書籍業界について

2009-05-15 22:58:31 | 書籍
だいぶ前ですが日本の出版/取次/書店/古書店について、いくつかの本を取り上げて考察しました。その後ここ数ヶ月に渉って、目まぐるしく大規模な業界再編がすすんでいます。台風の目は大日本印刷。買収を繰り返すのは、業界の黒船と呼ばれるAmazon、Googleに対抗するためでしょうか。備忘録として現在の状況をまとめます。

[旧型システム] (再販制度、返本制度)
 大日本印刷:
   買収 図書館流通センター-丸善-ジュンク堂-主婦の友社
   大日本印刷+講談社/小学館/集英社がブックオフの株式30%取得

 書店:
 紀伊国屋書店

 取次:
 日販-CCC(TUTAYA)-角川GHD
 トーハン-GEO

 出版:
 音羽グループ 講談社、光文社
 一ツ橋グループ 小学館、集英社

[新型システム] (新古書店、外資)
 ブックオフ-青山ブックセンター
 Google ブック検索
 Amazon アマゾンジャパン

[国立国会図書館]
 蔵書のデジタル化に例年の百倍の補正予算要求-Google ブック検索 への対抗か

[国立大学 独立行政法人 年1%の予算削減]
[私立大学 デリバティブ損失]

波乱の時代に突入した大学運営。日本の威信を賭けた国立国会図書館のデジタル化プロジェクトなど、書籍と研究環境めぐる状況は混迷しています。まあ、まだ自分の仕事にそんなに影響はないだろうと高を括っていたら、意外な形でGoogleブック検索の影響をうけてしまいまして、とても胃が痛い毎日です。

『さがしもの』

2009-03-19 00:27:25 | 書籍
角田光代、新潮文庫、2008年。本をめぐる短編集。主人公はバックパッカーとして諸国を彷徨いながらも常に書物をひらく。人が本を追いかけ、本が人を追いかける。その因縁の物語。リチャード・ブローティガンや片岡義男が引用され、ブッキッシュなところが楽しい。

『プラナリア』

2009-03-06 00:28:06 | 書籍
山本文緒、文春文庫、2005年。働くということの個人的な意味における小説。労働と書けば社会問題と化すが、しかしこの成熟した社会において、働くことは非常に個人的な問題でもあることを提示する。特に昨年末からの状況に即して考えると、非常に興味深い。

『リアル鬼ごっこ』

2008-09-04 23:10:27 | 書籍
山田悠介、幻冬文庫、2004年。時は西暦三〇〇〇年、国王は突然、全国五百万人の”佐藤”と名のつく者の殺戮を命じます。期間は一週間。主人公の佐藤翼の目の前で父や親友が殺されていきます。絶滅者たる”鬼”から、必死に逃げる主人公は同時に、幼い頃に生き別れた妹を探すたびに出ます。行き詰まる”追いかけっこ”。翼は、妹を見つけ出し、また理不尽なゲームから生き延びることができるのでしょうか。

着想も奇抜で、かつ全編を貫く疾走感も、読むことの楽しさを実感させてくれます。理不尽なゲーム設定を、あからさまにしすぎることで不条理感が半減されていても、なお面白さがあります。しかしながら、物語の前半部分において特に顕著な、文章の拙さにぶつかるたびに、ストーリーに魅力的な部分がある分、残念に思います。「改訂版」となっていますので、おそらく文章が手直しされているのでしょうが、それでも、あまりに紋切り型な言い回しは鼻につきます。

初出は文芸社から、自費出版というかたちで上梓されたようです。一般的な文芸誌に掲載される場合、編集者とのやりとりのなかで、文章は鍛えられるのでしょうが、そこが端折られたまま著者はデビューを果たしたようです。自費出版という形態は、作者側が費用を負担するシステムから、会社側のリスクの少ないままに驚異的な数の自社ブランド書籍の出版を可能にします。返本制度の下においては、刊行点数が多いほど、出版社の運転資金は回転するのですから、現在の出版流通システムを逆手に取った手法と言えるでしょう。

ところが一方で、文芸としての文章レベルに達しない出版物が多く流通する、あるいは出版費用とその後の宣伝をめぐってトラブルが絶えないなどの、問題を抱え込みがちです。新たな作家を発掘し、新しいスタイルの出版形態といわれた自費出版も、新風舍の倒産によって曲がり角に達したと見るべきでしょう。山田悠介は、その後二十冊ほどの物語を世に出しているようです。最新刊でどのような文章を書いているのか興味があります。

『薬指の標本』

2008-08-04 11:58:08 | 書籍
小川洋子、新潮文庫、1998年。『博士の愛した数式』の小川洋子の短編です。時間も場所もぼんやりとして、どこか最後まで幻想的な掌編です。登場人物の姿さえも呆として、姿形を特定するのに苦労します。しかし、それが独特の雰囲気を醸し、まるで夢のなかの物語のように尾を引きます。それは標題の作品「薬指の標本」、もうひとつの短編「六角形の小部屋」にも共通しています。

主人公の少女は、サイダー工場の機械に指を巻き込まれ、薬指の一部を失います。職を辞め、海辺の村を出た少女は、街のなか、古ぼけた建物の求人広告を見つけます。それは「標本室」の事務員募集を告げる内容でした。「標本」、それはとても不思議な職業でした。生き物ばかりでなく、無機質なもの、たくさんの人々の思い出を封じ込める、どこかにありそうで、しかし醒めた目では決してあり得ないとも思える仕事です。

標本技術士の弟子丸氏の優しく、おそろしく、人間味にあふれたようで機械的な、その人格は、正体不明で、しかしながら、日常生活で頻繁に感じる圧倒的に不可知な”他者”であるようにも思えます。その氏に、素敵な靴を送られ、少女はあまりに足にぴったりなそれを毎日履き続けることを約束させられます。氏の理不尽な要求にも、少女は当たり前のように応じます。

たぶんこれは、恋愛の話なのでしょう。少女は「自由になんてなりたくないんです。この靴をはいたまま、標本室で、彼に封じ込められていたいんです」と語ります。象徴のレベルで分析することも可能だと思うんです。フロイト流に言えば、靴は性的な意味。薬指は日本では男女の制度的な意味合いを有しています。ただ、そのように正解探しをしても何の意味もありません。本を読むという行為は、ただその読まれている書物のその世界を生きること。

少女の足が弟子丸氏の靴に侵されるかのように、読者は本の活字の世界に浸食されることこそ、至福と言えると思います。

『法と芸術』

2008-07-09 23:56:06 | 書籍
著作権法入門。小笠原正仁、明石書店、2001年。著作権関連シリーズ。とはいえ、創造的行為と著作権の関係について、あまり突っ込んだ議論はなされません。芸術大学、音楽大学などに通う学生向けの著作権の手引きでした。すこしがっかり。

しかし若者向けらしく、身近な事例を著作権問題として取り上げてもいて、勉強になりました。漫画において、通説上キャラクターは著作権保護の対象にならないようです。これは文学の考えを敷衍しているらしく、たとえば自分の小説に三毛猫ホームズを登場させても問題にはならず、ストーリーを盗んだ場合のみ著作権侵害となります。それと同様、自分の漫画にハクション大魔王を登場させても今のところ著作権上、問題ありません。

では、ハクション大魔王まくら、なるものを作って販売してよいかと言うと、それは商標法などで規制すべきとのこと。また、キャラクターを使って著しく原作を損なうような漫画を書いた場合、原作者から損害賠償などの訴訟を起こされる可能性もあります。あくまで、著作権という権利にしぼった場合の事例です。もっとも、キャラクターの無断利用は複製権の侵害であるとする判決が出るなど、判例も変化しているようです。

著作権とジャンルの関係も興味深く、業界との力関係によって保護の度合いも異なったりします。映画には、映画会社のみに認められる頒布権という独自の著作財産権が設定されます。音楽では、作詞者作曲者のみが著作者となるわけですが(だからシンガー・ソングライターは儲かります)、歌手や演奏者には著作隣接権という著作権に準ずる権利が発生します。同様、レコード会社には原盤権が与えられます。では、書籍における出版社はどうかといえば、これといった著作権も隣接権も有しません。なんてことだ。

プログラム、データベースといった新著作物、デジタル化の進展とともに進むマルチメディア化、メディアミックス戦略。著作権法は改正を重ねつぎはぎだらけですが、もっと根本的な変革を迫られているように思います。個人的には終章の「表現の自由と自主規制」といったテーマをもっと読みたかったです。

『めろめろ』

2008-07-03 23:54:27 | 書籍
犬丸りん、角川文庫、2001年。バンド小説シリーズ「ダイナマイト姉ちゃん」。サトシは幼い頃からおとなしく、四歳年上のエキセントリックな姉のいつも言いなりです。中学生になった姉がロックにはまると、むりやりサトシはギターを買わされます。いつしか彼のギターテクは上達し、姉から歌詞を渡されます、「サトシ、曲つけてよ」。

「五○円ひろった ヘイヘイついてる あたりを見渡せ 誰もみてない ヘヘヘン 口笛吹きながら アキ缶蹴れば ナイスシュート Jリーガー並み! 心の中で大絶叫 パヤパヤパパヤ 春はすぐそこ」。双子のベースとドラムを仲間に入れてバンド『オニオンヘッド』は、姉の野望のままコミックバンドとして大成功を収めてしまいます。しかし、サトシには誰にも言えない密かな悩みが。ツアー最終日、武道館ステージ、姉が大観衆を前に唐突な告白を始めます。

短編集です。ファンタジックな登場人物や設定もありますが、いっぽうで海外からの出稼ぎ外国人、風俗嬢など、実に現代的な人物も登場します。しかし、どこか、夢のなかのようなイメージ。少しだけ暖かくも哀しい夢のようです。作者、犬丸りんは、NHK「おじゃる丸」のシナリオ作者にしてキャラクターデザインを手掛けました。過去形なのは、犬丸は自殺したからです。仕事上の悩みを綴った遺書が残されていたともいいます。

「おじゃる丸」が継続しているのは、視聴者の強い要望があったからだとか。まるで彼女自身がこの短編集の登場人物のようです。自ら死を選んだ人間の心境は、たぶん決して誰にも知りえないでしょう。個人的には、自殺した人間は軽蔑することにしています。あの世に行っちまうのは勝手だけども、残されたおれたちは、生きている間いつまでも、おまえのことを思い出しては何故かと問い続けなければならないからです。忘れられない。


『日本の音』

2008-06-15 23:52:21 | 書籍
小泉文夫、平凡社ライブラリー、1994年。先日紹介した『日本伝統音楽の研究』に引き続き、同著者の日本音楽に関する書物です。三部構成になっていて、第三部は理論編。『研究』の良い復習になりました。第二部は奈良平安から続く雅楽(最近、東儀秀樹がひちりきという笛で活躍していますね)、同時期に日本に入った仏教音楽(これにはお坊さんの大合唱である声明から郷土芸能化した古い形の盆踊りなども含まれます)。中世に入り琵琶楽と、武士に愛され成長した能・狂言。やがて豊穣な江戸文化のなかで、尺八、箏、三味線の発展、と時代をおって解説されています。

第一部はアジア、さらには世界における日本音楽の位置づけと、その現代的課題。第二部で語られたほとんどの伝統音楽が、この現代日本において、ほぼ当時の姿で、ほそぼそながらも生きながらえている、というのが日本音楽の非常な特徴になっています。家元や流派に結びついた極端に保守的で閉鎖的な制度によってではありますが。その”保存装置”のお陰で、次々と古い形の音楽が民謡や郷土芸能といった周縁に追いやられ忘れられる西洋音楽と違い、多彩な伝統音楽が残されたのですから、弊害はあれ保守的だというだけでの非難は的外れと思います。

で、その豊穣な伝統音楽群は戦後どうなったか。著者は既に明治期からの現象だと言いますが、学校という音楽教育の現場で日本伝統音楽は全く排除された、排除され続けていると指摘します。例えば絵画では浮世絵が西洋の印象派にまで拡い影響を与え、日本画は世界的なステータスを得ています。文学は二葉亭四迷などの言文一致運動や漱石、鴎外の苦闘を経て、伝統的な散文と西洋社会から入ってきたノベルを、非常に高いレベルで融合することに成功しました。

しかし、音楽の教科書は西洋一辺倒、小学生に入るや否やハーモニカやリコーダーを持たせ、ピアノの伴奏に合わせドレミを奏でさせる。西洋的なハーモニーシステムを信奉し、もしも子どもが祖父の民謡がそうであったように、一部の音を揺らしたり微かにフラットさせれば、確実に音痴の烙印が押されるでしょう。クラシックを聴かせ、思いつく風景を書けなどという信じ難い課題があって、しかもなお信じ難いことに、それには正解が存在したりします。

伝統ブームに乗った文部省によって、取って付けたように箏曲が取り上げられていたりしますが、だいたいそれは端折られ、そもそも教師がそんなもの知らないのですから、教えようがありません。ただただ楽譜にしたがって奏で歌うことを強要され、テストでは息も止まるほどの緊張を強いられます。これ、音楽と言えるでしょうか。音楽は本来、楽しく自由で気持ちの良いものですし、それは古くからの日本の音楽の多くに存在しているものです。その遺産を引き継がない日本の教育は、もったいないどころか、まさに文化的損失を招いていると言ってよいかと思います。


『一億三千万人のための小説教室』

2008-06-11 23:57:49 | 書籍
高橋源一郎、岩波選書、2002年。懐かしいです、高橋源一郎。デビュー作からの八十年代三部作を文庫で読み、その後ボルヘスやスタニスワフ・レムへのオマージュのようなパロディのようなメタ・フィクショナルで実験的な『惑星P-13の秘密』を読んで、大感激。サブカルチャーを呑み込みながら、かつ前衛的な作風で日本のアヴァン/ポップ文学を押し進めた作家です。

既に書かれた多くの文学作品を”ははおやのことば”のように真似ることから書くことは始まり、”あなただけの一人だけの道、その道の向こうにあるものを”やがて”つかまえる”。ベストセラー小説のようなどこかで読んだことのある、ありふれたストーリーや結末を持つミステリーや恋愛小説では決してなく、誰も見たことがない行ったことがない場所を目指す。「いまそこにある小説は、わたしたち人間の限界を描いています。しかし、これから書かれる新しい小説は、その限界の向こうにいる人間を描くでしょう」。

そんなことがポップな文体で綴られています。これはつまり高橋源一郎のアヴァンギャルド宣言と読んでよいと思います。新しい何かを掴むためには、過去の作品から何かを学ばなければならないと、この本にはさまざまな引用のほか、詳細なブックガイドに一章が充てられています。前衛であるために、伝統を知る。これは、モダンからポスト・モダンへと歩みを進めてきた表現活動の基礎となった考え方でした。

ところで、いま前衛は生きているのでしょうか。小説も音楽も、まるでサプリメントのように、今日は疲れているから癒しの音楽と軽い恋愛小説、なんとなく気分が落ち込んでいるからアッパーな音楽と元気で明るい小説、といった具合に日々消費されます。いみじくもサックス吹きの菊池成孔は、そんな音楽の現状を、個人の趣味と気分に限りなく応えジャンルがどこまでも細分化されるアダルト・ヴィデオに例えました。

そこでは、伝統はおろか、歴史さえ抹殺され、ただ、いま、があるだけです。過去はR35のように、単に郷愁とともに思い出されるだけ。歴史/伝統を知ろうとすることは、過去にこだわる鬱陶しい行いであり、長い文章を書くことはうだうだと、くだを巻くかのような行いであり、言葉は思ったまま感じたままに書き歌うことが正直なことであり、内容よりも文法やスタイルにこだわるのは正直でない行いである、という雰囲気、価値観、あるいは強迫観念。

まったくアヴァンギャルドであることは生きにくく、高橋源一郎もアヴァン文学では生計を立てられないのか、競馬解説者をやっていたかと思えば、いつの間にか大学教授になっていました。過激な思想言動を持った作家である島田雅彦も同じ道を歩いています。しかし、筆者はどうにも逃れられません。いつまでも伝統を学び、長い文章を書くことで考えを深め、かつ音楽や文章の細部にこだわり続け、誰も知らない場所を目指し続けることでしょう。

『アイヌの碑』

2008-05-21 23:56:43 | 書籍
週末、とある結婚式で演奏の予定がありますが、一曲のみ。そちらも目処が立ったので、文章を書く余裕があります。文章を書きたい気分なのです。萱野茂、朝日文庫、1990年。萱野茂は、アイヌ文化研究者にして、みずからも北海道二風谷コタン生まれのアイヌ民族です。学生時代に、彼が創設したアイヌ資料館に行ったのが懐かしいです。以前に紹介した知里真志保が和人の文化やキリスト教に囲まれ育ち、やがて東京に出て精緻な学問においてアイヌ文化を知らしめたのに対し、萱野はアイヌの生活に密着した民具や民話を私財を投じて収集し、アイヌ文化の保存に尽力しました。その自伝です。

その家族は、アイヌ語のみを話す祖母、酒呑みであまり働かない父、苦労の多い母、生活苦のなか兄たちは出稼ぎに出ねばならず、やがて病に弊れます。生活に苦しむ少年時代から、彼も家族のため、出稼ぎに出ます。測量人夫、炭焼きや木こりの親方をし、やがて結婚。苦しいながらも、生活を軌道に乗せます。そんな彼が憤慨したのが、和人の研究者の態度でした。わずかな金で民具を持ち去る、墓をあばいて祖先の骨を持ち出す、研究と称して人々の血液を採取し、身体を撮影する。

<わが国土、アイヌ・モシリを侵され、言葉を剥奪され、祖先の遺骨を盗られ、生きたアイヌの血を採られ、わずかに残っていた生活用具までも持ってゆかれた。いったいこれではアイヌ民族はどうなるのだ。アイヌ文化はどうなるのだ>彼は、決して余裕があるわけではない収入を割き、さらには内地よりの観光客に対して劇画的にアイヌを演じてみせる「観光アイヌ」の仕事までしながら、民具の収集や民話の録音に没頭するのでした。

このあと、日本によるニ風谷ダム建設推進とアイヌ民族による反対運動を経て、萱野氏の参議院議員への立候補と繰り上げ当選、人権を無視した旧土人保護保法を廃止させアイヌ文化振興法を成立させるなど、政治的に彼の人生は波乱に満ちています。その間、民話を纏めたり研究書を出版したりと、文化的にも多大な貢献を為します。あたかも単一民族であるかのように錯覚して生きることができる日本の和人として、アイヌ文化や琉球文化に接したときに、何を考えるべきなのでしょうか。

『日本伝統音楽の研究』

2008-05-20 11:58:19 | 書籍
小泉文夫、音楽之友社、1958年。ここのところゆっくりゆっくり読んでいました。かなり理論的で読み応えがあります。日本の旋律は、けっして動かない四度の間隔を持つ核音と、その二音に挟まれた中間音から成り立っています。その中間音の位置によって、民謡音階(田舎節)、都節、律、琉球に分類されます。分類自体については、以前に読んだ本で知識として掴んでいましたが、それが律-都-下降形、対、民謡-琉球-上昇形という形で、相互関係のうちに置かれること、さらに歴史的発展の痕跡が見られること、など実にスリリングでした。テトラコルド定義の理解などまだまだ甘いので、そこは再読しなければと思っています。

一方で、律音階が中国の古典音楽に端を発することや、しかし日中のあいだにある朝鮮半島では、なぜか三拍子形を中心としたリズミカルな音楽が優勢であり、ときに複雑なシンコペーションを奏でる不思議。中国では二拍子、日本では二拍子と、追分型と著者が呼ぶ小節線さえ引くことが困難な無拍子が優勢であるにも関わらずです。このような比較民族学的な分析は、この本では緒論に留まっていますが、インドネシアの音楽には日本の典型的四形が含まれるなど、興味深い可能性について触れられています。

本の序盤では、日本の民謡を採取することの困難さについても述べられています。この本が書かれたのが五十年前、古くからの共同体は崩れ、おそらく生きた民謡はもう残っていないと思われます。創作者がおらず、記録化もされず、没個人的、長く唄い継がれる謡。メディアの発達によって、そのような存在は残りえないでしょう。テレビで民謡が流れることもありますが、それも本来的な意味での民謡ではありません。

アメリカでの音楽も、レコードの普及と並行してアドリブ重視のジャズが発展し、ラジオの低価格化によりロック/ブラックミュージックがアメリカ全土へ伝播する、とメディアと音楽は離れ難い関係にあります。文学において言葉そのものがテーマであったように、またアートにおいて表現することそのものがテーマであったように、音楽もメディアをテーマにしても良いかと思います。いずれにしても、楽理関係、民俗学関係は重要なテーマとして今後も据えていきます。

『JASRACに告ぐ』

2008-05-07 23:54:43 | 書籍
田口宏睦、晋遊舍ブラック新書、2008年。ひさびさの本紹介です。あいかわらずの新書ラッシュで山ほど山ほど、新書判書籍が刊行されていますが、そこから一冊。ずいぶん以前ですが、練馬区のバーのマスターが著作権法違反容疑で逮捕された事件を、このブログで紹介しました。その後日譚ともいえる内容。それからもJASRACは、老舗ジャズバー、生演奏レストラン、さらには音楽イベントへも、著作権使用料の取り立て、そして訴訟を続けているようです。

戦前より続くJASRACなる組織、週間ダイヤモンドに文部省天下りの温床と批判記事を書かれ、不明瞭な融資にまつわる内紛、巨大利権と、著作権使用料の計算方法のずさんさ、おとり捜査ばりに店に潜り込み管理楽曲をリクエストし録音する職員。ここには、文化産業という名目のもと、組織が動脈硬化をおこし半ば死体と化しているにも関わらず、なおハイエナのごとく利権に群がる人々の姿が垣間見えます。それは残念ながら出版流通にも重なります。

数週間前でしょうか、JASRACへ公正取引委員会が独占禁止法で立入検査がはいった新聞記事が出ました。規制緩和の流れのもと、法改正があり、JASRACの独占から新規事業者が参入できる体制になったものの、包括的な料金徴収体系を盾に他業者の参入を阻んだ疑いです。さて、事態は好転するのでしょうか。街の音楽をささえるマスターたちにとっては必ずしもそうではないようです。

ライブハウスなどへの高圧的な取り立ては、規制緩和の法改正後、さらに激しさを増したと、著者は指摘しています。デジタルコンテンツ/音楽ダウンロードの局面においては、これから新規事業者を交えての熾烈なパイの奪い合いが起こるでしょう。JASRACは奪われたパイの分の補填と、泥を塗られたメンツにかけて、草の根権利保護とでも言いながら、小さな店から金を搾り取ろうと躍起になるように思えてなりません。

「一定の条件を有する利用者代表は、著作権の使用料規定に関して、JASRACとの協議や文化庁長官の裁定を求めることができる」(全国音楽利用者協議会サイト掲載)この著作権等管理者事業規則に担保された権利に則り、店主は束になって自衛するしかないと思うのですが。協議会が代表として交渉にあたれる条件を満たすには、会員数が二百店。ようやく半分ほどだそうです。