『ラジオ デイズ』

2007-10-31 23:54:23 | 書籍
鈴木清剛、河出文庫、2000年。著者は一九七〇年生まれ。ずいぶん前、ここで紹介した一九六八年生まれの阿部和重とともに、筆者と同世代の作家と言えると思います。二十一歳の主人公カズキは、特にやりたいことも見つからないまま単調な工場の仕事に馴染んで三年、すこしエキセントリックな女の子と付き合いながら、それでも大きな変化のない、たゆたうような日常に満足しています。

そこに、小学校のときに転校し去っていったサキヤが現れます。当時二件隣りに住んでいた金持ちで我の強かったサキヤを、主人公は実は嫌っていました。そのサキヤの突然の登場、さらに彼は一週間だけカズキのアパートに住まわせてくれと頼み込みます。面食らい嫌だと思いながらも、なんとなく承諾してしてしまうカズキは、そのとき小学生時代の力関係のなかに連れ戻されたのかもしれません。

二人の気まずい共同生活。しかしカズキの彼女はなぜかサキヤに親切で、奇妙な三人組はぎくしゃくしながらも、かけがいないような一週間を過ごすことになるのでした。どこか子どもの頃の感情を捨て切れない主人公、十年ぶりのサキヤは意地の悪いかつてのサキヤから変わったのでしょうか。そんなサキヤはサキヤでどこに行くのかも内緒のまま、毎日どこかへ出掛けます。

一週間が経ち、サキヤは主人公のアパートを出ます。カズキの疑問に答えは出たのでしょうか。二十一歳の登場人物が生きる世界は、筆者の生きた二十一歳の世界に酷似しています。あまり物を持たず、携帯なんてもちろんなく、社会はなんとなく停滞していて、しかし残念ながら自分は若い。思うのですが、あらゆる世代においてそれぞれ”われらの時代”を描く作家が必要なのではないでしょうか。懐古趣味ではなく、しかし、たしかに生きたという記録係は居ていいように思います。

『In Watermelon Sugar』

2007-10-30 23:46:55 | 書籍
邦題『西瓜糖の日々』。リチャード・ブローティガン著、藤本和子訳、河出文庫、2003年(原著1968年)。いつとも知れぬ時代、どことも知れぬ場所、アイデス[iDEATH]の人々は、西瓜糖と小川に泳ぐ鱒から、生きるための材料を得、それぞれができることをし、争わず静かに生きています。「いま、こうしてわたしの生活が西瓜糖の世界で過ぎてゆくように、かつても人々は西瓜糖の世界でいろいろなことをしたのだった。あなたにそのことを話してあげよう」。

名を持たぬ主人公は(「あなたがわたしの名前をきめる。あなたの心に浮かぶこと、それがわたしの名前なのだ」)、この不思議な世界について書き連ねていきます。得体の知れぬ物が山積みにされた[忘れられた世界]、かつてこの世界で人々を食い散らかし、そしていまは絶滅させられた[虎たち]、さらに[iDEATH]を脱落し[虎たち]に憧れるインボイル[inBOIL]の一党。

いくつかの橋は木造でとても古く、銀色のしみが降る雨のようだ。…「ひとこと、ひとこと書いているんです。それだけです」「そうか」ウェイトレスがやってきて、昼食に何を食べるつもりなのか、とたずねた。「あんたたち、お昼は何にするつもり?」…。どことなく、とぼけていて、でも美しく、しかし悲しげな、独特の”隙間の多い”文体と物語です。

だが意外にも作者ブローティガンは、濃密な文体の『路上』ケルアックや、実験的な『裸のランチ』バロウズと同じ、ビートニク作家の一員とされています(もっともブローティガン本人は「彼らのことがきらいだった」と話していますが)。やがてヒッピーの時代となり、彼の独自の共同体的な作品は、少しまえに紹介した『知覚の扉』とともにフラワームーブメントの教典としてもてはやされるようになります。

しかしながら七十年以降ヒッピー文化が挫折し衰退するとともに、ブローティガンの評価も急速に落ち、やがて忘れ去られます。失意のなか、彼は五十歳目前にしてピストル自殺してしまいます。まるで、彼自身の小説のように物悲しく、あっけない結末でした。彼の小説は結局、流行りものにすぎず、現在では読むに値しないのでしょうか。

そうではなかったようです。名訳の誉れ高い藤本和子の翻訳とともに、ブローティガンの諸作は、現代日本の重要作家、村上春樹、高橋源一郎、小川洋子、柴田元幸らにまで深く影響が及んでいるそうです。ビートニクスと、ピンチョンやバースらニューライターズ/ポストモダニスト、その後のミニマリストという構図のなかで、ブローティガンの占める位置は評価されてしかるべきです。

連チャンライブ

2007-10-28 23:58:14 | 音楽
昨日は足利でライブ。マスターのバンド、いかさんバンド、それからビニボンさんには一曲参加しました。ビニボンさんの完璧なバランスの演奏に入り込むのは臆しましたが、なんとか終えました。ありがとうございました。

さらにその後はセッション大会、楽しんでしまいました。楽しい時間は矢の如し。また夜更かししてしまいました。

今日は急遽バンドのリーダーから連絡があり、お昼頃利根川で練習。リーダーのトロンボーンおもしろい楽器です。バンドのホーンアレンジ考えなきゃな。

夜は浦和でライブ。そまりさんにほぼ全曲加わらせていただきました。初の参加、パワフルでありながら的確な唄、ギター、カホン。素晴らしい。出るところは出て、引っ込むところは引くサックスを目指しました。幸いよかったという言葉をいただきました。ありがとうございました。

皆さま大変お世話になりました。毎週ライブの怒濤の十月なんとか終えて、さあ、今週は音楽しないぞお。意地でもするもんか。音のことなんて一切考えないで過ごしてやる。

今週もライブ

2007-10-26 23:29:10 | 音楽
はい、今週もライブやります。土曜日は足利にて、そして日曜日は浦和にて。これから日曜のライブに向けて、音源から音取りをしなくちゃ。うー、さすがになんだか一週間ぐらいは音楽のこと考えないで過ごしたい気分。仕事もいろいろ押し詰まってきていて、明日は休日出勤。お客さんへの連絡のほか、溜まった顧客データの整理をせねばなりません。来週は重要なミーティングのほか、大きな案件が火木土とあります。疲れすぎないよう、お酒も時間もほどほどに週末は終えたいところです。

音楽、ですね。いろんなジャンルやりたくなっています。元々のロック、ブルース、パンクはもちろん、ここのところのフォーク、歌謡曲、演歌、さらにはジャズやチンドンやテクノまで、居たら面白いけどまあ居なくとも楽曲は成立するというサックスの特性上、こうなると決まったバンドというより、常にセッション的な参加が良いのかなと、思ったりもします。

楽曲に応じてサックスはおろか、ピアニカやシンセサイザーまで吹けるものは何でも吹く。いったい筆者はどこに向かっておるのでしょうか。

『マイク・ハマーへ伝言』

2007-10-25 11:57:37 | 書籍
矢作俊彦著、角川文庫、1978年。矢作俊彦と言えば、大友克洋の漫画「気分はもう戦争」の原作者として、そして実験的な小説で筒井康隆に絶賛されていたことは、なんとなく知っていました。ここのところ名前を良く見かけます。本屋で背表紙を眺め、とても気になり買ってみました。タイトルのマイク・ハマーとはドラマ「俺が掟だ!」で知られる、バーボンとラッキーストライクと四十五口径GIコルトを愛用するハードボイルド小説の主人公の名です(ミッキー・スピレイン作)。

昭和四十九年、高度成長のなかにも戦後の空気がほのかに残る横浜。不良少年からようやく大人になろうかという、若者グループを巡る青春小説です。作中のマイクとは、身長百九十センチ、相模原の米軍基地で四十五口径をぶっ放し米兵との賭けに勝ってから、そのあだ名を得たグループのリーダー。リョウは広域暴力団に喧嘩を売っては金を稼ぎいっとき組に入るも左肩をつぶされたファイター。克哉はきれる頭と頑固にすぎるほどの強い意志を持つ手に負えない若者。さらにお調子者の英二。医者の卵で薄情な雅史。

彼らの年下の仲間の茂樹が、グループの共同所有ポルシェ911を駆っていたところ、パトカーに追われ首都高から墜落し死ぬことから物語は始まります。ある者は就職し、あるものは学生になり国家試験を目指している、そんな仲間がふたたび集まり、パーティーと称し警察への復讐を企てます。大人として変わりつつある彼らの生活のエピソードと、若いままにイスラム旅行で死に、しかし彼らの心にエキセントリックなまま今も生きる”彼らの女”礼子の姿。

それぞれの思惑のなか、警察の特別仕様車セドリックの皮をかぶったダットサンSR三ニ〇とリョウのキャデラック8.2リッター、克哉のダッジ・チャージャー6.5リッターが首都高を並走します。そして三台は、無謀にも速度を落とさぬまま、茂樹が落ちたコーナーへ突っ込むのでした。

阿佐田哲也の小説に登場するバイニンたちも、この小説に登場する若者たちも、とてつもなくやんちゃでありながら、学を身につけ社会で成り上がろうとします。思うのですが、裏さえも知った肝の座った彼らのような人間が、本来社会を動かすべきだし、少なくとも団塊ジュニア以前まではそうであったような気がします。根本的な生きる力が、生きることにおいて必要ではなくなった我らが世代では、残念ながら、やんちゃな人間はすぐにドロップアウトさせられてしまいます。過保護な世代なのでしょう。

三軒茶屋

2007-10-24 12:34:00 | 音楽
昨日、仕事を終えてから三軒茶屋へ向かい、たざわさんのライブを聴いてきました。ロックでジャジーでフォークな曲たちが、たしかな技量のメンバーの方々に奏でられました。

東京でライブ、よいですねえ。

天神ライブ

2007-10-22 23:10:41 | 音楽
昨夜はニガー主催のイベント、天神ライブでした。いかさん、はまださん、そしてもちろんニガーで演奏しました。実は、このライブでニガーを脱退することになりました。ニガーのメンバー交代もあったりのなか、これからオリジナルブルースのアレンジを固めていこうという段階で、東京勤務で練習に参加するのも難しくなってきている現状では、継続は難しいと思い至った次第です。残念ですが。

最後のライブ、でも共演者の方々ふくめ、とっても面白かったです。さすがニガー人脈、群馬から栃木まで広範囲にミュージシャン大集合でした。これからもセッション的な参加はしてね、というありがたいメールもいただきました。どうぞこれからもよろしくです。

『本屋さんになる!』

2007-10-20 22:39:10 | 書籍
岡崎武志+CWS編、メタローグCWSレクチャーブックス、2004年。まあ、いちおう本屋に社員として籍を置いている身ですが、外から見るこの世界はどんなものだろうと思いまして、ハウツー本を買ってみました。筆者と世代の変わらぬ新進気鋭の書店、古書店の店主さんが、お店の特徴やそこに至るにいたった経緯などを紹介しています。「この商売は店主としても社員としても金にならない。業種別平均給与の一覧を見たら書店は下からニ番目だった」などと、ハッキリ書いてあって、ああ薄給に悩むのは我が身だけではないのだ、などと妙に納得してしまいました。

例として登場している書店さん、多くは、ただ独り我が趣味をいく、もう飯より女より本が好き!!!みたいな感じです。まあ、むしろ趣味的に一分野に特化した本屋さんでないと、いまの活字離れのご時世、生き残れないっていうこともありますしね。筆者も本好きが嵩じて、いまの会社の倉庫勤めパートさんから、東京勤務で営業担当にまでなったわけですが、ふと業界周囲を見渡せば、先行きは明らかに暗い、暗雲立ちこめる雰囲気ではあります。

いまのままではマズい、の思いは常にあります。どこかしらで何かしらの突破を図らなければ、あと三十年、あこがれの悠々自適晴耕雨読のリタイア生活まで保たないような気がします。変化の早い業界に着いていくのに懸命で(なにしろ仕事のためにいま読んでいるのは、コンピューターネットワークの入門書です)、なかなか先のことまで考えられないのが実情ですが。

あ、これ以上書くと愚痴っぽくなりそう。そそくさと筆を措きます。

『The Doors of Perception』

2007-10-18 00:05:15 | 書籍
邦題『知覚の扉』。オルダス・ハクスリー著、河村錠一郎訳、平凡社ライブラリー、1995年(原著1954年)。60年代アメリカ西海岸のサイケデリック・ムーブメントを指導したティモシー・リアリーの理論的支柱となり、またジム・モリソンで知られる”ドアーズ”のバンド名の由来にもなった、とても著名な本です。ずいぶん昔に一度読んでいるはずですが、内容をすっかり忘れ、手元にあったはずの本もいつのまにか紛失していました。先日、ふと本屋に入ったら文庫が売っていたので、そそくさと買い求めました。

ハクスリーによるメスカリンという幻覚剤の体験記です。時空経験の変化「私の精神が世界を空間的範疇以外の見方で認識することを始めていた」「一つの絶えず変化する啓示からできている永遠の現在であった」。そして世界が変容します。彼は日常において”減量バルブ”を通じてしか認識していなかった世界を、メスカリンによって”減量バルブ”を抑制させられた結果、なまのままの姿で見ます。<存在-認識-至福>が現前します。

メスカリンによって得られる、なまの世界を”遍在精神”(本来人間はあらゆる場所で起きた出来事を知覚している)として捉える説は、どうも現実離れしていて納得できません。しかしながら、世界を常に言語化/記号化し続ける(せざるを得ない)精神(=”減量バルブ作用”)と、そこからの離脱とする考えはとても魅力的です。

西洋神秘主義者、芸術家たちが生まれながらに持っていた資質。あるいは東洋の修行僧が苦痛を伴う修練から得た世界と、それは同質とハクスリーは述べます。決してドラッグ万歳な内容ではありません。”減量バルブ”の制御は、ヨガの特殊な呼吸法(一時的酸欠)によっても、あるいは光学的な装置によっても可能だと念を押しています。もっともケミカルな作用が最も手短かで効果的だとも言っていますが。

世界を記号化の網の目を通さずになまのまま知覚することは、おそらく誰にでも経験があるのではないかと思います。高熱にうかされた時、アドレナリンの噴出による極端な興奮状態の時、見慣れた風景が突如として異様なものに見えたり、光り輝くものに見えたりします。そもそも子ども時代には記号化能力の未発達により、世界は大部分なまのままであったのではないでしょうか。子どもの頃に見た夕日は信じられぬほどに輝いていました。

音楽もまた、そのような世界への切符となります。特にサックス吹きの筆者は慢性的酸欠状態にもありますし。ああ酒はいけません、やたらと脳の言語野/記号野を刺激し世界を朦朧とさせます。ぶつくさぶつくさと愚痴を垂れさせる精神は、いままで述べてきたなまの世界とは対極にあります。

音楽は、ありふれてありきたりで退屈なこの記号化された世界を直截的に抜け出す方法。文学は、安易に記号化されたこの世界を、まさに記号によって逆説的に浸食し破壊しようという試みと、位置づけることができると思います。少なくとも筆者はそのつもりでいます。

あ、ちなみにメスカリンは全世界的な禁止薬物ですよ。唯一、アメリカインディアンたちが宗教儀式で用いる以外は、使用が発覚した場合厳罰に処されますので、どうぞご覚悟のほどを。

ライブこぼればなし

2007-10-17 00:02:12 | 音楽
ひとり勝手に秋の音楽祭、三日連続ライブツアーを終えました。いやあ、疲れました。でも、楽しかったな。それぞれ違う仲間との演奏でしたし、いろんな場に迎えてもらえて幸せなことだなあと思います。今週来週とまだ、ライブは続きます。がんばります。

ライブそのいち、ごくらくさんのマスターが大変お忙しいなか来てくださいました。とっても悪そうなバンドと、お褒めの言葉(?)までいただきました。本当にありがとうございました。ぜひ、ごくらくさんにも出たいのですが、筆者自身の状況も含め、バンドの腰が大変に重いのが現状です。

ライブそのに、たまきちさんから演奏、アヴァンギャルドだったとの感想をいただきました。ミスターアヴァンギャルドからの、その言葉はとてもうれしいです。一方、とても悲しげな音だったという感想を漏らす人もいて、これはちょっと意外に思いました(あ、でもいかさんも同じことを言っていましたね)。

ライブそのさん、イベント開始早々に、通りがかったチンドン屋さんの飛び入りがありました。実はとってもチンドンに興味があります。前のめりに聞き入ってしまいました。たしか、じゃがたらのサックス吹き篠田さんは並行してチンドンもやっていたんですよね。

思えばライブの三日間、テナーサックスしか演奏していません。ソプラノほか小物の出番はありませんでした。ロックにパンク、ブルースと三兄弟のようなスタイル、まっすぐテナーを吹き込んでいました。渋い音から、勢いのある音、狂ったような音まで、やはり応えてくれるのはテナーなのです。

ライブそのさん

2007-10-15 23:04:25 | 音楽
昨日は高崎にて、ニガーのライブでした。地元バンドを中心にゲストも呼んだ屋外イベント。多少寝不足、おまけに高崎に到着するや車のバッテリー上がりに見舞われるという、とほほな感もありましたが、とっても気持ちのよい天気でさわやかでした。くつろぎながら聞く、いろんなバンドの演奏はとても楽しかったです。

カバーで四曲、ボーカルを曲ごとにチェンジしたりして、愉しみました。しかし、やはりニガーの真骨頂はオリジナルブルースでしょう。常に変わらぬモノトーンな雰囲気は唯一無二のものです。ニガー軍団とも言うべき人脈もたいへんなものです。トリを務めた主催、ストレイさんの演奏にも興奮させられました。

埼玉に帰るため、泪を飲んで諦めた打ち上げを後にして、高速を走れば大渋滞。連なるテールランプをぼんやり眺め、夜は更けていくのでした。

ライブそのに

2007-10-14 23:37:17 | 音楽
昨夜は足利にてライブでした。あしみちさんに二曲参加させていただきました。あしみちさんの世界観に彩りをくわえようと、かなり攻撃的な演奏をしてみましたが目論見は成功しましたでしょうか。頭のなかはヤマタカ・アイとハードコアでウッギャーな演奏をするジョン・ゾーンが流れていました。

アライさん、アブジェネさん、せつなのもりさん、とても個性的で惹きつけられる共演者の方々の演奏。お店のお酒と雰囲気にも酔って、夜は更けていくのでした。

ライブそのいち

2007-10-13 16:46:59 | 音楽
昨夜は太田にて、ダイナマイトのライブでした。出演はうちのバンドのみ、二部構成で各々三十分前後の演奏と、とてもハードルの高いイベント。ベースが緊急事態で不参加という可能性もあったのですが、なんとか一件落着して、フルメンバーで演奏できました。

勢いで突っ走りました。まあ、そうやるしか手だてはないのですけど。一番新入りのトランペットがとても良い音を出すようになってきて、なんだか嬉しいです。そろそろ、管のアレンジを考えるようにしなくちゃ。酒を飲んで、馬鹿話をして、ラーメン食って、夜は更けていくのでした。

『Fiasko』

2007-10-11 23:51:44 | 書籍
引き続き本の紹介。勢いが出てきました。邦題『大失敗』、スタニスワフ・レム著、久山宏一訳、国書刊行会、2007年(原著1987年)。レムはSFから、科学技術評論、哲学的批評まで著わすポーランドを代表する作家です。タルコフスキーが映画化した『ソラリス』、寓話的な『泰平ヨン』シリーズ、『完全な真空』は文学をメタフィクショナルな視点から再構成した力作で、筆者のお気に入りでもあります。

彼はこの『大失敗』を最後に小説を書くのをやめ、晩年は文明批評などで独自の地平を拓きます。そしてこの”最後の小説”は、まさにレムの集大成と言って良いでしょう。地球から遥か離れた異星人の星を目指す一行をめぐる物語、テーマは異星人との接触と、いたってシンプルです。

しかし、進化過程をまったく異にする生命体との交渉という認識論的問題(言語も社会も生存基盤も、おそらく同じものを見ても違うように感じる者と、いかにして対話が可能か!)。宇宙船という閉鎖された空間における人間の精神と、最終世代コンピューター、科学者と、教皇使節であるキリスト教神父、禅を体現する日本人、彼らの存在論。巻末の四十ページに及ぶ解説ノート、架空名詞一覧は、物語の重層性を表します。

「虚を衝かれたGODは、重力の助け舟にすがった。二つの主要エンジンの全供給力を使って、宇宙船の周りを幾つもの重力の環状面(トロイド)リングで囲んだ」「…シュバルツシルトの曲がった時空に陥っていった。そこに陥る物質的事物はどれも、電子負荷・角運動量・質量を除くあらゆる物質的特性を失い、重力の墓として無形態の素粒子と化し、攻撃に適用された手段の後には影も形も残らなかった。貫通不可能な装甲として用いられた円環面(トーラス)はわずか十数秒しか存在せず、それが宇宙船には10の21乗ジュールの負荷を与えた」

こんな具合で物語は進み、最終章主人公は独り異星人の星に降り立ちます。果たしてコンタクトは成功するのか。しっかしなかなか読み進めませんでしたあ。読みはじめから半年ほど、捲まずたゆまず読んできました。電車のなかで気軽に読める薄い文庫本もいいですが、ハードカヴァでずしりと重く腰を据えなければ読めない本も、また良いものです。

『オカルト』

2007-10-10 23:45:10 | 書籍
昨日に引き続き、本の紹介。田口ランディ著、新潮文庫、2004年。著者、純日本人の女流作家です。決してランディ・バースの親戚ではありません。名前のランディは、なんでもパソコン通信時代のハンドルネームに由来するとのこと。アマチュアではありませんよ、ライターをしながら(これは昨日の重松清と同じですね)、ネットに文章を書き連ね”メルマガの女王”と呼ばれたようです。

『コンセント』で作家デビュー、直木賞候補にもなったようです。ここらへんも重松清に似ていますね。しかし似ているのはここまで。『オカルト』では、現実とも空想とも幻想ともつかぬ世界が展開されます。

ふと気づくと主人公の部屋の時計がない。兄の形見とも言える大事な時計。しかしどこを探しても見つからない。呆然と記憶を遡って行方を確認する、そんな彼女の耳に、こちこちと時計の音だけが聞こえてきた。音がするのに時計は見当たらない。困り果て、主人公は超常現象研究家の秋山さんに電話する。「ふんがもだよ」。私の声は思わず裏返った。「なんですか、ふんがもって?」。

「私もよくわかりません。妖怪なのか、それとも霊なのか、ただの現象なのか。とにかく、そういうことがあるんですよ。その時計は部屋にあります」「…ただ、どういうわけか、何かの理由でいまあなたに見えなくなっているんです。でも実在します。時計があっち側に行っていいるのか、あなたがあっち側に行っているのかよくわかりませんが、とにかく、時計とあなたの位相がズレちゃってるんです」。秋山さんに勧められるまま、風呂に入り気分転換をして部屋に戻ると、時計が床の上にある。

こんな不思議で、でも、いや、似たようなことなら自分にもあるぞというような話が連ねられています。幻想小説が好きで、著者の男女を問わずよく読んだりしますが、意外にと言うか、やはりと言うべきか、女性の描く”幻想”と男性の描く”幻想”は質を異にするような気がします。根本的な出発点の何かが、違うように思います。それは遺伝子にまで遡る生理の違いなのでしょうか。あるいは男女に非対称な差を設けた社会の責任なのでしょうか。

これを男と女は決して理解しあえないと結論づけるべきか、あるいはだからこそ男と女は共に生きる価値があると結論づけるべきか、独り身の筆者にはいまのところよく分かりません。