本を読むこと

2007-11-29 11:54:26 | 書籍
なんだか忙しいです。今週は日曜日も仕事になってしまいました。毎年恒例の学会でのブース出展、がんばりますね。それはさておき、本を読み続けています。最近、人から本を薦めてもらっているんですよ。最近紹介した花村萬月、安達千夏は、そのパターンです。面白かった。

気づきました。自分で本屋に行き、てきとうに本を選んだつもりでも、けっこう似通った本を読んでいたみたいです。手に取るのは、新聞の書評などで覚えた名前の小説だったりしますが、そういうのはどこかで、自分の趣味が反映されてしまうのかもしれません。

薦めてもらった本には、自分の感性とは違う、新しい出会いを感じます。かてて加えて、読みながら、紹介してもらった人の性格、感性も考えてしまいますから、これ、新鮮です。こんど江國香織を読んでみます。楽しみだな。ブログご覧の方々、お薦めの本がございましたらぜひご紹介ください。

『タイル』

2007-11-27 11:53:15 | 書籍
柳美里著、文春文庫、2000年。主人公の男は妻と別れ、アパートに転居するなり、部屋中にタイルを敷き詰めはじめます。デザイナーを本業とする彼の生活は、またたく間に破綻していきます。一方、彼の住むアパートのオーナーは金と時間を持て余しながら、所有するアパートの盗聴に明け暮れる生活を送っていました。物語の合間に、ストーカーにつけ狙われる女流作家の書くポルノ小説が差し込まれます。

三人の少しずつ崩れていく生活が描かれていきます。彼らは男の表現者と、女の表現者、そして芸術には必ず必要なパトロンとして描かれているように思います。たぶんこれは、表現することをめぐっての極限的な寓話なのでしょう。

男は狂気を目指し、しかし「自分が危険人物に見えなかったことに失望し」、女は自意識の塊となり表現することに心底苦悩しながら「どこにでもいるようなOLのような軽薄さ」から逃れられません。パトロンは俗物を嘲笑いながら、いつのまにか俗物ふんぷんたる「老人ぽいしゃべり口調が板について」しまいます。

三人の人生がついに交錯し、物語は当然のごとく破滅へと向かいます。登場人物のなかでの救いは、無邪気な好奇心を彼らに示すデザイン学校に通う学生、彩子(サイコ)の存在でしょうか。全体に、どこか奇妙で、怖しくもあり、そしてふわふわと現実感のあるようなないようなストーリーです。

作者の柳美里(ユウ・ミリ)は在日朝鮮人の二世。高校を中退し、若くして劇団を立ち上げ、やがて作家として文壇にデビュー。私生活では不倫の果てに子を宿し、その後には劇団で世話になった二十三歳年上で余命八ヶ月と診断された男と同棲するなど、話題に富んだ人生を歩んでいます。サイン会が右翼の脅迫によって中止に追い込まれるなど、”民族”に翻弄されながら、作家として当然のこととして、それを上回るほどに戦闘的です。

作品の多くは私小説的で、自らの人生をさらけ出し、坂口安吾や檀一雄らの無頼派の系譜を継ぐと評されています(『タイル』ではそんな気配は希薄ですが)。その代表は処女作『石に泳ぐ魚』でしょう。登場人物に明らかにそれと分かる実在の人物を登場させ、その人物からプライバシー侵害をめぐって最高裁まで争うことになりました。その件に関しては、筆者は何も言いたくありません。ただ作者が争点とした芸術としての文学の存在は、今の世では難しいのではと思います。

プライバシーと表現の自由の問題は、しかし興味深いです。長らく著作権関連の本を読んできましたが、こちらの問題も法的に看過できません。表現の自由、冷たい鼻の駱駝の喩えはあっても、しかし安易に憲法二十一条を振りかざす最近のマスコミの報道には腹が立ちます。なんでもやっていいのが自由ではないことは、中学生でも知っている事実です。

昨夜の音楽

2007-11-25 21:49:59 | 音楽
昨夜はダイナマイトのライブでした。サイコビリー、ロックンロール、歌謡曲、ジャズ、スカと、バラエティに富んだ楽曲を演奏してきました。サックス、近年まれにみる出来の良さでした。ここのところセッションでダブルトーンやフラジオを多用しているせいか、整った倍音の抜けの良い音で吹くことが出来ました。朝までイベントは続き、さすがに疲れましたが、でも楽しかったです。

今年も残すところ、約一ヶ月。音楽のイベントもだいたい落ち着いてきました。ダイナマイトのライブは昨夜で終わり、ちんどんの本番は日程的に都合がつかず練り歩きは来年に持ち越しになりました。足利マスターバンドでの演奏はありますが、どちらかというとアドリブ重視なので集中力を武器にやらせていただくつもりでおります

ライブ予定と神々の宴のはなし

2007-11-23 23:55:34 | 音楽
明日は高崎でダイナマイトのライブです。全十四バンド出演の一大イベント。ロカビリー、サイコビリー、パンクからラスティック、ガレージ、ハードコアまでたくさんのバンドが出ます。帰ってくるのが大変なので、ビジネスホテル泊予定。楽しんできますね。

さて、筆者一時期北海道に住んでおりまして、アイヌ民族のことなど勉強しておりました。ファラオ・サンダースやローランド・カークを最近聴くにつれ、彼らのブラックな感性から生まれ出づる独自の世界観/宗教観にとても魅せられることが多くなりまして、あらためてアイヌの神話や信仰を勉強したくなってきている次第です。

昔買い集めて、どこかにしまい込んだ文献を掘り返し再読することから始めようかな。ほんとうにプーさんはキムン・コロ・カムイという神さまなのですよ(「プーベアが神さまだってこと知らないのかな?」ジャック・ケルアック『路上』最終ページより)。トアン・レタラ・チャペ・チェプ・エ・コロ・アン・ナ (あの・白い・ねこ・魚を・食べ・て・いる・よ)、口に出して読んでみてください。アイヌ語とっても音楽的です。

おそらく日本の小さな祭りや、田舎歌舞伎、土俗宗教にも同じ肌触りが息づいていたはずです。金儲けにまみれた占い師やら教祖さまやらにかぶれる前に、それらを振り返ってみるのも如何。

諸事雑録

2007-11-21 23:50:32 | 雑事
「『イノシシ:線路走り、踏切で自転車に衝突 女性転倒 群馬』毎日新聞 2007年11月18日朝刊。17日午後4時45分ごろ、群馬県邑楽町中野の東武小泉線本中野-篠塚間の小館32号踏切で、横断中の近くのパート女性(60)の自転車に、線路上を走って来たイノシシが左から衝突した。女性は自転車ごと転倒し、ひざをすりむく軽傷。イノシシはそのまま逃げた。」

「県警大泉署の調べでは、イノシシは体長約80センチ~1メートル。踏切は同町役場の南約600メートルの住宅街にあり、警報機と遮断機があったが、走って来たのが列車ではないため作動しなかった。女性は親せきの家に行った帰りで、自転車の前かごにはもらった大根が入っていたという。【鳥井真平】」

へえ、地元のすぐ隣り町ですけど、あんなところ猪が出るのか。って、「走って来たのが列車ではないため(遮断機が)作動しなかった」おいおい、あたりまえじゃん。最後の大根のくだりといい、客観的で淡々とした報道文体でありながら、この記者は絶対面白がっておるな。

ちなみに続報では、猪は逃げ去り、捜索中とのこと。また、近くに山がないため飼われていたものが逃げ出した可能性もあるとことです。大泉にお住まいの皆さん、線路を爆走している猪はその後どうなりました?

ライブとセッション

2007-11-19 23:58:15 | 音楽
土曜日は足利で朝まで音楽してました。スリーピーステクノバンド、うるえさんに参加。どこで入れば良いのか、どこで抜ければ良いのか、アイコンタクトがうまくいかず、なんだかひたすら頑張ってしまいました。ライブ構成上、ご迷惑をおかけしてしまったようで恐縮しております。ダブルトーンとフラジオで、とりあえず絶叫系ぶっとんでみました。テクノということで、足踏みディレイも強めにうわんうわん言わせて。どうだったのでしょう、参加したことのないスタイルなので、とても勉強になりました。ほんとうにありがとうございました。

さて、その後はたまたま集まったお客さんで、ギター二本、ベース二本、ドラム、鍵盤、ハーモニカ/ボーカル、サックスの豪華なフルバンド急遽結成(すごい…)、セッションをしました。みんなうまい。さらに一段落ののち、DJさんの音にあわせてフリー演奏。いやあ、くたくたになりました。めいっぱい絶叫系の奏法でマウスピースを噛み締めすぎたせいか、コーヒーを飲むとまだ唇にじんじん滲みます。面白かったな。

『Space Chantey』

2007-11-17 13:16:47 | 書籍
邦題『宇宙舟歌』、R・A・ラファティ著、柳下毅一郎訳、国書刊行会、2005年(原著1968年)。幾度か紹介しているラファティ、その新訳です。奇遇にも訳者は、先日紹介したオールディス『ブラザーズ~』と同じ方です。実は海外小説の翻訳を読むときには、訳者が誰かというのも、重要な指標になったりします。

この分野では、浅倉久志と伊藤典夫がなんといっても一番でしょう。同じように南米では誰、イタリアでは誰、東欧では誰、とある程度読み進むとお馴染みになる翻訳者がたくさん出てきます。原著では読めないのですから、翻訳者の文体を読んでいるわけで、これ音楽で言えば、オリジナルのビートルズは聴かずに、日本人の演奏するビートルズカバーのみを聴いているのと同等です。おかしな受容体験とも言えますよね。興味深いです。

さて、『宇宙舟歌』。ストーリーはまあ、ラファティらしくそれほど重要ではありません。ホメロスの叙事詩「オデュッセイア」を下敷きに、宇宙を旅する一団の物語が進行しますが、面白さは、そこにはなくハチャメチャな細部にあります。

「ここはとっても小さな世界だ。大気なんかあるはずがない。重力はほとんど無に等しいはずだ。…でも実際には楽々自由に歩きまわり、普通に問題なく呼吸できて、…たいへんありがたいことだが、理由は分からない。なんでそんなことができるんだ?」…大男は言った。「こういう内容だ。『不真面目な性質をもつ、ごく小さな天体に関しては、重力の法則に、脱力の法則が優先してもよい』」。なんじゃそりゃ、脱力します。

ある惑星で出会った、正体不明の怪物、船長ら一行は手をこまねきます。「どういう方法で近づいた相手を皆殺しにしているのかは不明です。正しい方法はひとつしかありませんートライアル・アンド・エラーです。我々の中でいちばん役に立たない人間から順番に山を登らせて、どんな風に死ぬか確かめてはいかかでしょう」「ムカッチー乗組員、登りたまえ」パケット船長が命令した。「あそこのいちばん近い金髪ブロンド女を目指すんだ」「アイアイサー」

ビルの林立する惑星。「はるか昔、そこは〈あばら屋〉ホテルだったが、最下層の九階分が泥の中に沈みこみ(ガバールの街では基礎なんて作らなかった)、多くの人々や部族がそのまま地下生活を続けていた。しばらくしてから、上層部分が〈緑鼻疽ビル〉の上に落ち、そのままそこに組み込まれた。そして中層階のかなりの部分が火事で焼けた。だが無くなった分の埋め合わせとして、建物は古い〈陶工の尖塔〉から落ちてきた十三階分を、実を言えば空から降ってきたのをそのままに組み入れた」。悪夢のようなイメージです。

死んだはずの乗組員が、次の章でなんの説明もなく、しれっと登場したりして、まったく破綻しています。しかし、そのぶっこわれ具合が、奇怪なイメージと気違いじみたギャグと相俟ってなんとも面白い。そういえば、ジョイスの『ユリシーズ』も「オデュッセイア」を下敷きに作られたのでしたね。読みくらべてみるのも一興かもしれません。

『モルヒネ』

2007-11-15 11:58:26 | 書籍
安達千夏著、祥伝社文庫、2006年。真紀は自宅療養する癌末期患者を主に担当する、外勤医です。彼女が医者になったのには訳があります。幼少の頃に、母が自殺し、さらに残された父は、真紀の姉を暴力によって死なせます。父は服役し、天涯孤独となった真紀は養父母のもとで育ったのですが、彼女の心には常に母と姉の姿がありました。

医者になったのは、いつでも自分の生死をコントロールできる薬を合法的に入手できるようにするため。常に死を身近に考えながら過ごした青春時代でしたが、楽天的でバイタリティあふれる養母や、患者のために身を削りながらも駆け回る心優しい院長たちに囲まれ、彼女自身も患者のもとをせわしなく往復する毎日を送るうちに、やがて強迫的な死の影から一時的にでも逃れたのでした。

院長と婚約し、非常に多忙ながらも懸命に毎日を生きる彼女のもとに、突然、学生時代の恋人であるピアニストが現れます。十数年ぶりに再開する元恋人は脳腫瘍を患っており、余命いくばくもないとの診断です。彼は真紀に再会するため、アムステルダムからわざわざ帰国したのでした。まるで子どものような元恋人は、真紀を求めます。それは多分、死に取り憑かれていたかつての真紀を、現在の自分の姿に重ねていたのでしょう。

患者を生かすために最善の努力を尽くす今の真紀と、それでも心のどこかに常に母や姉の面影を抱え、死という向こう側への思いを捨て切れない真紀、二つの思いが葛藤します。芸術家らしく率直にわがままでしかも近いうちに死を迎える元恋人、仕事に忙しく言葉が欲しいときに連絡の取れないいまの恋人。二人のあいだでも真紀は揺れるのでした。

いつか迎える死というのは、誰にとっても平等です。真紀の言うように、生きることは「常に自殺し続けている」ほどではないにしても、全ての人がおぎゃあと生まれた時点から、死にむかって歩みを進めているのは紛れもなく事実です。否応もなく。死に取り憑かれた出自を背負う真紀と、間近に迫る死を芸術家らしくエキセントリックに冷笑的に見る元恋人ヒデ、二人の関係は極限的な状況ではありますが、いずれ誰もが背負う状況なのかもしれません。

作中に描かれるように、現代の医療テクノロジーの現場においては、自然死と自死と尊厳死と、すべてはあやふやです。よく言えば、死に方を選べる時代であり、また悪く言えば本人にも周囲の人間にも最終的な取り返しのつかない非常に重い選択を強いる時代とも言えるでしょう。おそらく、生き方を考えるということは死に方を考えるということも包含しているのでは、と思います。

生きることと死と仕事と、いろいろ考えさせられた小説です。

「世田谷のJ・J展に行って思ったこと」

2007-11-14 01:13:45 | 雑事
世田谷文学館の大きくはないけれど清潔な建物。植草甚一展のひとつ目の部屋、そこに展示された写真を見て、ああぼくは少し考えを変えなきゃいけないなとすぐに思った。植草甚一を知ったのは、まだ北海道に住んでいたころ、ある古本屋で見かけた『いつも夢中になったり飽きてしまったり』(番町書房)だったのだけれど、函の植草氏の姿、サイケデリックなシャツを着た白髪の痩せた老人を見て、とってもイカしてると思ったのだった。

ところが、その痩せる前の植草氏はむしろ肥満していたというような話をどこかで読んで、写真を見るのをすこし楽しみにしていたのだった。氏の太い眉毛と口ひげ、撫でつけられた髪とスーツ姿はエネルギッシュだった。映画のなかのイタリアマフィアの弁護士役みたいだなと思ったりして、これはどうしたことだい、イメージが全然違うじゃない、と呟きたくなったのだった。

展覧会を見てまわるにつれて、そんな気持ちは薄らいでいったのだけれど、それはなぜかというと決して氏がアウトローなだけではない人物だと分かったからだ。東宝に勤め字幕スーパーの仕事や映画評論をしながら、海外小説の翻訳もしていた。東宝争議で退職したあと、『キネマ旬報』の同人となり、『スクリーン』に寄稿したり、さらに江戸川乱歩との交流を深めて「ハヤカワ・ポケット・ミステリ」や東京創元社のミステリーの監修に深く関わったのである。

ハハァ、そうだったのか氏の博識は有閑層的な趣味ではなく、労働としての実践のなかで手に入れたのだなと納得したのだった。一九七一年、胃の手術をして一気に痩せ、写真で見知ったJ・J氏の姿となる。一九〇八年生まれだから、氏が六十三歳のときだ。

時を前後して、前衛ジャズやニュー・ロックにイカレたり、シュールレアリストばりのコラージュ作品を作ったり、雑誌編集をしたり、独特の文体のエッセイ(「ハハァそうなのか、そうなんだな」「こいつは、かなりむずかしいな、とまた呟いた」)を書き散らしたりして、一気に七十年代の若者に受け入れられたのだった。あらためて、植草甚一という人物について勉強したくなったりするのだけれど、とても多い著作リストを眺めると、そんな気持ちもすこし挫けそうになるのである。

「植草甚一/マイ・フェイバリット・シングス」 2007.9.29-11.25 世田谷文学館(月曜休館)

ちんどん

2007-11-12 23:41:32 | 音楽
「とざいとーざい、とざい東西とはひがしにし。南北はみなみきた。きたきたきたきたやってきたのは、アダチ宣伝社でございます。大変お騒がせいたしております。本日の開店、大売り出し、お客さまにはこれからも、ご愛顧ご贔屓何卒よろしくお願い申し上げます。いらっしゃいませ、いらっしゃいませー!」(「チンドン・グレイテスト・ヒッツ!」アダチ宣伝社より)

土曜日、ちんどん屋さんの練習に行ってきました。演奏、譜面ベースではありましたが、聞いたことのある曲ばかり、キーも(B♭管で)CやF、Gで、けっこう対応できました。きっちり譜面どおりでなければ駄目だというわけでもなく、みんなアドリブ効かせていましたしね。縦軸が合えばオッケーとのことです。ここらあたりから、楽譜に慣れていけば、そのうち読譜も身につきそうな気がします。

というわけで、しばしば練習それから本番にも参加することとなりました。距離があるので、全部参加というわけにはいきませんが、いまのところ筆者がいなくても、リズム隊のチンドンのほか、ソプラノサックス、テナーサックス、クラリネットとメンバーが揃っているので問題はなさそうです。本番デビューは来月?、着流し白塗りでしゃなりしゃなり、楽しみだ。それから、ちょっと、ちんどんの歴史も勉強してみよっと。ジャズとの共時性も調べてみたいです。

来週はロカビリーバンドのダイナマイトのライブ。今週末はテクノのバンドで飛び入りやることになりそうです。おもしろいなあ。

ひさびさサックス

2007-11-10 18:26:46 | 音楽
昨夜は足利で音楽。十二日ぶりにサックスさわりました。一日休むと調子取り戻すのに二日かかるといわれるサックス、さて出来は。もう酔っぱらって調子なんかわかりゃせん、でした。誕生日祝いにいただいたシャンパンとワインにやっつけられてしまいました。みなさん、ごちそうさまでした。

二日酔いの痛む頭をかかえて今日はこれから、ちんどん屋さんの練習に顔を出してきます。がんばってきまーす。

『Brothers of the Head』

2007-11-08 23:51:02 | 書籍
邦題『ブラザーズ・オブ・ザ・ヘッド』。ブライアン・W・オールディス著、柳下毅一郎訳、河出文庫、2007年(原著1977年)。イギリスのさびれた田舎、ちいさな半島に奇妙な兄弟が住んでいます。長男のトム、次男のバリー、そして秘密の名を持つ三男。三兄弟は一つの身体を共有しています。つまり、彼らは畸形の結合双生児なのです。トムとバリーの身体は胴体の部分で癒着し、循環系を共有しています。そしてバリーの肩に腫瘍のように寄生しているのは三男、彼は生きているのでしょうか?

彼らが希少な症例として医学TV番組に紹介された姿を、ある音楽プロデューサーが目にします。商売上手な彼は、この畸形の兄弟で一儲けをたくらみます。父親の許可を得たうえで兄弟を連れ出し、リーダーを失い落ち目になった元売れっ子バンドのボーカルに据えます。おとなしいトムと、粗暴でわがままなバリーは幼い頃から確執を抱いていました。当然でしょう、十八になってもいつでも必ず隣りに兄弟がいる。その状況は彼らに精神的な負担を常に強いてきました。

ショッキングな姿とエロティックな唄、兄弟はまたたくまにロックスターに登りつめます。しかし、ステージやツアーでの過酷なストレスは、二人を極限的な精神状態にまで追い込み、ついにバンドは破綻します。それでも、バンドのギタリストにして作詞作曲もこなす繊細で自閉的なポール、兄弟に付き従いついには二人を愛し迎え入れるローラ、彼らとの出会いは、トムとバリーにとって田舎にいては決して味わえない体験でした。

仲間を失い、故郷の半島に戻り暮らす兄弟。そこにふいにローラが現れ彼らと再会を果たします。しかしながら結果的に、この出来事がトムとバリーの関係に決定的な決裂をもたらすことになるのでした。兄弟の諍いの悲劇的な結末、それでもかろうじて得た安息のなか、ふいに三男が目覚めるのでした。

作者オールディスは、『残虐行為展覧会』のJ・G・バラードとともに英国を代表する前衛作家。特に六十~七十年代は豪華絢爛イメージの奔流『マラキア・タペストリ』、まるで数学の証明のような『世界Aの報告書』など、難解な小説で知られています。いっぽうで、この『ブラザーズ~』は一級のエンタテイメントです。もっとも、時系列に物語が進むような単純な構造はもちろん持たず、前半は芥川龍之介『薮の中』のように関係者の証言が語られ、後半はトムの夢の中の心象風景が克明に語られます。

それでも物語がいい意味での”軽さ”を失わないのは、ロックというあくまでポピュラーな音楽がテーマであるからでしょう。六十~七十年代ポップスターが若くしてばたばた死にながらも、ジョン・レノンが真剣に愛を唄い殺されても、クリムゾンが小難しい顔で演奏しても、それでもなおロックは”軽い”です。もちろん、それはとても良いことです。思わせぶりな重さよりは、血を吐くような苦しみのなかそれでも苦しみ紛れであっても”軽やか”な表現に、筆者は感銘を受けます。

馬鹿ものども、あるいは、だから、ぼちぼち音楽を

2007-11-05 23:54:23 | 音楽
また政治が騒がしいです。安倍さんに続いて小沢さんも「オラ、やーめた」って。選挙で選ばれて税金で食ってて、そりゃないでしょ。そんなんだから官僚や諸外国になめられっぱなしになるんじゃん。まったく。マスコミ界の大物、特に名を秘すナベツネさんも暗躍しているらしく、あの腐臭漂う老体もいい歳こいてよくやるよ。そうなれば「大連立は小沢から持ちかけられた」との読売の報道も、どう考えても世論操作でしょ。「三国人」と堂々とのたまう都知事もいれば、戦中さながらの報道統制、いよいよ大政翼賛会の復活か?

雨降りだから音楽のことでも考えよう。再来週、ダイナマイトのライブです。今週練習があるのですが、残念ながら仕事で参加できません。アレンジだけは考えておかないと。週末は、ちんどん屋さんの練習に参加してこようと思っています。楽しみだな。明治大正期からの広告媒体にして大道芸とも不可分な演奏は、以前にも書きましたがとっても興味があります。

先日、『ベスト・ワールドサウンズ100』なるお徳版CDを買い求めてまいりました。アイヌ民族の楽曲が含まれていたからなんですけど、沖縄音階はもとより各国伝統の旋法とリズムはかなり興味深いです。リズムなんか何拍子なのかまったく分かりません。旋法も複雑。でも、よく考えればブルースのスケールも民族旋法と言えますね。ジャズのなかからモードが出てくるのは必然だったのでしょう。やはりマイルスは偉大だったのか?もちろん偉大です。好きじゃないけど。

ここまで、政治とちんどんと民族音楽について書いてきました。書かれた画面を三メートル離れて眺めたところ、同じことを書いていることに気づきました。国家とは民族とはなにか。偏狭で閉鎖的な国粋主義者もジャズファンも大嫌いです。しかし日本人であり日本に生まれ育ったことは事実です。日本の伝統を愛しながら、しかしそれを相対化すること。

あなたとわたし、どちらが優れているかなどという議論は不毛です。不毛どころか血を見ます。どの音楽ジャンルが優れていて、どの音楽ジャンルが劣っているかなどいうのも、どこの国が優れていてどこの国が劣っているかなどというのも同じく不毛です。不毛どころか血を見ます。まあ誰もどれもどの国も同じように素晴らしく、しかしまあ、誰もどれもどの国も同じようにくだらないと言えばくだらないってところでしょう。

付記:ただいま上記の六枚組CDを聞いていたところ、ガーナの打楽器音楽とフランク・ザッパのシンクラヴィア打ち込み音楽が酷似していることに気づきました。そういうことだったのか。脱カテゴリーの偉大なる先人。やっぱりすげえな。

『ヘヴィ・ゲージ』

2007-11-04 23:05:30 | 書籍
角川文庫、1995年。いかさんイチオシの作家、花村萬月の短編集です。いくつかの短編と中編「ナッシング・バット・ザ・ブルース」が収められています。やはり標題のヘヴィ・ゲージが出てくる「ナッシング~」が最も面白かったです。アメリカに単身訪れたジロー。彼の父は満州の地を彷徨い歩き、ジローの母である女に種付けするとすぐに死んでしまいます。その母は、長崎にて胎内被爆を受けており、腐った臓物のような下痢をし続けたあげく亡くなりました。

ジローは、米軍基地でブルースを演奏し生活していましたが、ブルースへの愛情止み難く渡米します。そのアメリカ、マンハッタンのスラムで、彼はヘヴィ・ゲージを張った1963年製ファイア・バードを抱える伝説のブルースギタリスト、ジョニー・Oに出会います。日本の熱心なファンのあいだでは既に死んだとされており、その出会いは衝撃でした。たとえばすぐに帰国し、ジョニー・Oと共演したと言えばそれだけで充分飯が食えるほどの大物です。

しかしジローは、ジョニー・Oと、さらに言えばその妹サリーに惹かれ、しばらく彼らのもとに留まります。なぜジョニーは雲隠れをしていたのか、妹サリーとは何者なのか。さらにその後の彼のニューオリンズ放浪、その地における売春宿と、ヴードゥの儀式。父も母もなくアメリカと日本の端境で生きたジローが、唯一心より探し求めた”ブルース”は、しかし当然のことながら日本人には遥か遠く、黒人のまさに血のなかに溶け込んだ音楽だったのでしょう。「人生、ブルースしかないじゃない!」、逆に言えば彼らの人生こそがブルースなのです。

ブルース、これほど他民族に食い尽くされた果てに、かつ商業的に成功した音楽はないでしょう(最近では”ケルト”が同じようにもてはやされていますが)。特に日本ではブルースやジャズに関して、鹿爪らしい顔をしたおじさんたちが、真面目くさってレコードに聴き入るような文化がありました。マイルスやコルトレーンは彼らのヒーローであるが故に、筆者は嫌いです。まったく黒人音楽をどうしようもなく、どんづまりなところに押し込みやがって。閉鎖的な日本のジャズファンは百害あって一利なしです。

思うまま日記

2007-11-02 23:40:47 | 雑事
すっかり気温が下がって、なんだか冬の気配まで感じるようになってきた今日この頃。皆さん、いかがお過ごしですか。体調など崩しておりませんか。風邪をひいたなどという話も、ぼちぼち耳にします。どうぞご自愛のほどを。

さて、読みかけの本はあっても読了までは遠く、今週は音楽の予定も入れていないので、ネタがありません。残念ながら文化の日の明日も仕事で、お客さんの大学に行かねばなりませんし。大学、この時期どこも学園祭の時期なのですよ。明日も騒がしいことになっているのだろうなあ。つくづく学生は羨ましいなあ、と思います。

そろそろ時間見つけて一度ジャズサックスの教室を覗いてみたいな。決してジャズ演奏オンリーで音楽をしていきたいとは思ってはいないのですが、しかしながら今のセッション中心の音楽活動において、アドリブのメソッド蓄積は歴史的に見てもジャズがナンバーワンです。先人が切り拓いたインプロヴィゼーションの財産は、引き出しの一つとしても持っておかねばと思ったりします。

あ、音楽のことは考えないつもりだったのに。あわてて舵を切り、本のことでも。なるべく視野を広く保ちたいと最近は本屋で目についた文庫を片っ端から買っていますが、本当に読みたいのは海外の五十年代から七十年代初頭までの文学、哲学だったりします。これがどうしようもなく難解で、一日見開きニページ読めばもうコトリと寝入ってしまうような本ばかりなのですが。

しかし魅力があるのです。なんなのでしょう。この時代の本の魅力を、普通の本好きの人に話そうとしても、何をどう話してよいやらさっぱり分かりません。あの映画(のストーリー)はとっても良かった、なんて具合とはまったく違った有り様で面白いのです。その本を貸してせっついてせっついて読ませても、おそらく意味が分からんかった、と言われそうな気がします。なにしろ実際、筆者が読んでも意味が分からんのですから。でも面白い。なんなのでしょうねえ。