今日も本を紹介します。重松清著、講談社文庫、2003年。著者は、出版編集者を経た後、フリーライターとして活躍。雑誌記者、ゴーストライターなど、裏方的な仕事を多数こなします。やがて、少年たちの闇の世界を描いた小説『エイジ』で文学賞を受賞。現代社会にコミットメントする作家です。
このルポルタージュ集、書き手はみずからを”読み物作家”と位置づけ、第一線を走るルポライターとしてではなく、世紀末に起こった事件の現場に、それこそ騒ぎが静まった頃に訪れ<蛇足><寄り道>を付け加えたと、まえがきで述べています。
しかし、その<蛇足>のつけ方がふるっています。池袋の繁華街、包丁とハンマーで十人を襲い二人を殺害した通り魔青年に引きつけて語られるのは、中上健次の『十九歳の地図』。テレビ中継が衝撃だったバスジャック事件の犯人の少年には、大江健三郎の『セヴンティーン』。そして、新潟の少女監禁事件に対応するのは坂口安吾『桜の森の満開の下』ときた。
一九六四年生まれのブッキッシュな著者の、しかし世紀末の日本を見つめる目はイロニーに満ちています。犯人の内面に生起したことは、不可避的に犯人自身にしか分からない。裁くことを職業とする裁判官にも、想像力を職業とする作家にも、伺い知ることができないのが、犯人の心であり、他者の心です。かろうじて注釈を付け足すのが関の山でしょう。
同じ世紀末の少年犯罪、山口の母子殺害事件が思い出されます。最近のまるでナンセンスな精神分析とサブカルチャーをごった煮にしたような犯人の弁明は、弁護団の入れ知恵なのか否かは別にして、あきれかえるばかりです。あえて言うなら筆者のくだらん小説よりもさらに数倍低俗です。
少年の更生の可能性、あるいは精神鑑定による責任能力の有無、これらは人を裁くうえで考慮に含められるべきことなのでしょうか。いや、そもそもはたしてそれらを見極めること自体が他者に可能なのでしょうか。筆者は懐疑的です。ですから、行われたことに対しては冷徹な処罰を求めます。
このルポルタージュ集、書き手はみずからを”読み物作家”と位置づけ、第一線を走るルポライターとしてではなく、世紀末に起こった事件の現場に、それこそ騒ぎが静まった頃に訪れ<蛇足><寄り道>を付け加えたと、まえがきで述べています。
しかし、その<蛇足>のつけ方がふるっています。池袋の繁華街、包丁とハンマーで十人を襲い二人を殺害した通り魔青年に引きつけて語られるのは、中上健次の『十九歳の地図』。テレビ中継が衝撃だったバスジャック事件の犯人の少年には、大江健三郎の『セヴンティーン』。そして、新潟の少女監禁事件に対応するのは坂口安吾『桜の森の満開の下』ときた。
一九六四年生まれのブッキッシュな著者の、しかし世紀末の日本を見つめる目はイロニーに満ちています。犯人の内面に生起したことは、不可避的に犯人自身にしか分からない。裁くことを職業とする裁判官にも、想像力を職業とする作家にも、伺い知ることができないのが、犯人の心であり、他者の心です。かろうじて注釈を付け足すのが関の山でしょう。
同じ世紀末の少年犯罪、山口の母子殺害事件が思い出されます。最近のまるでナンセンスな精神分析とサブカルチャーをごった煮にしたような犯人の弁明は、弁護団の入れ知恵なのか否かは別にして、あきれかえるばかりです。あえて言うなら筆者のくだらん小説よりもさらに数倍低俗です。
少年の更生の可能性、あるいは精神鑑定による責任能力の有無、これらは人を裁くうえで考慮に含められるべきことなのでしょうか。いや、そもそもはたしてそれらを見極めること自体が他者に可能なのでしょうか。筆者は懐疑的です。ですから、行われたことに対しては冷徹な処罰を求めます。