時代のウェブログ

イマを見つめて
提言します

マスコミが報じない被災地のいま

2011年11月10日 14時39分00秒 | 東日本大震災
「もうあんまり支援しないで欲しい」
仮設住宅で暮らすAさんがポツリと漏らした。
もちろん支援が迷惑なのではなく、周囲の風当たりの強さに悩んでるのだという。
「また色々とやってもらえるみたいね」
そんな皮肉を職場で言われたそうだ。
この冬、仮設住宅に窓の二重サッシ化・二部屋めのエアコン設置・一室の畳敷き・暖房便座の付け替え・風除室設置などが行われる予定。
「だったら仮設住宅で暮らしてみなさいよ」
なんて言おうものなら大変だ。
「入れる物なら入りたいわよ。こっちは築30年ってアパートに自腹で家賃払って暮らしてるのに、大家は壊れた箇所すら満足に直してくれないんだから」なんてキレられる。
仮設住宅の入居資格は原則「大規模半壊」以上の被災者に限られている。

義捐金の配分は、全壊35万円、大規模半壊18万円だったのに対して、半壊・一部損壊については0だった。これにも不満が渦巻いている。
「あそこの家はウチと大して変わらない被害なのに、あっちは大規模半壊でウチは半壊」
家はひとつとして等しく壊れないから、こういうことになる。
フィギュアスケートの採点でさえ「おかしい」と不満が出る。ましてやこちらは金銭が絡むのだからシビアだ。
こういう事態になるとマスコミは判定した自治体や公務員を責めがちだが、それは気の毒。あれだけの被害であるから一つの矛盾もなく判定しろというのが無理。さらに言えば判定に不服がある人の申し立てを受け付けたが、これがさらに混乱の助長に。不服のある人間は破損箇所の細部に渡る写真等を持ち市役所へ行った結果、半壊から大規模半壊に「格上げ」されたが、不服を申し立てなかった世帯はそのまま――で、さらに「なんであそこは」となる。

「家が全壊した方は本当にお気の毒に」、「仮設住宅で暮らす方は大変でしょうに」
――これは誰もが持つ素直な感想だろう。
しかし、それだけでは済ませられない事態が被災地では進行しつつある。
これをそのまま放置しておけば、被災者間の対立から地域の崩壊まで進みかねない事態となろう。

マスコミのうわべの「絆」とか「助け合い」とかばかり唱えてないで、事実・真実をたまには伝えて欲しい。

原発周辺住民、一時帰宅へ

2011年04月27日 04時28分23秒 | 東日本大震災
東京電力福島第一原発から半径20キロ以内の警戒区域に指定されている避難住民の一時帰宅が大型連休明けにも実施される見込みとか。
その日のマスコミ報道が、もう今から予想できる。
マスコミ「今日は何を持ち帰りますか?」
住民「位牌と、貯金通帳と、家族の写真類です」
なんて、別に聞かなくても良いことを聞きまくるのだろう。

一時帰宅住民が警戒区域内に留まれる時間は、わずか2時間程度になるようだ。
もしもマスコミに「人間の心」が残っているのなら、この日、一時帰宅者から貴重な活動時間を浪費させるような真似は自重してやれ。
新聞社、雑誌社、NHK、民放すべてで協定を結び、住民への接触を一切、自粛するべきだ。
でも、多分、そんな良心は残ってないだろうなあ。

こうなれば、警戒区域の首長はマスコミの同行取材を拒否してほしい。
それが住民保護だ。
一部マスコミは「報道規制の独裁者」とか叩くかもしれないが、時には善意の独裁者も必要だろうw

菅直人はマックでバイトしろ

2011年04月23日 19時02分08秒 | 東日本大震災
菅直人が被災地を何度も訪問した。
漁港で漁師を激励したり、避難所で避難民の訴えを聞いたりした。
そのニュース映像を見る度に不愉快になった。
あのような場所で、よくもヘラヘラ笑ってられるものだ。

両目にいっぱい涙を溜めて「みなさん、がんばってや」と、西川きよしのように号泣されても困るが、菅直人のへらへら笑いも同じくらい迷惑だ。ストレスが溜まる。
本人は被災者を和ませて、勇気付けるために微笑んでいるつもりなのだろうが。

学生時代、監督やコーチ等が話てる最中に、「歯を見せるな」と、何度か注意された。
真剣な場で、口を開けて笑うのは相手に失礼と感じる。
笑い方もいくつかパターンがあるのだろう。
マクドナルドでは、スマイル=0円の正しい講習があるらしい。

菅直人はクドナルドの講習を受けに行けば良い。
国会にいても官邸にいても大した仕事をしてないうえに、被災地に行けば迷惑をかけてるのだから、ハンバーガーを売っててくれたほうが、まだマシだ。もちろん菅が働けばマックの売り上げがダウンしそうだが、その分は国家が保証してやれよww

トップの知恵

2011年04月13日 18時16分32秒 | 東日本大震災
震災直後は市内に十数箇所の避難所が設けられていたが、学校の新学期が始まるのに伴い、五箇所に統合された。
ライフラインが復旧して自宅へ戻れる被災者も増え、避難所生活を続けるのは家屋が全壊、半壊したような被災者に限られてきたこともある。ただし自宅で生活できるといっても、雨風をしのいで眠れるだけというような被災者は少なくない。家具・家電などが全て使用不能など、とても「普通の生活」とは程遠い。従って避難所では、自宅へ戻った被災者に対しても物資の配給等を続けている。

筆者宅から、ほぼ等しい距離にA避難所とB避難所がある。
A避難所での配給方法。午後5時から配給すると告知。避難所へ行くと、避難所暮らしの方々と在宅配給者と、2種類の列を作らされ、避難所暮らしの方々から物資が配り始められる。これが30分ほどかかる。配給慣れしてる避難所の方々は、長時間に渡って並ばされるのを嫌い、ゆっくりと出てくる方もいる。そうした避難所生活者への配給が全て終わったあとに、在宅被災者への配給が始められる。在宅被災者に比べて避難所生活者の方々は、住む場所を失った、より辛い方々であると頭では十分に理解している。そういう方々を優先するのは当然だ。しかし分かっていても、配給を待つ度にストレスが溜まる。
B避難所の配給方法は少し異なる。避難所内で暮らしている方々には午後4時半から配給が開始される。いっぽう在宅被災者への配給は午後5時から。配給開始時刻よりも少し早めに着くことがある。避難所生活者への配給は行われているが、在宅被災者へはまだ配られない。5時になっていないのだから当然だ。別にストレスは溜まらない。
A避難所もB避難所も同じ物資を市から届けられて配給している。さらに避難所で生活している家屋を失った方々をまず優先する方針も同じだ。ただひとつ違うのは、運営する人間がそこに知恵を巡らせているかどうかの僅かな差だ。
トップが僅かに知恵を働かせるだけで、住民の幸福度は全く変わってくる。
これは,避難所でも国家でも同様だろう。

義援金は埋蔵金に非ず

2011年04月09日 17時41分05秒 | 東日本大震災
義捐金(義援金は当て字)の分配方法が決まったそうである。
家族から死者・行方不明者が出たら1人につき35万円。
福島原発の避難地域に居住してた者も35万円。
家屋が全壊または全焼したら35万円。半壊・半焼は18万円。
他に怪我を負った者と床上浸水した者については金額未定だが、考慮するようだ。
そして、それ以外の被災者にはびた一文配分しないようだ(笑)。

阪神大震災後、大規模な天災に対して、さまざまな救援制度が設けられた。
たとえば家を失った者への救済制度が設けられた。また天災で死亡した際の弔意金の制度もある。
だが今回の東日本大震災は、あまりにも規模が大きすぎて、とても政府の財政では賄い切れないといわれる。
十分な被災者補償をするには、財政の逼迫するほどの大量の赤字国債の発行や、時限的にせよ消費税を含む大型増税が不可避とされる。
もちろん、どちらを行っても、内閣支持率が大幅に下がりそうだ。

菅直人の目には、義捐金が「埋蔵金」に見えたのかもしれない。
だが義捐金を募金した国民は震災で苦しむ被災者に対して浄財を募金したのだ。決して菅直人に募金したのではない。

もはや首都機能の一部を関西に移転するしかないのでは

2011年03月25日 15時34分07秒 | 東日本大震災
(6)もはや首都機能の一部を関西に移転するしかないのでは
東京「都」知事選挙が始まったそうです。
関東地方では相変わらず計画停電が続いています。
いったい、この先,どうするのでしょうか?

東京電力が福島第一を復旧、使用しようと考えているとは思いませんが、なんか福島第二に関しては、夏までに復旧再開を目指しているような気がします。でも、福島県民がそんな事を了解するとは到底思えません。いくら交付金を積んでも無理だろうと思います。
電力消費が最大になるのは、やはり夏でしょう。もしも去年のような猛暑が訪れたとして、それでも計画停電なんて実施するのでしょうかね?
おそらく暴動になっちゃいますよ、そんなことしたら。

関東地方の電力需給を落ち着かせるには、もはや首都機能の一部を関西に移転するしかないのでは?
6月までにやらないと間に合わないと思いますがね。
「都」知事選なんかしてる場合じゃないんじゃありませんかね?

(7)「オキナワ」からの投書
停電中はずっとラジオを聴いてました。ちなみにNHK受信料は「受像機(テレビ)」に掛けられるものでラジオ聴取は自由ですから(笑)。
リスナーからのご意見で、次のような物がありました。
「沖縄で節電やガソリン節約をすると被災地の人がどう助かるのでしょうか?」
被災地ならずとも、カチンとくる投書に思える。しかも、それまでは「節電や募金くらいしかできませんが、被災地を少しでも支援したいと思います」的な殊勝な投書が続いた中で、突然、こんな投書だ。

表現・言論の自由が保障されている。顕著なのは2ちゃんねるのようなネット・メディアだろう。ネットは受信者責任のメディアといえる。情報に責任を持つのは受け取り手だ。だから、犯行予告のような違法性がある物以外は自由に表現できる。これに対してマスコミは、発信者責任を前提としている。だから「放送中に不適切な部分がございました」などと謝罪する。

そうした発信者責任のメディアで、あえてNHKが、この「ご意見」をチョイスして放送した「意図」は何だったのか?
普天間基地異説問題で「基地を移転するよりも、基地の周りに住んでる人たちに引っ越してもらうほうが簡単なんじゃない」と発言して顰蹙を買った有名人がいた。
ある意味じゃ、それに近い。「そんなの関係ねぇー」ってスタンスでは。

今回。、被災地では米軍が献身的に活動してくれた。太平洋の空母から支援物資を被災地に運んでくれた。中心になったのは、かの「海兵隊」である。ルーピー前首相ではないが、「日本に海兵隊は必要だ」と認識した国民が少数ではないかも。
「それに比べて、この沖縄の投稿者ときたら……」

たった一通の投書で世論を形成することもできる。もちろん、この一通の投書が沖縄県民の相違なんてことはない。むしろ苦しみを感じている沖縄県民のほうが、より他人の苦しみを理解できるはずだ。
そんなふうに深く考えれば考えるほど、この「オキナワからの投書」には疑惑と不信が強まる。
やっぱりNHKは信用できないw

爆発・炎上するコンビナート

2011年03月25日 14時23分56秒 | 東日本大震災
(4)燃えるコンビナート

当地で停電が復旧したのは21日で、のべ11日間、停電が続いていましたが、震災直後は「明るい夜」が続きました。
というのも当地は仙台港臨海工業地帯の一角にありますが、そこで大規模な火災が発生していたためです。
ただし同時期に福島原発事故があったため、報道されることはほとんどありませんでした。
石油化学コンビナートが爆発、炎上し、爆発のたびに衝撃波で窓ガラスがピシピシ震えていました。本来ならば、かなりの恐怖を感じなければならない大惨事でしょうが、巨大地震・大津波と現実離れした事態に次々と襲われると、もはや何事も現実感が麻痺してしまうのか、「映画みたいだな~」などと燃え上がるタンクを眺めていました。
「日本沈没」という映画がありましたが、大地震以降のあらゆる出来事があの映画の中に入ったような感じでした。
消防等は被災者救出が第一だったようで、消火まで手が回らないようでした。実際に消火しようとしても、もう成す術がなかったのかもしれません。燃料が全て燃え尽きたのか、コンビナート火災は14日頃に鎮火しました。

ところで今回の災害では、いくつも「塞翁が馬」を経験しました。先に書いた「雪が降ってきて寒くなったから、部屋に入って津波を間逃れた」のもそのひとつですが、石油化学コンビナートもそのひとつかもしれません。
事情を知らない方は「そんな危険な施設が近くにあって災難でしたね」というかもしれません。しかし、あるいは石油化学コンビナートがあったおかげで助かったのかもしれないと思います。というのは――。

仙台市若林区の荒浜では、200体から300体の溺死体が発見されたそうです。同じく名取市(仙台市の南)の閖上(ゆりあげ)でも100体が見つかったそうです。宮城県の方なら知っていますが、これらは有名な海水浴場です。美しい砂浜が海岸線に広がっています。すなわち、津波の侵入を妨げる物がほとんどなかった(今回の津波の高さは防波堤をはるかに超えています)。仙台市の調査では、荒浜では海岸から10キロ以上奥の土地まで津波が達していた形跡が残っていたそうです。
これに対して、当地は海岸線に多数の工場が建てられていた。津波は、これらの建造物を破壊するために大量のエネルギーを消費したため、内陸まで達しなかったと見られるように感じます。
専門家ではないので科学的データはありませんが、各種の報道を見聞した実感です。

だったら湘南海岸あたりの海水浴場にも工場でも建てとけば安心かと思いますが、さすがにそれは現実的ではないでしょうね。まあ10階建てくらいのマンションを林立させとけば、いざという時に防波堤の役目をしてくれそうな気がします。これは被災地からの提案です。


(5)臨場感の演出はいらない

「報道フロアから最新のニュースです」というのが一般化したのは、いつごろからでしょうか。
フジがお台場、日テレが汐留などに移転したころからかな?
スタジオではなく、報道フロアから放送するのは、緊急ニュースが入った時にスタジオよりも早く伝えられる利点がある――と、マスコミは説明するでしょう。確かに、その通りでしょうね。
しかし、報道フロアのノイズ、例えばアナウンサー以外の人の声や、電話などの音――あれは「臨場感の演出」でしょう。現在のマイクの性能ならば、アナウンサーの声だけを拾って、他の音声は全てカットすることが可能です。
わざと入れてるんですね、あれは。

震災後、ずっとラジオを聴いていましたが、恐怖の連続でした。
地震を知らせるアラーム音が、ひっきりなしに聞こえてくるからです。あれが聴こえるたびに、「また余震が来る」と、命が縮まる気分でした。さらに震災後は長野県北部+中越地方や、静岡県東部でも大きな地震が発生しました。それが宮城県とは関係なかったからか、緊急地震速報のチャイムが聴こえても、その後にアナウンスされないこともありました。これは余計に恐怖でした。
ともかく、ああいう演出は全く不要です。マスコミはきちんと改善してほしいと思います。

そして大津波が襲ってきた

2011年03月25日 11時52分56秒 | 東日本大震災
(3)津波

マンションからは、ほとんどの住民が外へ飛び出してきていた。本震後も余震が数分単位で起きていた。
余震といっても震度4や5というから、平時ならば「強い地震」で、余震なんて感覚ではない。
本震と同時に停電したため、テレビで情報を得ることはできなかった。
ラジオだけが鳴っていた。
大津波警報が出されたと知ったのは10分後くらいか。しかし、この時点では津波よりも余震が恐怖だった。
へたに室内に戻って倒壊したら……が最大の恐怖だった。
そのため、マンション外の駐車場でラジオを聴いていた。
と、雪が降り出してきた。東北の寒さが避難民を苦しめたと報道された。確かに停電・灯油不足での寒さは過酷だった。
しかし、本震から大津波襲来までの間に降り始めたにわか雪によって、筆者は助けられた一面がある。
室内着のまま、外へ飛び出したので、さすがに寒かった。さらに余震の感覚が長くなり強さも弱まったので、室内へ戻ることにした。
室内へ戻ると、まずはねこの安否を確認した。家具類はほぼ全て倒れ、ガラス類はことごとく割れていたので、あるいはケガをしているかもしれなかった。
しかし、そこはねこ。老いたりとはいえ身軽なようで、しっかりベッドの下へ潜り込んで避難していた。
名前を呼んだが、おびえていて出てこなかった。
ねこが無事なのを確認したのでベランダへ出てみた。
周囲に倒壊した建物等がないか確認するため。

しばらく外を見ていると、道路を水が流れはじめた。
廊下でバケツをひっくり返すと、水がサーッと廊下を伝うが、そんな感じだった。
水かさが増えるのは、あっという間だった。わずか1分程度で1mほどになった。すると水面を様々な物が流されていった。最も多かったのが自動車だった。水面にボートのように浮かび、ぷかぷかと流されていく。
5分程度で建物の1階がほぼ水没する水かさまで増水した。幸運だったのは、それが最大水深でそれ以上は増水しなかったことだ。そのため筆者宅は水没せずに住んだ。しかし地域によっては建物の4階まで津波に洗われた地域もあった。もしそんな地域に住んでいたなら、あるいはもうこの世にはいなかったかもしれない。それは、ほんのわずかの「運の差」だった。
もちろん全員がきちんと避難できたのではなかった。
町のあちらこちらからは「助けてください」という悲鳴が聞こえていた。かといって、2メートル近い水深で町全体が水没している中では、どうすることもできなかった。ただ、「どうかご無事で」と祈るだけだった。
のちの発表では犠牲者は50名余だったそうだ。他都市よりも少なかったのは、当地が仙台市のベッドタウンで地震発生時は多くの住民が仙台市へ通勤・通学していたためだったようだ。そのため被災者が少なくて住んだが、反面、町に残された住民は主婦や老人、小児等が多く、働き手の成人男子が少なかったのが初期の避難活動を困難にしたようだ。そんな中、警察・消防・自衛隊は住民のために懸命に働いてくれていた。あらためて敬意を表したい。

東日本大震災(1)

2011年03月25日 11時13分39秒 | 東日本大震災
(1)前兆

3月11日の話を書く前に、3月9日から話を始めたい。
この日、結構大きな地震が岩手・宮城で発生した。
最大震度は宮城県栗原市で震度5だった。仙台や塩釜の震度は4強。
栗原市といえば岩手宮城内陸地震で甚大な被害を受けた地域だ。
「また栗原で地震だって」、「気の毒にねえ」。
そんな事を近所の方々と言い合っていた。
この地震で津波警報(注意報かも)が出された。しかし津波は来なかった。今にして思えば、これで津波に対する警戒が少し緩んだかもしれない。この時に1m程度でも津波が観測されていれば、11日にはもっと津波に対する警戒心が高まっていたかもしれない。

9日の夜は余震(そう発表されていた)が続いた。
宮城県は地震が多い。先の岩手宮城内陸地震をはじめ、30年ほど前には宮城沖地震もあった。震度4程度の地震は毎年、数回も起きている。だが9日の地震は何か違う違和感を感じた。今にして言うのは「あとだしジャンケン」みたいに思われるかもしれない。
しかし本当におかしかった。SNSに「余震大杉」と愚痴を書いた。

結果的に、あれは余震ではなかった。9日の震度5の地震こそが今回の東日本大震災のプロローグであり、そこから11日に向けて大地は加速しはじめていた。そんな気がする。地震慣れしている宮城県民にして、強く感じた違和感の正体が、その2日後に明かされる。

(2)本震

「地鳴り」という物を聞いたのは初めてだった。これまでも震度5までの地震は体験している。
それは、突然の上下動から始まる。そして激しい横揺れと変わる。学校の理科で習ったP波・S波そのままの動きだった。
しかし11日の本震は、これまでとは全く異なる始まり方をした。
床下から轟音が鳴った。まるで地中に巨大スピーカーが埋められたかのように。
地鳴りから揺れ始めまでは少しの時間があった。数秒から10秒程度か。少なくとも「この音は一体何だろう?」と疑問に思って、あれこれ考える時間はあった。そして激しい揺れが襲ってきた。
のちの発表で当地の震度は6強だった。これまで5までは経験していたが、それとは全く違った。
馬型の背に乗って振り落とされないようにする「ロデオマシーン」なるゲームがあったが、まるでそんな感じだった。もちろん立っていることは不可能で、すぐさま床にしゃがみこんだ。家具という家具が転倒した。あとで分かったが、大人2人でも持ち上げられない100キロ近い中身が詰まった箪笥の下に、座卓が敷かれていた。つまり箪笥がジャンプした瞬間に座卓がその下に潜り込んだようだ。
揺れている時間の長さも異常だった。通常の地震では、縦揺れ→横揺れが襲って収まる。つまり縦揺れから横揺れに移行すれば「そろそろ収まる」となるが、この地震は横揺れに移行しても一向に収まらなかった。異常に長かった。発表では3分間は揺れていたそうだ。たかが3分とも思えるが、カップヌードルが食べられるようになる時間、ウルトラマンが怪獣を倒せるむ時間と考えれば、何をするにも十分な時間かもしれない。
ともかく何が起きたかまるでわからないまま、ようやく揺れが収まった。
地震で慌てて外へ出るのは危険といわれる。しかしニュージーランド地震で多数の日本人留学生が犠牲となった倒壊したビルの記憶が強く残っていた。自宅建物がどれだけ損壊したかわからないからには、一刻も早く表へ出たかった。
たまらず外へ出た。
今回の大震災は結果的に地震被害よりは津波被害が圧倒的だった。死者・行方不明者の大半は津波被害だ。
中には高層マンションの中にいれば安全だったのに、外へ逃げ出したために津波にのまれた人間もいたように思える。そして建物から離れた心理には、ニュージーランドで倒壊した建物の映像が強く作用していたように思える。
これも今回の被害を拡大した不幸なめぐり合わせの一要因だったように思える。