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イマを見つめて
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ゲームソフトの過剰演出

2020年09月15日 23時48分22秒 | 趣味・遊び
任天堂スイッチのゲームソフト「あつまれどうぶつの森」はウィズ・コロナの時代に相応しい良質なソフトと感じる。
ゲーム内容とかストーリーとか良く出来ているが、毎日午前五時をまたいでの最初の起動時のうんざりさだけは閉口物。
まずロード時間が異常に長い。そしてようやくロードしたかと思うと変な犬が出てきて「洗濯機の隅から靴下が片方見つかった」とか「昨夜のテレビにお気に入りの俳優が出ていて楽しかった」など意味のない話を延々としてからゲームが始まる。
かつて半導体の価格が高騰していた時代、ハードならスーパーファミコンの時代、ゲームソフトの価格は1万円もしていた。ソフト価格が高価だった光栄の作品だけではない。どのメーカーのゲームソフトもそれほど高価だった。にもかかわらず容量を十分に取る事ができずに、ソフトメーカー各社はゲーム内容を充実させるために、どれだけ余分な演出をカットするかに苦心していた。ファミコン後期に遡るが、歴史的行列ソフト「ドラゴンクエスト3」がゲーム内容を確保するためにタイトル部分を音楽も入れない動かない文字だけで済ませた話は有名。
それだけ容量確保に苦労していた時代だが、ゲームのテンポはむしろ今よりも快適だった印象。余分な演出を徹底的にブラッシュ・アップして内容のみを追求してた姿には好感が持てた。
それに比べると半導体の価格が安価になった現在は、とにかく演出を随所に加えておけば、ソフトがボリューミーに見えるだろうという製作者の安直な開発意識が垣間見えてしまう。
ゲーム開発者は猛省してもう一度、自分が作ったゲームを見直してほしい。