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起訴の基準

2010年10月05日 20時00分00秒 | 政治
「疑わしきは罰せず」
我が国の司法制度は「推定無罪」で営まれている。
これに呼応するかのように、検察の起訴も「推定無罪」、即ち「真っ黒」と断定できない容疑者は起訴しない。起訴して無罪になれば「検察の敗北」で、故に負ける戦いはしたくないということか。聞くところによると、起訴された事件が有罪と判決される確率は90パーセントを越えるらしい。

小沢一郎は、「検察が捜査して潔白であると証明された」と繰り返していたが、正確に言うと「潔白」ではなく「灰色までしかいかなかった」――つまり「真っ黒」と断定できなかったから「不起訴」だったのだろう。これに対して検察審査会の起訴相当という判断は「限りなく黒に近い灰色は、検察が自重することなく、きちんと起訴して裁判で白黒をはっきり付けろ」ということだろう。

それはそれで結構である。しかし、起訴基準をそのように改めるとなれば、社会全体を大きく変えなければならない。司法は「推定無罪」が原則と書いたが、社会は逆に「推定有罪」で動いている。
3つ前の「死刑の是非」で、「冤罪」に触れた際に「有罪となれば被告人の人生はぼろぼろになる」と書いたが、正確には「有罪となれば」ではなく「容疑者になれば」である。
村木元厚労局長は逮捕されてクビになった。他の容疑者も、ほとんど逮捕と同時に社会的立場を失う。さらに繰り返される逮捕報道で、全てが無茶苦茶となる。

社会が推定有罪となっている背景には、ひとつは先に述べた「検察は有罪を勝ち取れる見込みがなければ起訴しない」だろう。つまり検察が起訴すれば、「ほぼ間違いなく容疑者」だから、このように推定有罪で社会もマスコミも動いている。

しかし、今後、起訴基準を「限りなく黒に近い灰色なら、起訴して裁判で白黒付ける」とするならば、社会の仕組みも合わせて変えなければならない。
推定有罪でなく推定無罪で社会も動かなければならなくなる。
即ち、有罪が確定するまでは被告が「推定無罪」で保護される世の中だ。

意外に簡単そうに思えるかもしれないが、これは具体的に書くと、押尾学さんが現在でも俳優として作品に堂々と出続けている社会である。――それはかなり難しく感じる。

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