西向きのバルコニーから

私立カームラ博物館付属芸能芸術家研究所の日誌

私は昔、聖火を見た

2008年04月26日 19時09分00秒 | Weblog
 1964(昭和39)年。私は、京都市東山区山科(現在の山科区)に住んでいた。

 ある日、母が「聖火を見にいこう!」と、4歳だった私を連れて出かけた。その年開催された、東京オリンピックの聖火リレーを、私に見せる為に……。

 当時、聖火ランナーが走るコースは、一般には報じられていなかったようだ。しかし、学校には事前に知らされていたであろうことを察した母は、恐らく沿道へ声援を送りに向かうらしき小中学生達を見つけ、列を成して歩く彼らの後を付けるように、私の手を引いて北へ向かって歩いた。

 多分、30分以上歩いただろうと思う。今から思えば、4歳の子供がよく片道30分も頑張って歩いたものだ。それだけ、子供心にもオリンピックの聖火に対して、興味津津だったのかもしれない……。
 そうして到着したのは、府道143号線。京都薬科大学前を通る、通称三条通り。

 沿道で今か今かと待っていると、何台かの白バイやらパトカーやらの車列の後に、いよいよ聖火ランナーが走ってきた。
 トーチの赤い火より、もうもうと噴き出す白い煙が印象的だった。すぐに辺り一面の空気が、真っ白に煙ってしまった。
 気がつくと、私の目の前を通り過ぎたランナーが、何故か沿道の建物の中に消えていったことを憶えている。

 後に母に聞けば、あの時、聖火を受け継がれた次のランナーが東へと走り去り、それまで走ってきたランナーが、まだ火が点いたままのトーチを持って、建物へ入っていったのだという。今のトーチと違って、昔のトーチは燃料が燃え尽きるまで、火が消せなかったのだそうだ。

 少しばかり煙に巻かれてしまった、私のオリンピックの聖火の思い出ではあるが……。
 それでもその後数年は、棒キレや丸めた新聞紙を高くかざしながら走るという、聖火ごっこをよくやったものだ。


 さて……、今日の長野での聖火リレーを見た子供達は、将来どんな風に、その思い出を語ってくれることであろうか? いささか心配である。

近鉄喜志駅

2008年04月26日 12時48分00秒 | ステンショから
 近鉄長野線「喜志(きし)」駅。

 初めてこの駅を利用したのは、1980(昭和55)年2月。大阪芸術大学を受験直前、父と二人で下見に来た時だった。
 同年同大学入学後28年間(高松在住の一時期を除き)、ずっと現在に至るまで、最寄り駅として利用している。
 恐らく、生まれてからこの方、一番多く利用してきた駅であろう。

 「喜ぶ」に「志(こころざし)」と書いて「喜志」。友人の誕生日にこの駅の入場券をプレゼントなぁんて、昔はそんな気障な真似をしたこともあった。


 私の様々な思い出が、いっぱい沁み込んだ駅である。