最終章
冬休みは永かった。慌ただしい年末年始の二週間を、これほど永く感じたことはなかった。三学期が待ち遠しく思った。しかし一方で、三週間余り後に迫る高校受験が、重くのしかかってもきていた。三学期に入ると、さすがに教室にも、受験への緊張感が漂い始めた。
朝、浩人は白い息を吐きながら、北校舎の階段を一気に三階まで駆け上がった。そしていつも通り三年二組の教室の扉に手を掛けようとした時、全身がぴくり、として固まった。廊下から教室の中を覗くと、窓の薄っぺらな板ガラスの向こうに、何人か人が見えた。大勢の生徒がいる。まだストーブに火も入っていない寒い寒い教室には、音もなく声もなく、二十人ほどの生徒が机の上のプリントに向かっていた。よく見ると黒板の前には、裾の長い白衣を着た数学の里村先生がいた。生徒の顔ぶれも、二組の者だけではなく、見馴れない他のクラスの生徒もいる。受験対策に数学の特別授業が、早朝から行われていたのだ。浩人は数学が大の苦手で大嫌いだったから、そんな授業が始まっていたなんてことを、気にも留めていなかった。それにしても、思わぬ閉め出しをくらってしまった形になった。
「よりによって、二組の教室使わんでもええやないか」
特別授業が終わるまで、浩人は廊下に突っ立って、ブツブツぼやきながら待った。授業の後、誰かの尻に温められた椅子に座るのは、どうも気色のいいものではなかった。
そういう朝が何日か続いた。その何日目の朝であったか、やはり浩人が廊下に突っ立って、特別授業が終わるのを待っていると、教室から里村先生が出てきた。
「君もやってみるか」と、先生は数字や放物線ばかり書かれた、プリントを差し出した。「え……、いや、僕はいいです」と拒む浩人の背中を軽く叩きながら「ほれ、ええがな、まあそう言わんとやってみいな、ほれほれ……」と、里村先生は浩人をせき立てるように教室に招き入れた。特別授業は、受験対策に本格的に勉強したい者だけが受ける為の授業であって、自分のような数学劣等性が受ける為の、補習授業ではないのに……と浩人は思った。教室では何か場違いな感じで、自分だけが浮いているようにも思った。
しかしそんな数学音痴の浩人にも、里村先生は優しかった。机の上に置かれた数字だらけのプリントを前に、ただ茫然と頭を抱えていた浩人に、里村先生は、懇切丁寧(こんせつていねい)に教えてくれた。それはまるで、猿にものを教えるようであった。浩人は内心少々情けなく、恥ずかしくもあったが、同時に里村先生には有難く、嬉しかった。それから浩人は、自ら率先して出席した。毎日朝早く、この特別授業に出席する内に、それまで皆目解らなかった因数分解の問題が、やがて解けるようになった。複雑な問題は、さすがに手に負えなかったが、それでも浩人には、画期的な進歩であった。
(続く)
冬休みは永かった。慌ただしい年末年始の二週間を、これほど永く感じたことはなかった。三学期が待ち遠しく思った。しかし一方で、三週間余り後に迫る高校受験が、重くのしかかってもきていた。三学期に入ると、さすがに教室にも、受験への緊張感が漂い始めた。
朝、浩人は白い息を吐きながら、北校舎の階段を一気に三階まで駆け上がった。そしていつも通り三年二組の教室の扉に手を掛けようとした時、全身がぴくり、として固まった。廊下から教室の中を覗くと、窓の薄っぺらな板ガラスの向こうに、何人か人が見えた。大勢の生徒がいる。まだストーブに火も入っていない寒い寒い教室には、音もなく声もなく、二十人ほどの生徒が机の上のプリントに向かっていた。よく見ると黒板の前には、裾の長い白衣を着た数学の里村先生がいた。生徒の顔ぶれも、二組の者だけではなく、見馴れない他のクラスの生徒もいる。受験対策に数学の特別授業が、早朝から行われていたのだ。浩人は数学が大の苦手で大嫌いだったから、そんな授業が始まっていたなんてことを、気にも留めていなかった。それにしても、思わぬ閉め出しをくらってしまった形になった。
「よりによって、二組の教室使わんでもええやないか」
特別授業が終わるまで、浩人は廊下に突っ立って、ブツブツぼやきながら待った。授業の後、誰かの尻に温められた椅子に座るのは、どうも気色のいいものではなかった。
そういう朝が何日か続いた。その何日目の朝であったか、やはり浩人が廊下に突っ立って、特別授業が終わるのを待っていると、教室から里村先生が出てきた。
「君もやってみるか」と、先生は数字や放物線ばかり書かれた、プリントを差し出した。「え……、いや、僕はいいです」と拒む浩人の背中を軽く叩きながら「ほれ、ええがな、まあそう言わんとやってみいな、ほれほれ……」と、里村先生は浩人をせき立てるように教室に招き入れた。特別授業は、受験対策に本格的に勉強したい者だけが受ける為の授業であって、自分のような数学劣等性が受ける為の、補習授業ではないのに……と浩人は思った。教室では何か場違いな感じで、自分だけが浮いているようにも思った。
しかしそんな数学音痴の浩人にも、里村先生は優しかった。机の上に置かれた数字だらけのプリントを前に、ただ茫然と頭を抱えていた浩人に、里村先生は、懇切丁寧(こんせつていねい)に教えてくれた。それはまるで、猿にものを教えるようであった。浩人は内心少々情けなく、恥ずかしくもあったが、同時に里村先生には有難く、嬉しかった。それから浩人は、自ら率先して出席した。毎日朝早く、この特別授業に出席する内に、それまで皆目解らなかった因数分解の問題が、やがて解けるようになった。複雑な問題は、さすがに手に負えなかったが、それでも浩人には、画期的な進歩であった。
(続く)